25話 騒動と魔法の精霊
この回は、少し残酷かもしれません。
そういうのは嫌だな、と思う方は、この回を飛ばして次の話をお読みください。
※サブタイトル変更しました。
「どうしたの!?」
ロベリアは悲鳴の方へ急行した。
家を震わすほどの鋭い悲鳴。ナギがついているから、何かあっても対処できるだろうなんて甘いことを考えていたのが不味かった。兄妹、そしてナギは無事だろうか、何が起こったのだろうか。
「大丈夫!? 一体なにが……!?」
ロベリアが部屋の角を曲がると、フローライトが涙を流しながら腰を抜かしている。ジェイドは脚をがたがた震わせながら、腰の剣を抜いていた。二人の戦々恐々とした視線を辿った先には……
「主、問題ない。これが出ただけだ」
ナギがいた。
部屋の隅で、堂々と立っている。訂正。ナギだけではない。ナギはネズミの長い尻尾を踏んでいる。ネズミは拳二つ分ほどもある大きさで、逃げ出そうともがいていた。だが、ナギの足は尻尾を力強く踏んでいた。
可哀そうだが、逃げ出せそうにはない。
「このまま処理してきていいか?」
「そうね……ネズミ捕り用の籠があるから、それを使いましょう」
「そんなことしなくても、俺が火を吐けば一発だぞ?」
「駄目よ。臭いが出るもの」
ロベリアとナギが話し合っていると、ジェイドが恐々と震える声をかけてきた。
「あ、あの、ロベリアさんは、ネズミが怖くないんですか?」
「あら? 貴方たちの家には出ないの?」
「それは、出ますけど……こう、突然出てきたから、びっくりしちゃって……いつも、両親や上の兄さんたちが、処理してくれるから、直に見たことはないんです……」
ジェイドが言うと、フローライトが涙目でこくこくと頷いた。
「お、お母さんが悲鳴を上げることがあったけど、すぐに、お父さんやお兄ちゃんたちが退治してくれててたの……だ、だから、わたし、その、びっくり、しちゃって……」
「そうよね。私もここにきて、初めてネズミなんて見たもの」
伯爵家にいた頃、ネズミなんて縁遠い生活を送っていた。
実はいたのかもしれないが、この兄妹のように実際に目にすることはなく、この庭の家に来て初めて目撃してしまった。
あのときは、フローライトのように腰を抜かし、完全に言葉を失くした。黒光りする虫が出た時以上の衝撃で、ネズミの方も「やばい」と思ったのか、すぐに物陰に逃げ込んでしまった。
『ベガ、ネズミが! ネズミがいたのよ!?』
『大丈夫ですよ、お嬢様。落ち着いてくださいませ』
ロベリアがベガに泣きつくと、彼女は優しく微笑んだ。
『ネズミはどこにでも出るのです。ほら、あのクロックフォードの御屋敷にも、ネズミが出るんですよ。その都度、使用人たちが退治していたのです。
さてと、私たちも悪しきネズミどもを退治しましょうか』
『え、私が見たのは一匹だけよ?』
『一匹いたら、数匹はいると覚悟してください。いいえ、もしかしたら、十匹、二十匹いるかもしれません。ネズミは短期間に沢山子どもを産みますからね!
