23話 ぬくもり
※サブタイトル変更しました
※一部展開を変えました
鈍い痛みだった。
身体がこすれるような、鈍い痛み。ずきん、と背骨から全身にかけて伝染していく。
けれど、想像より痛くはなかった。
せいぜい、椅子から転げ落ちた程度の痛み。家畜小屋の屋根から落ちたものだから、身体が粉々になるくらい痛いと思っていたのに、指先も腕も足だって動かせる。
おかしいな、と目を開ける。
視界いっぱいに、青空が見えた。
痛みも苦しみもすべてを拭い、包み込んでくれるような爽やかな青空だ。
ここが天国なのだろうか?
それとも、天国からの迎えが来る前か?
痛みを感じないのは、魂が無残に傷ついた肉体から抜けているから痛みが薄いのか?
ぼんやりそんなことを考えていたが、一向に天使がロベリアを迎えに来る気配はない。
その代わりに、疲れ切ったような声が耳元で聞こえた。
「……よかった……間に合ったか」
「……ナギ?」
ロベリアは声の方に目を向ける。
そこには、ナギの大きな顔があった。訂正。大きな顔ではない。かなり巨大な顔だ。具体的にいえば、ロベリアの身体より遥かに大きく、ちょっとした小部屋程度のサイズである。
ナギはすらっと伸びた顔で、心配そうにロベリアを覗き込んでいた。
「え、ナギ……大きい?」
「走っても間に合わないと思ったからな」
あまりにも、大きくなったからだろう。
ナギが言葉を話すたびに、ロベリアは彼の吐息を肌で感じた。
「本当は人間の姿になって受け止めるのが理想的だが……すまない、自身の身体を元に戻すのが一番早いと思ったのだ。だが、主よ。ここまで風の強い日に、よりにもよって一人で小屋に登って屋根を修理しようとするとは――、ん? 主? どうした、固まって」
ナギはきょとんっと首を傾げる。
その仕草、雰囲気は自分の知っているナギそのものだ。だがしかし、まるで別竜みたいに体格が違い過ぎる。なにせ、赤い鱗一つがロベリアの背丈ほどあったのだから。
ロベリアは呆然とナギの深緑色の瞳を見つめると、小さな声で呟いていた。
「ナギって、子どもじゃないの?」
「主よ、何を言うかと思えば」
ドラゴンは数度瞬きをした後、心底呆れ果てたように長く息を吐いた。彼の息で、ロベリアのスカートが翻る。ロベリアは手で軽く抑えながら、ナギの言葉を待った。
「俺は大人だ。人間の姿も見ただろう?」
「もちろん。赤髪の男前で素敵だったわ」
「……世辞は良いとして、だ。いいか? ドラゴンは自分の好きな姿に変身できるわけではない。姿を自由自在に変えることができるなら、ドラゴンではなく特殊なスライムになってしまう」
ナギはここで一旦、言葉を区切った。
質問はないか?と目で尋ねている。ロベリアは首を振った。それを確認すると、ナギは説明を再開した。
「ドラゴンは変身することができる。
俺は普段、子竜の姿をとっているのは、一番生活に適しているからだ。小回りも効くし、主と一緒にいられるからな」
「それって、全部のドラゴンが子竜の姿になれるってことかしら?」
ロベリアは疑問を呈した。
もし、世間一般的なドラゴンが、それも変身能力を持つドラゴンが子竜になれるのだとすれば、ドラグーンのドラゴンだって戦闘時以外、子どもの姿を保っていた方が生活しやすいのではないか?
