26話 おひさまの記憶
金髪の女の子がいた。
ゆるっと髪の毛をカールさせた子どもは、深緑色の髪を豊かに伸ばした女性の隣に腰を下ろしていた。何が嬉しいのか、橙色の瞳をキラキラ輝かせながら、床に着かない足をふらふら動かしている。
「……私とお母様……?」
ロベリアは呟いた。
静かすぎる呟きは、世界に大きく木霊する。それなのに、3歳の自分と母親の反応はない。二人は他愛もないおしゃべりをしている。だから、これは夢。母親から幸せを貰っていた、最後の頃の夢だ。
この夢に浸るように過去の自分に近づくと、懐かしい話に耳を傾けることにした。
『ねえ、お母様。このご本を読んでください! すてきな本だな、って思いましたの!』
『ふふふ、ロベリア。これは随分と難しい本を持ってきたのね』
母親は柔らかく微笑むと、幼い子どもから本を受け取った。
それは辞書のように分厚く、装丁が豪華だった。なにせ、金糸で題名が綴られている。表紙は絵師が渾身のよりをかけて描いたと思われる、魔法使いがいた。とても古そうな塔の上に立ち、黒いマントを翻していた。魔法使いは、見たことのない魔物と対峙していた。頭は獅子でドラゴンのような羽を生やし、尻尾は蛇でできている。
『お母様、これなに?』
『この生き物はキメラというのよ』
母親は緑の髪を耳にかけると、折れそうなほど細い指で本を開いた。
『魔法使いと七つの試練。
魔法使いのアンタレスと聖女のリーラが七つの試練を乗り越えて、幸せに暮らす話。このキメラを退治したり、あとは……ほら、ここ。川の魔物が惑わす唄を暴いたり、九人の盗賊をこらしめたり、蛇の魔物の呪縛を解いたり、ドラゴンの怒りを鎮めたりするの』
母は本をめくり、挿絵を指さしながら説明してくれる。小さなロベリアは挿絵を食い入るように眺めていた。最後のページは、魔法使いと聖女が幸せそうに手を繋ぎ、森の奥へ去っていく絵で締められていた。
『これ、変だわ。幸せになったのに、まだ悪い魔物を倒すつもりなのかしら?』
せっかく幸せをつかんだのに、街で豊かな暮らしをしないで、森の奥へ入っていく。
その結末に、幼いロベリアは納得がいかなかった。
『わたしは嫌。幸せになったのに、怖い思いをしたくないわ』
『あらあら、お母さんと同じ意見ね。でも、この二人は怖い思いをしないのよ。この森の奥で、静かに暮らすのだから』
『ふーん……』
当時のロベリアには理解できなかったが、今のロベリアなら納得がいく。
有能すぎる魔法使いと精霊に愛され女神の落とし子とされる聖女。各国から自国へ招き入れ、あわよくば戦力として利用しようとしてくるはずだ。
二人っきりで幸せになるなら、人里離れた場所で名を変え暮らすしかない。
『ねぇ、お母様! 私も魔法使いになれるかしら?』
無邪気に尋ねると、母の橙色の瞳はきょとんとした。
『わたし、魔法使いになりたい! 強くてカッコいい魔法使いに!』
『まあまあ。魔法使いになるなら、精霊に愛されないとなれないのよ。わたしもお父様も精霊は見えないし……でも、そうね……もし、精霊が見えるのであれば、魔法使いになれるかもしれないわ』
母は目尻を和らげると、幼いロベリアの肩を抱きかかえた。
『でも、私はロベリアが魔法使いになって欲しくないわ。危険がいっぱいだし、離れ離れになってしまうもの』
『うう、それは嫌だわ』
幼いロベリアは身体を傾けると、母に寄り添った。
『お母様とずっとずっと一緒にいたい』
『あらまあまあ。優しいわね、ありがとう』
母は優しき抱き寄せる。
現在のロベリアは黙って見守っていた。仲睦まじい母娘を眺めていると、当時のことが蘇ってきた。母の身体は細いのに、柔らかく温かった。薄らとお日様の香りがしたのを思い出す。幼いロベリアは母に抱き寄せられ、うっとりと目と閉じていた。
『お母様、お日様の匂いがする』
『一緒にお散歩をしたからかしら。ふふ、ロベリアからも同じ匂いがするわ』
『本当?』
幼いロベリアは薄らと目を開ける。母はロベリアも目元を軽くなぞり、心から嬉しそうに微笑んだ。
『香りだけではなくて、瞳もよ。お日様の瞳。優しくて暖かい、お日様みたい』
『私の目は、お母様と一緒よ』
『…………そうね。お母様と一緒』
それから先は、現在のロベリアは見てられなかった。
あまりにも幸せ過ぎる夢に顔を背け、ぎゅっと目を閉じた。早くこの夢が覚めて、現実に戻るようにと。
しかし、この夢は終わってくれなかった。
『マリア! ロベリア! 帰ってきたぞ』
そろそろ覚めそうだったのに、第三者の声に目を開けてしまった。
部屋の扉が開き、金髪の男性が入ってくる。ロベリアの父親だ。現在よりも二回り痩せ、オーダーメイドの一張羅が良く似合っていた。
