46話 薬の時間
あとがきで報告があります。
明け方。
ロベリアは一人、台所に立っていた。
むわりと湯立つ鍋をかき混ぜていると、閉めたカーテンの隙間から眩い光が差し込んでくる。
昨日から降り続いていた雨が、ようやく上がってくれたらしい。
「そういえば、雨音が聞こえなくなってたわ」
ロベリアは空いている方の手で、カーテンを開け放つ。
長い雨が雲を洗い流したかのように、青々と透き通った空が広がっていた。ロベリアはくうっと背伸びをした。
「気持ちのいい朝ね」
腕を伸ばすと同時に、あくびがこぼれた。
しょぼしょぼとした目を指で拭いながら、鍋をかき混ぜ続ける。
窓辺の木々に目覚めた小鳥たちが歌い、裏手の家畜小屋から鶏の甲高い鳴き声が時を告げる。もうすっかり朝だな、と感慨深げに思っていると、後ろから声をかけられた。
「主? 今日は早起きだな」
「おはよう、ナギ」
ロベリアが振り返ると、ナギはロベリアの肩辺りの高さで滞空していた。そのまま翼を一度羽ばたき、すうっと上昇し、鍋を覗き込んだ。
「薬作りか?」
「夜中、思いついたのよ」
ロベリアは金色の液体をかきまぜる手を休めることなく答えた。
「この間、お父様からの手紙を見つけたでしょう? あの頃、まだ子どもだったから、ほとんど覚えていなくて……もしかしたら、私が気付かなかっただけで、もっとお父様が愛してくれたことがあったのかなって思ったのよ」
「それは……薬作りと関係があるのか?」
「もしかしたら、大事なことも忘れているかもしれないってことよ。たとえば、私は、お母様が豹変したきっかけやルージュの秘密を忘れているだけで、すでに知っているかもしれない。だから、『思い出し薬』を調合してみることにしたのよ」
幸いなことに、材料は問題なかった。
本来なら高地や魔窟の奥地に行かなければ手に入れられない貴重な材料が必要になるのだが、不思議なことにわざわざ地下室の貯蔵棚の奥に一式揃っていたのだ。
まるで、ベガがこの薬を調合することを予期していたように思えてくる。
「さあ、できたわ」
ロベリアは頬を緩めると、金の液体をコップですくってみる。
ぴちぴちと表面に泡が立ち昇り、弾けては消えていた。
「それ、飲むのか?」
ナギが怪訝そうに目を細めた。
「危険だろ?」
「大丈夫よ。ちゃんと本の通りに作ったもの。材料の分量、入れるタイミング、右に五回かきまぜた後、左に三回転を一時間、しっかり繰り返したわ」
間違っているはずがない。
ロベリアは確信すると薬を一気に飲み干した。
そして――
「……どうして、こうなった」
ナギは頭を抱えた。
ナギの制止を待たず、ロベリアは薬を飲んだ瞬間、その場に倒れこんでしまったのだ。ナギは慌てて人化すると、すぐにロベリアの脈を確かめる。呼吸も脈も安定し、顔色も悪くない。薬の副作用か何かなのだろうか。
ナギはひとまずロベリアをソファーに寝かせると、彼女が参考にしていた本に目を落とした。
「……主の言ったことが正しければ、材料も手順も間違っていないと思うが……」
正直なところ、字の読み取りは得意ではない。
ナギはしかめっ面で文章を読んでいると、
「……あの……」
くいっとシャツの裾を引っ張られる。
「主! 良かった、起きたの……か……?」
安堵の息とともに言葉を吐こうとしたが、ロベリアに起きた異変に言葉を失った。ロベリアの顔はいつもよりもずっと下、腹のあたりにある。背まで伸ばした金髪は肩口で切り揃えられ、お日様色の瞳は不思議そうにこちらを見上げていた。
「お兄さん、ベガに会いに来たの?」
小さくなったロベリアは、普段よりも少し甲高い声で問うてきた。
「羽が生えたお客さま? おおきな妖精さんなの?」
「俺を覚えていない、のか?」
「え……あ、ごめんなさい。わたし、分からないです」
ロベリアはしゅんっと落ち込んでしまった。
ナギはいつもロベリアがしてくれたように腰をかがめて、彼女と視線の高さを合わせてみた。どのような表情で、なんという言葉をかければよいのか。
「あの……」
「いや、気にすることはない」
悩んだ末、いつものような調子で話すことに決めた。
「君は、ロベリアであってるのか?」
「は、はい。ロベリア・クロックフォードです」
ロベリアは緊張気味に答えると、スカートの裾を軽く持ち上げた。
普段の青いエプロンドレスではなく、白いワンピースをまとっていた。ところどころレースで縁取りされているのが、可愛らしく、非常によく幼子と似合っていた。
「あなたは、ベガのお客さま?」