そう尋ねると、ナギはふむっと頷いた。
「俺は分からないが、ドラグーンは戦いを仕事にしている。子竜の姿に慣れたせいで、体格差に戸惑って戦闘に支障がでるかもしれない。
実は、俺もこの姿は動きづらい。ちょっと動いただけで、主を潰してしまいそうだ」
ナギの声に、大匙一杯ほどの不安の色が混じった。
ロベリアを背に乗せたまま、動いたり変身を解いたりしないことをみると、本当にこの姿に慣れていないのが分かる。現に、顔を横に向ければ家畜小屋に巨大な穴が空いていた。ちょうど、ナギの頭がツッコんだ程の穴である。
あまりにも久々過ぎて、本来の姿に慣れていないのは確かなようだ。
「でも、この姿も素敵よ」
ロベリアは鱗を撫でた。赤い鱗は隙間なく体を覆っているが、凹凸があるほどにはゴツゴツとしてなく、意外にも上質な絹織物みたいに滑らかであった。
「ねぇ、もしかして、私を乗せて飛ぶこともできるの?」
「……あまりお勧めはできない」
ナギは低い声で答える。
「俺は、飛ぶのが苦手だ。苦手というよりも前の主が練習させてくれなかった、というべきか。
訓練すれば、この姿でも飛べるだろうが……主を乗せて飛ぶには、勇気が必要過ぎる」
「そう……ごめんなさいね、変なことを聞いてしまって」
巨大な翼を広げて、この青空を飛ぶことができたら、その感慨と素晴らしさは言葉に出来ないに違いない。そんなことを空想していると、ナギが僅かにもぞもぞと動いているのが分かった。
「主。そろそろ降りてくれ。主が安全なところまで行ったら、この姿を解く」
「あ、ごめんなさい」
ロベリアは鱗にへばりつくように、そろりそろりと降りた。
両手で身体を支えながら降りている内は良かったが、右足が地面に着いた途端、落下の衝撃とは異なる強烈な痛みが足首に奔った。
「―—ッ!?」
「主!? どうした!?」
「だ、大丈夫」
きっと、落ちどころが悪かったのだろう。
足をくじいてしまったようだ。
背中の疼くような痛みもあって、歩くのは一苦労だったが、ナギに変な心配はかけたくない。せっかく身体を這って助けてくれたのに、辛い怪我をしてしまったなんて、ナギのことだから必要以上に心配して、自責の念にかられてしまうだろう。
ロベリアはゆっくりと、できるだけ痛みを感じていないように歩いた。
その様子を、ナギの深緑色の瞳は観察するように見つめていた。
「止まれ、主。その距離なら、たぶん平気だ」
ナギの巨体から二十歩ほど離れたところで、鋭い声が耳を貫いた。ロベリアが歩みを止めて振り返ると、ナギの身体が急速に縮まっていくところだった。そのまま、いつもの姿に戻るのかと思えば、すらりと背の高い男性へと変わっていく。
はて、何故だろう?
ロベリアが首を傾げていると、ナギが近づいてきた。子竜の時よりずっと長い足で、軽々と距離を詰めてくる。ロベリアの困惑をよそに、ナギは真顔でまっすぐ傍まで来ると、わずかに赤い鱗の残った手を伸ばしてきた。武骨な手が肩を抱きかかえた、と思えば、次の瞬間、もう片方の手を膝の裏に回し、ロベリアの身体を軽々と持ち上げたのである。
「ひゃっ!?」
「まずは足首を冷やすべきだ。さあ、家に帰るぞ」
ナギは涼し気な顔で歩き出した。
「ナ、ナギ? 私は歩けるから下ろして!」
「主は満足に歩けないだろ?」
「私、重いわよ!?」
「この程度なら問題ない」
ロベリアは抗議しようと、ナギを思いっきり睨み付けようとした。ところが、ここで始めてナギの顔があまりにも近いことに気付いた。拳数個分しか離れていない、カッコいい顔が目の前にある。
人間姿のナギは、文句なしにカッコいい。煌びやかな顔立ちではないが、ぎゅっと結ばれた口元や鼻筋など全体的に整っている。むさくるしさは全くなく、はっとするほど爽やかな男前な顔だった。
「……主?」
切れ長の目が心配そうに向けられ、ようやく我に返る。
「何でもないわ」
ロベリアは平然と言葉を返したが、内心は慌てた。