彼の半歩後ろには、ベガの姿もある。幼いロベリアは元気よく立ち上がると、父に抱き着こうと走りだす――が、はしたないと思ったのだろう。マナー教師に教えてもらったことを思い出しながら、上品にスカートの裾を摘まみ得気な顔で一礼した。
『お父様! ベガ! お帰りなさい!』
すると、父は陽気に笑いながら、幼い娘を抱き上げた。
『いやー、素敵な礼だったぞ! お姫様かと思った!』
父が高く掲げ上げるので、幼いロベリアはきゃっきゃと笑っている。
『貴方、お帰りなさいませ。お勤め、ご苦労様でした。こんなに遅くまで……大変でしょう?』
『いや、すまない。もう少し早く帰る予定だったのだが、アステロイドが凡ミスをしてな。大事な会合の文章だというのに、かなり酷いミスで手伝いをしていたのだ。その流れで夕食も食べてくることになってな。ついでに、彼を送り届けたからここまで遅くなってしまった』
『はい。それは執事から聞きましたわ。
ですが、最近帰ってくるのが遅くて、ロベリアも心配していますのよ?』
『俺だって、早く帰りたいと思っているさ! 特に、ロベリアには絶対に会いたい! なにせ、俺自慢の最高に可愛い娘だからな! どんなに遅くなっても、必ず顔は見たい。一日に何度も会いたい!』
『はい、私もお父様に会いたいです!』
幼いロベリアは少し不機嫌になった父親に抱き着いた。母はお日様の香りだったが、父からは爽やかで、落ち着くような香りがする。父と会って安心したのか、幼い娘は抱き着いたまま瞼を閉じた。
どこまでも、幸せで裕福な家庭。
それが、ああ、なんで――。
「……主、……主!!」
声がする。
とんとんと軽く腕を叩く音。薄ら目を開けると、ナギが心配そうに覗き込んでいた。
「大丈夫か? うなされていたぞ?」
「うなされ……てた?」
ロベリアは目をこすりながら半身を起こす。
うなされるようなものではない、幸せな夢をみていた気がした。
「朝のお茶を淹れようと思ったら、主の呻き声が聞こえたんだ」
「いやだ、そんなに大きな声だった?」
ナギは深々と頷くと、ロベリアの枕もとを一瞥し、呆れたように息を吐いた。
「大方、夜更かしをしたのだろ? 昨日はヴィーグル兄妹と草むしりをしたというのに」
「夜更かし……そう、そうだったわ」
フローライトの魔法を使う姿が魅力的で、魔法使いの出てくる本を読んでいたのだ。読んでいる途中で眠くなってしまったので、本は開かれたままだった。
もしかしたら、これが原因であんな夢を見たのかもしれない。
「主……なんだか、寂しそうだぞ?」
ナギは気遣うように顔を寄せてくる。ロベリアは彼の頭に手を乗せると、優しく撫でた。
「大丈夫。ちょっと昔のことを思い出しただけだから」
「昔?」
「そう。子どもの頃。妹が生まれる前の頃のことよ」
ロベリアは応えながら、ベッドから降りた。
「お茶、淹れてくるか?」
「ううん、いらないわ。私、着替えるから朝食にしましょう」
お茶を断ると、ナギはすんっと俯いた。
「落ち込まないで。ナギのお茶が嫌いというわけではないの。王都の高級カフェの店員よりずっと上手いわ」
「そんなことない、俺なんてまだまだ……」
「ナギ、謙遜しすぎ」
実際、ナギの腕前はプロ級だ。
ロベリアがコツを教えたのは最初だけで、どんどん上達していく。同じ茶葉を使っているのに、毎朝ごとに香りの立ち方や味の深みが増しているのは紛れもない事実だった。
「いずれ、私も追い越すかもね」
「主こそ謙遜しすぎる」
ナギが抗議の声を出したとき、窓の向こうから魔山羊の鳴き声が聞こえた。朝食を催促するような声に、ロベリアはくすっと笑い、良いことを思いついた。
「そうだ。たしか、スコーン残ってたわよね?」
「ああ。今日の朝にするか?」
「今日のおやつにしましょう! せっかく山羊がいるのだもの!スコーンにふさわしい御伴を作ろうと思って」
ロベリアは自分の声が高くなるのを感じた。ナギもほうっと興味深そうに目を見開く。
「もちろん、俺も手伝っていいんだよな?」
「当然よ! 一緒に作りましょ!」
ナギは嬉しそうに尻尾を揺らすと、「はやく着替えて来い」と言いながら、足取り軽く退出した。心なしか、廊下を歩く音がスキップみたいに弾んでいる。
「ナギ……可愛い」
ロベリアは口元を緩ませながら、服を着替えようとして、ふと……止まってしまった。
幼いころの夢。
とても幸せで温かった。
今も幸せだ。
ナギとの日々は、お日様のようにぽかぽか暖かい。
「でも、ナギが変わってしまったら……?」
鉛のように重くなった心が、弾んだ気持ちを押し潰してしまう。
ロベリアは、なんだか無性に寂しくなった。
誤解を与えるようなサブタイトルだったので、前回のタイトルを変更しました。
明日の更新はお休みします。次回は25日の午後に投稿します。




