5話 新しい生活
ロベリアの朝は、一杯の茶から始まる。
小鳥がさえずり、窓から朝の陽ざしが差し込む頃、薔薇のような甘い茶の香りで起こされるからだ。
「主、おはようございます」
「…………」
眠い瞳をこすりながら、ロベリアは身体を起こす。
ベッドに下には、ナギの姿があった。ベッドサイドのテーブルには淹れたての茶が置かれており、下にはナギのものと思われるカップが置かれている。
「ナギ、おはよう。でも、気遣わなくてよいのよ。私は頼んでいないのだし」
「俺が主と飲みたいから淹れているんだ」
ナギはそう言うと、茶を器用に舌で舐め始める。
幸せそうに目を細め、ゆっくり嗜んでいた。その言い分に嘘はなさそうで、ロベリアは少し肩を落とした。
「そうですか……ありがとう」
こうして、ロベリアは朝のお茶を飲む。
自分の腕で抱えられる程度のドラゴンが、どのようにお茶を淹れるのだろうか?
一度見てみたいことだが、本人が嫌がっているので追求しないでおく。
「……美味しい。もしかして、庭のオレンジを入れた?」
「ああ。落ちてたから」
ナギは嬉しそうに尻尾を振る。
まるで、子犬みたいだなんて思いながら、ロベリアはベッドから降りた。
「朝食は私が作るから」
ロベリアは窓を開け放った。
カーテンが揺らぎ、若葉の清々しい香りと薄ら漂う花の匂いが風に乗ってきた。王都では味わえない新鮮な空気が身体を満たし、心地の良く包み込んでくれる。
ロベリアは深呼吸を終えると、身支度を始めた。
真紅のエプロンドレスを身に纏うと、ナギが用意してくれた茶器を手に台所へ向かう。ナギが後ろからちょこちょこついてくる気配を感じながら、ロベリアは朝食の支度を始めた。
「秘密の庭」には、一軒の家がある。
クロックフォード伯爵家の家と比べたら小屋も同然だが、ナギとの二人暮らしには広すぎる家だ。蜂蜜色の石を積み上げた平屋建ての家。戻ってきた当初は埃だらけで、箒についた蜘蛛の巣を払いながら掃除をすることになったが、二日も掃除に専念すれば、住み心地の良いレトロな家に戻っていた。
「今日は何をする?」
ロベリアがリゾットをテーブルに並べていると、ナギが下から尋ねてきた。
「そうね……まずは雑草取りと使えるもの探しかしら」
「使えるもの?」
「そう。秘書官時代のお給金はあるけど、節約しないといけないから」
ロベリアは苦笑いをした。
大臣の秘書官をしていた頃、そこそこの給料を貰っていた。十年間は慎ましく生活できるだろうが、それ以降は保証できない。庭を自分好みに維持するにも金がかかるし、お金はいくらあっても足りないのだ。
ベガから「庭暮らしの知恵」なるものを伝授されているが、実際のところどれだけ役に立つのか分からない。
「そう……お金や庭が安定してきたら、新しいテーブルクロスも作りたいわね」
ロベリアは色褪せた赤いチェック柄のテーブルクロスを撫でながら呟いた。
カーテンも色褪せていたし、暖炉の上のレース飾りも黒ずんでしまっている。庭仕事だけじゃなくて裁縫もやりたいし、ベガが残してくれた料理の本からお菓子作りとか学びたい。
「あー、時間がいくらあっても足りないわ!」
やりたいことがたくさんある!