さあ、お嬢様! 一緒に殲滅しましょう!』
ベガがきらきら輝く笑顔で物騒なことを言ったので、当時のロベリアは顔が引きつった。口元がひくひく動くのを感じながら、ベガの後をついて退治に乗り出したのである。
最初は可哀そうだと思ったが、ベガ曰く、ネズミの身体には不衛生なものがいっぱい付いているらしい。しかも保存していた果物や野菜、大事にしまっていた菓子の袋を破って盗み食いするのだ。ネズミが齧ったものを食べるわけにはいかないし、ネズミには悪いが退治するしかない。
とはいえ、やはりベガにも罪悪感はあったのだろう。
ネズミを処理するときには、必ず
『次はこんな末路を遂げない生き物に生まれ変わりますように。安らかに暮らせますように』
と、口ずさんでいたのだから。
王都で仕事中、執務室にネズミが出たときも、大臣が悲鳴を上げ、同僚のランスと一緒に捕獲し、使用人に渡したときも、そして今も、彼女の祈りが頭の中に流れていた。
「ごめんなさいね、驚かして」
先ほどの一匹を処理した後、ロベリアは兄妹たちのところへ戻った。
当然、処理の後だから石鹸を惜しみなく使い、入念に手を洗ったあとだ。ロベリアがナギの前足を念入りに洗うと、彼はもどかしそうに身体を揺らし、
『自分で洗う!』
と言ったが、ネズミを捕らえた足だ。ロベリアが納得いくまで洗ってもらわないと困る。
なので、ネズミ捕りの功労者の機嫌は斜めだった。
「ナギ、そう落ち込まないで。今日の夕食は、ナギの好物を作ってあげるから。ミートパイ、好きでしょう?」
「…………肉、たっぷり入れてくれるなら」
「もちろんよ。豪華にしましょう」
ロベリアが微笑を浮かべると、ナギはぷいっと顔を背けたまま椅子に飛び乗った。いまだ不愉快そうに顔を背けていたが、夕食が楽しみなのだろう。尻尾が楽しそうに揺れているのは隠しきれていなかった。
ロベリアはナギから目を逸らすと、兄妹の方に顔を向けた。
「貴方たちのおかげで奴がいると分かったから助かったわ。被害が出るまで、気が付かなかったかもしれないもの」
正直、奴らが台所の隅で生活しているのに、気づかず料理をしていたら……とか思うと、氷水を頭から被ったように、ぞわっと身体が冷え込み、背筋が凍るようだ。
兄のジェイドの方は気を取り戻し、安心したように肩を落としていたが、フローライトは悲しそうに眉をひそめていた。椅子に座っていたが、ぎゅっと拳を握りしめ、身体を少し震わせていた。
「だけど、私たちが見つけちゃったから……」
「フローライト。見つけて良かったのよ」
ロベリアは少しだけ屈むと、彼女と目を合わせた。
「ネズミはね、貴方の命を狙いに来ているの。狙いに、といったら少し過激すぎかもしれないけど……人には悪い病気を持っているかもしれないわ。私は病気にかかりたくないし、貴方もそうでしょう?」
「……そうかもしれない。でも……」
「だからね、お祈りしましょう」
彼女の小さく柔らかい手を握った。ロベリアが握ると、フローライトは少し驚いたように目を見開いた。
「お祈り?」
「そう、お祈り。女神様へお祈りするのよ。あの子が次は善き生を歩めますように」
「転生できるように?」
ロベリアが頷くと、彼女はぎゅっと目を瞑った。一分ほど、強く目を瞑っていた。その間に少しずつ震えが収まり、顔に血の気が戻ってくる。ゆっくり目を開けたとき、黒い瞳に寂しそうな色は残っていたが、先程よりも随分とマシな顔になっていた。
「ロベリアさん、ありがとう。私、お礼にこの部屋を綺麗にするわ!」
彼女はそう言うと、魔法の杖を取り出した。
軽快に部屋の中央に立つと、ガウンの袖をまくり上げた。数度、心を落ち着かせるように呼吸をすると、白く長い杖を高らかに掲げ上げ、謡うように古の言葉を呟いた。
「お願い……『風の精霊、水の精霊、力を貸して』」
白い杖の先端が輝き、そこを中心に風が巻き上がる。すると、風の中に小さな影が現れた。握り拳ほどの精霊は楽しそうに緑のスカートを翻し、すうっとロベリアの脇を通り抜けた。風の精霊の後から、別の精霊が薄らと生えた空色の翼を羽ばたかせる。フローライトが箒で掃くように杖を払えば、精霊たちはくすくす笑いながら埃を払い、床を洗った。ロベリアが拭いても取れなかった黴や汚れも数分もしないうちに姿を消し、まるで新築のような輝きを取り戻していた。ほのかに木の匂いまで漂ってくる。