「俺は……まあ、そんなところだ。俺のことよりまず、君はどうしてここにいる?」
まずは、状況の確認だ。
彼女は「ロベリア」と名乗っていたが、明らかに6、7歳前後の娘になってしまっている。自分のことを知らないことや話す様子、服装の変化からするに、ただ身体が縮んだわけでもなさそうだ。
「えっと、私はね、ベガとここに住んでるの。本当は、おじさまの家に住まないといけないんだけど、ベガが内緒で連れてきてくれたの」
「おじさまの家? 失礼だと思うが、ご両親は?」
「お母さまがね、妹を産むんだって。だから、しばらくおじさまの家に行ってきなさいって」
「そうか、妹が生まれるのか」
「うん! 私、お姉ちゃんになるの」
幼子はどこか得意げに胸を張った。
先ほどまであった緊張や落ち込んだ雰囲気はたちまち消え、楽しそうに笑っている。
普段のロベリアにはない可愛らしさだ。ナギが自然と目を細めていると、幼いロベリアはきょろきょろと辺りを見渡した。
「でも、おかしいな。ベガがいないの。いつも傍にいてくれるのに……」
「ベガさんは……すこし出かけている。その間、君のことを頼むと」
ナギは、咄嗟に嘘をついた。
ベガはいない。かといって、勝手に探しに歩き回られたら困るし、こちらが不審者扱いされたくもない。
「俺は……ドラゴンだ。いまは人間に変身している。ドラゴンは元来、宝物を守る習性があってな、大切なものを守ることに長けているのさ」
「ドラゴンさん!?」
ロベリアはちょっと驚いたように瞬きをしていた。
「ああ、俺は君を守ると誓ったんだ」
「おおげさって言うんだよ、それ」
彼女はくすりと微笑んだ。
「でも、よかった。ドラゴンさんなら安心ね」
「怖い泥棒だと?」
「ううん、幽霊かと思ったの」
「ゴースト?」
「あ、信じてないでしょ!」
ロベリアはぷくっと頬を膨らませて怒った。
「ここね、絶対にいるのよ。一人でトイレに行くときや地下室に薬を取りに行くとき、誰かがいる気配がするんだから」
「大丈夫だ、幽霊なんていない」
ナギは断言した。
幽霊は人の勘違いからくるものだ。木々が揺れる音や家がきしむ音、自身の思い込みが幽霊を形作っている。その証拠に、ナギが数か月住んでも異常現象は起きなかった。
「気のせいだ、そんなもの」
「……そうね。よかった! あ、その、ドラゴンさんの後ろにいる黒髪の女の人もお客さま?」
「…………え?」
ふいに水を浴びたように心が震える。
ナギは、ゆっくりと後ろを振り返った。
「誰も、いないぞ?」
「さっきまで、いたの! 嘘じゃないよ!」
ロベリアは主張していた。
お日様色の瞳を一杯に開き、真剣な表情でこちらを見上げている。まっすぐ意志の強そうな瞳に現在の彼女の姿が重なり、同一人物なのだな、と感じた。
「……わかった、信じる」
「……本当に?」
「本当だ」
ナギが頷き返せば、彼女はよかったーと頬を緩めた。
「ベガはね、信じてくれないのよ。『いずれ分かる』だけしか言わないの」
「まあ、そういうものかもしれないな」
幽霊を信じろ、と言われても、なかなか信じられるものではない。
「しかし、困ったな。そんな不気味な存在がいる場所に、主を住まわせていいのか?」
「主?」
「いや、こちらの話だ。……君は、これまでにも幽霊を見たのか?」
「うん! あっちのお風呂場で会ったよ!」
案内してあげる! と幼子は宣言すると、ナギの手を握ってきた。
「……しかし、幽霊探しか」
個人的には、ロベリアが無事に戻る方法を探したい。
彼女の手を離し、「あとで教えてくれ」と言いたかった。
だが……
「まあ、少しくらいは」
幼子の手は夏の雲のように白く柔らかい。ナギは彼女の手を爪で傷つけないように加減しながら、おずおずと手を握り返す。すると、ロベリアの握る力が嬉しそうに強まった。
夏の夢だと思って、幼い彼女に付き合ってあげよう。
ナギは困ったように笑いながら、幼い彼女と小走りで現場へと向かうのだった。
「伯爵令嬢はドラゴンとお茶を嗜む」の書籍化が決定しました!
レーベルは、Mノベルスf(双葉社)様から出版されます。
今年の夏から秋にかけての発売になります!!
Web版より楽しく面白くわかりやすくなるように、かなり加筆しました。
あと、すばらしい挿絵がついています!(ここ重要!
ここまで来れたのは、読者の皆様のおかげです。
本当にありがとうございました!
刊行についてはまた、追ってご連絡させていただきたいと思います。
書籍版共々、今後ともよろしくお願いします!