ロベリアが頬を綻ばせている一方、ナギはしかめっ面をしていた。リゾットの皿をすんすんっと嗅ぎながら、不満そうに呟く。
「主、苦い草を入れたな」
「苦い草ではありません。昨日採った薬草です」
ロベリアは指摘した。
「体力を回復させる草よ。まだ弱っているのだから、無理しては駄目」
「だが……」
「本当に元気になったら、もういれないから」
ナギは渋い顔でリゾットを食べ始めた。
朝、茶を淹れていてくれるのは嬉しいが、身体つきは弱弱しいままだ。どうみても、本調子には程遠い。体力が減ったらすぐに薬を飲むのは、本来の回復力が落ちてしまうので駄目だと聞いたことがあるが、元から大量に減っているのだから、薬を使っても問題あるまい。
「そうね……薬は良い案かも」
食事が終えると、ロベリアは早速籠を手に庭へ繰り出した。
家のほとりには、畑が広がっている。
少し先には小川が流れ、こぢんまりとした池に続いていた。池の周囲には、ロベリアたちが入って来た樫の森が広がっている。
ベガと一緒に手入していた頃は、整えられた庭だったのだが、数年もほったらかしだったせいで、とても荒れていた。畑の芋は野生化し、土が固くなっている。ハーブ園の香草たちはスイセンの花畑を覆いつくし、他の名も知らぬ草花が道を塞いでいた。
道の一部は僅かに窪んでいるだけの草っぱらになってしまっている。
ロベリアは石が敷かれた道を進みながら、昨日の続きの草むしりをし始めた。ナギの爪では雑草を採ることはできない。彼はロベリアの周りを暇そうに歩いていたが、ふと「名案だ!」とばかりに飛び込んできた。
「主! 息を吐こうか? そうすれば、雑草を一網打尽にできるぞ!」
「駄目よ。こんなに草が生えているのだもの。火事になってしまうわ……あっ、あった!」
草をむしりながら、ロベリアは歓喜の声を上げた。
濃い緑の中に、薄らと若い緑の薬草の群れがこぢんまりと生えていた。
「薬草の一種……そんなに嫌な顔をしないで。これは風邪に効く薬草ですから」
ロベリアは薬草を摘むと、その周囲の雑草を丁寧に採り始めた。
ナギはぺたんっと身体を地面に伏せると、ロベリアの足元で尻尾を揺らしていた。そのうち、眠たくなってきたのだろうか。うつらうつらと船を漕いでいる。
ロベリアが薬草の周りを整え、数本の薬草を籠に入れた後、彼に視線を落とせばすやすやと瞼を閉じていた。
「しばらく寝かせてあげましょうか」
ロベリアは、そっと立ち上がった。
とった雑草を拾い集め、林檎の木の下に開けた大穴の中へ放り込んだ。昨日放り込んだ萎びた草の上に、新しい色の草が覆いかぶさる。一度では終わらないので数度、往復しなければならない。最後の草を穴に放り込んだときには、太陽は中天を過ぎていた。
ロベリアはナギの元に戻る。
ナギの鼻の頭で蝶が羽を休めているのに、全く起きる素振りがない。
もう少し寝かせてあげようかしら、と思ったが、何も言わずに彼を置いて一人で家に戻るわけにはいかない。
ロベリアは、
「ナギ、起きて」
と、言いながら背中を揺すろうとした。
ナギの反応は凄かった。
ロベリアの指が背中に触れるか触れないかの瞬間、ナギの瞼がいきなり開き、深緑色の瞳が恐怖に染まった。すばやくロベリアの手元から離れると、三つも数えぬ間に十歩以上先まで行き、頭を深々と下げた。
ロベリアが驚いて立ち竦んでいると、ナギは素早く謝り始めた。
「申し訳ありません! 眠っていました、すぐに仕事を――………あ……」
しかし、ロベリアがまじまじと見ていると、どうやらロベリアのせいだと気付いたナギは、途端に表情の緊張を緩めると、ふらりと揺れた。そうして、その場にぱたりと突っ伏してしまった。
「……すみません、主」
「私は、眠ったくらいで怒りませんよ」
ロベリアはナギに近づくと、屈みこみんだ。
きっと、前の主人の影響だろう。ロベリアはナギに手を伸ばそうとした。けれど、一瞬、その手を止める。
「……触って良い?」
ロベリアが尋ねると、ナギは小さく頷いた。
ロベリアはナギの頭に触れる。赤くて硬い鱗の艶はまだ戻っていない。ところどころ、鱗が剥げてしまっているところもある。これが早く治れば良いな、と思いながら、ロベリアは言葉を続けた。
「私が怒るのは、ナギがいけないことをしたときだけです。いけないこと、というのも抽象的過ぎるかもしれませんが、少なくとも、ナギに無理強いすることはしません」
薬を飲まないこと以外は、とロベリアは笑った。
ナギは固まったまま、黙って聞いている。
「私は、ナギとのんびり暮らしたいと思っています。
一緒にお茶を飲んで、一緒に食事をとって、一緒に庭を散策して、一緒に眠って……貴方が嫌だなと思ったときは拒否して構いません。手伝って欲しいことをお願いすることもありますが、辛いなと思えば断っても良いです。
私は……前の主とは違うところもあると思いますが、ゆっくり慣れていきましょう」
ロベリアは撫で続ける。
最初は冷たかった鱗が、徐々に熱を帯び始めてきた。ナギが頭を振るったので、ロベリアは手を退ける。
「……それで、主。この後、何をするつもりだ?」
ナギは頭を下に向けたまま、囁くような声で問うてきた。
「そうね、まずは家に戻って……お昼をとったら、薬を作りましょうか!」
「……俺は薬、嫌いだ」
「大丈夫です。これは金策の一つですから!」
ロベリアは薬草のはいった籠を掲げると、にやりっと悪戯っぽく笑った。