「凄い……!」
ロベリアが感心していると、フローライトも目を見張っていた。
「精霊たちが、こんなに楽しそうに仕事してくれたのは初めて!!」
「うん、フローがちゃんとした魔法を使ったのは、僕も初めて見たよ」
ジェイドも驚いたように瞬きをしている。そんな二人の反応が嬉しいのか、精霊たちは杖に戻ることなく、ロベリアの周りを踊るように回っていた。
「しかも、二種類の精霊を操れるなんて……! 普通は一種しか操れないと聞いたことがあるわ」
ロベリアが精霊を目で追っていると、フローライトが感心したように頷いていた。
「え!? ロベリアさん、精霊が見えるんですか!」
「いいな……僕は見えないんです」
ジェイドの方は見当違いの方向を見ていた。耳元に精霊が悪戯っぽく笑っているのに、まったく気づいていない。フローライトは兄を見ると、少しだけ口元に微笑を浮かべた。
「家族で精霊が見えるのは、わたしだけなんです。だから、領主さまから王都の魔法学校の試験を受けてみないかって。
でも、良かった。風の精霊は気難しいから、いつもなかなか呼びかけても従ってくれないの」
フローライトが話しているうちに、精霊はくるっと回り、杖の中に戻ってしまった。部屋をそよいでいた風が薄まっていく。
「わたし、立派な魔女になりたいんです。立派な魔女になって、ゴブリンやオーク、アラクーネやセイレーンやラミアーとか、いろいろな魔物を退治して、国を平和にしたいんです!」
「……フロー、さっき、ネズミを怖がっていたのに……」
「お兄ちゃん! さっきはさっき、今はいまだもん!」
兄がぼそっと囁くと、妹はむすっと頬を膨らませる。
ただ、こうして言い合えるのは仲が良い証拠だ。
「見事な魔法だったわ、ありがとう、フローライト。すっかり綺麗になったから、お昼にしましょう」
自分とルージュは、気軽に言い合える仲じゃなかった。
血のつながった姉妹らしく、仲良くしたかったのに……と、心の奥底で想いながら、ポットに入れた飲み物を持ってくる。
「ん? 主、茶を淹れないのか?」
ナギは湯気の上がっていないポットを見て、きょとんと首を傾げている。
「暑い中働いたのだから、今日はこれよ」
くすりと笑うと、カップに飲み物を注いだ。
注ぎ口から出てくるのは、透明な水だった。
「地下室に置いておいたから、雪解け水とまではいかないけど、冷えていると思うわ」
「ありがとうございます!」
フローライトは先ほどの魔法を使い、疲労がさらに溜まったのだろう。
すぐにカップに手を伸ばした。
「ほんとうだ、ひんやりしてる! ―—ッん、この味!?」
冷やしたカップを大事そうに抱え、一口飲んだ途端、彼女は瞬きをした。驚いたようにカップを覗き込むが、中に入っているのは平凡な水だからだろう。頭の上に浮かんだ疑問符が見えるようだ。同じように、ナギもジェイドも一口飲んだ後、まじまじと水を見つめている。
「え、ただの水じゃない……?」
「主、すうっとした感じがするぞ?」
「それはそうよ、レモン水だもの」
事前に買っていたレモンを輪切りにし、水に漬け込んでおいたのだ。
本当なら庭のレモンを使いたかったが、生憎と季節が違う。
「ミントが大量に生えているから、ミント水でも良いかなと思ったけど、ミント味が嫌いかもしれないから」
ロベリアは説明すると、自分も一口飲みこむ。
爽やかな味は草むしりの疲れと良からぬものを見てしまった不快感を拭い去ってくれるようで、ロベリアも息をついた。
「さて、しっかり食べて午後に備えましょう」
ナギがサンドイッチを幸せをそうに目を緩ませながら頬張る。ジェイドがおずおずと手を伸ばす横で、フローライトは目を輝かせながら食べると味の感想や自分の家のサンドイッチのことを話した。時折、隣で兄が訂正や注釈を入れ、妹が得意げに胸を張った。
ロベリアはサンドイッチを片手に、その話を頷きながら聞く。
一騒動後の昼食は、ひときわ賑やかに過ぎていくのだった。