ナギに見惚れてしまっていた事実に驚き、鼓動が早く昂っている。見てはいけないものを見てしまったような、恥ずかしさで胸がいっぱいになった。胸を打つ激しい音を感じながら、ロベリアは熱を出したときのように顔が赤くなるのを感じた。
普段は、何事にも一喜一憂して表情をころころ変える可愛らしい同居人なのに、これではまるで本当に騎士様ではないか。
「ありがとう、ナギ」
「礼はいらない。主が辛そうだから、助ける。当たり前のことだ」
ナギは真一文字に結んだ口元を綻ばせると、安心したように目じりを緩めた。
「今日の作業は中止だ。あとは、茶でも淹れよう」
「……そうね」
彼の言う通り、これでは小屋の修理はもちろん、雑草取りや小川の点検も難しい。
残念だが、今日は休むしかなさそうだ。
「ナギ」
「なんだ?」
「家畜小屋、一緒に直しましょうね」
「当然だ。だが、主は見ているだけでいい。大破させたのは俺だから」
「いいえ、駄目よ」
ロベリアはすぐに制した。
「私が落ちたのがいけないのよ。だから、一緒にやりましょう? 梯子を押さえたり、壁に板を叩きつけることくらい、私にだってできるんだから」
そう主張すれば、困ったように唸った。低い声で喉を震わせるような唸り方は、ドラゴンのナギと一緒で、やっぱりこの人は可愛らしいナギなのだと、しみじみ思う。
ロベリアが微笑ましく思っている間も、彼は唸り続けていた。やがて考えが決まったのか、ナギは若干諦観したように言葉を告げた。
「……分かった。一緒にやろう。地上なら主も安全だろう」
「ナギだって、小屋の上は気をつけないといけないわ」
「俺は問題ない」
ナギが答える頃には、テラスに辿り着いていた。
彼はロベリアの身体を椅子に預けると、すぐに足首の処置を始めた。あまりにも手慣れた様子だったので、前の飼い主の元にいたとき、数えきれないほど暴力を振るわれ、何度も自分で手当てをしたのだろう。
「……よし、完成だ。あとは、俺がお茶を淹れてくるまで、ここで待ってろ」
ナギは満足そうに頷くと、さっさと台所へ歩き始めたので、急いで礼を口にする。ナギは何でもないと手を振ると、台所へ消えていった。長い尻尾が家の中に消えていくと、静けさが世界を包みこむ。
あまりにも静かすぎたので、ロベリアの口は勝手に動いていた。
「ねぇ、ナギ」
「どうした?」
瞬きよりも早く、返事が返ってくる。
「まだ痛むか? なら、主が作った薬を――」
「いいえ、違うの。呼んでみただけよ」
「そうか、ならいい」
ロベリアが落ち着いて返す。
ナギの安心した声が、耳に心地が良かった。
暑すぎず寒すぎもしない、程よい太陽の日差し。
上品で濃厚な薔薇や野の花々の可憐な匂いが風に乗り、緩やかに髪を膨らませる。その反対側から思わず微笑みたくなるような茶の匂いが漂ってきた。
ナギがお茶を淹れてくれている。
お昼のお茶を淹れるのは、ロベリアの仕事で、本当は手伝いたい……が、たまにはテラスでのんびり待つのも悪くないかもしれない。
「ここに来て、ナギと暮らせてよかった」
つい、数週間前まであった辛い出来事。
睡眠時間をごりごり削っても全く報われない仕事の日々、妹の倫理観のなさ、婚約者の寝取られ。
雪が解けて、新たな季節が始まるように。
過去の寒さは、遥か彼方へ消え去り、新しい春が訪れる。
「主、お茶を淹れたぞ」
「ありがとう、ナギ」
ロベリアが微笑みかけると、ナギも口元に小匙一杯ほどの笑みを浮かべた。
「主、なんだか嬉しそうだな」
「そうね、なんだか長い冬が終わった気分なの」
「主? とっくに春だぞ?」
ナギは不思議そうに首を傾げる。
「そうね、もう春ね。すっかり、春だわ」
自分が柵から抜け出したこともあるけれど、彼との出会いが一番の幸せだ。
彼がいなかったら、ここまで新たな門出を楽しめなかったはずだ。
ロベリアはカップを手に取ると、春のぬくもりに浸るのだった。
だから、すっかり忘れていた。
ルージュが自分に異常に執着し、その行方を追っていることを。




