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22話 春の匂い



 朝食を終えると、ロベリアは窓を開けた。

 春風が髪をふわりと膨らませ、暖かな日差しが身体に染みこんでくる。ロベリアが微睡んでいると、風の中に淡く甘い匂いを感じた。


「これは……花の香り?」


 ロベリアは身を乗り出すと、辺りを見渡してみる。

 匂いの発生源は、すぐに見つかった。

 家を軽く囲む柵に這わせた薔薇が、ぽつぽつと咲き始めていたのである。時期としては少し早いが、つぼみが膨らんでいたので、そろそろじゃないかと期待していたのだ。


「ナギ!ナギ! 薔薇が咲いているわ!」


 ロベリアが呼びかけると、ドラゴンのナギはソファーの上で大きく伸びをした。眠そうに瞼を半分閉じながら、ゆっくりと頭を持ち上げた。


「薔薇?」

「そうよ、あそこ」


 ロベリアが指を差すと、ナギはこちらに駆けてきた。とはいえ、ドラゴン状態では窓を覗くことはできない。人間に変身するのかしら、と思っていると、彼は床を蹴り、軽快に窓の桟に飛び乗った。


「あれか。赤い花」


 ほう、とナギが感嘆した。

 赤と言っても、ナギの鱗程濃くなく、白く染まった水に赤い絵の具を数滴零したような薄赤色だ。八重咲の薔薇の花弁は柔らかいフリルのようで、小人や妖精が纏うドレスのようにも見える。


「上品な花だな」

「そうよね。見た目も素敵だし、お菓子にしても綺麗かも」

「ああ。…………ん、お菓子?」


 ナギは半分頷きかけたが、微妙な位置で動きを止めた。


「主、俺は耳がおかしくなったのかもしれない。お菓子、と言ったか?」

「あら、本当のことじゃない」


 ロベリアがさらっと答えると、ナギは仰天した。あまりにも驚いたせいか体勢を崩し、後ろに倒れかかってしまった。ナギは慌てて桟に爪を立て、落下は防ぐことはできたが、ぶらんと両足が揺れていた。


「ナギ!? 大丈夫?」

「ぐぅ、主こそ正気か? 薔薇は花だぞ?」


 ナギは桟によじ登ると、心底呆れた目で見つめてくる。


「薔薇は野菜ではない」

「でも、食べられるんだから」


 ロベリアは肘をつくと、ナギに語りかけた。


「薔薇はね、見て楽しめるし匂いも素敵だし、味も良いの。

 砂糖に漬けたり、ジャムにしたり……西大陸では、アイスにも入れるのよ」

「なんだと!?」


 ナギが緑の瞳を丸くしているのを微笑ましく眺めながら、ロベリアは仕事で異国を訪れたときのことを思い出した。

 忘れもしない、大臣の会談後の歓迎会。

 会談中は大臣に話すこと(カンニングペーパー)を随時素早く伝え、歓迎会でも奴が襤褸を出したらすぐにフォローできるように気を尖らせていた。

 だから、せっかくの豪華な料理の数々が喉を通らず、あっというまに食事が終わってしまった。

 酒を飲んで上機嫌な大臣を部屋に押し込んだ後、部屋に帰ったときには、疲れ果ててボロボロだった。滅多にないご馳走を味わい損ねた、と心の中で泣いていたとき、給仕の方が


『サービスです、どうぞ』


 と、差し出してくれたのが、件のアイスだった。

 アイスは非常に濃い黄色で、カボチャ味かと思った。ただ、その地方でカボチャは収穫できないので、珍しいな……と、思いながら食べた瞬間、アイスの舌触りの滑らかさの中に、華やかな香りと爽やかさが身体全体が澄み渡ったのだ。


「薔薇の水とサフランで作ったアイスだったの。春のお祝いのお菓子なんですって。レシピを聞いておけば良かったわ」


 ロベリアが懐かしさに浸っていると、ナギが咳ばらいをした。


「主。それで、お菓子を作るのか?」

「んー、そうね……」


 ロベリアは頬杖を突いたまま、ふむと思案を巡らせた。


「ジャムは砂糖を入れて煮るだけだから簡単だけど、イチゴのジャムが残っているのよね」

「となると、砂糖漬けか?」

「手間がかかるのよ、ちょっと」


 柔らかい薔薇を傷つけないように洗った後、花弁を一枚一枚慎重に剥くのも大変だが、問題はその後だ。親指程もない花弁を傷つけないように摘まみながら、丁寧に卵を塗った後に砂糖をまぶしていく。根気のいる作業を終えたら、数日ほど乾燥させてから完成。ジャムより手間がかかり、食べるまでに時間がかかる。それをいったら、果実酒や果物漬けも仕上がりまでに時間がかかるが、砂糖漬けは手間がかかる上に出来る数も限られているし、ぱくぱく食べられるようなものでもない。長期保存できるお菓子だが、ロベリア的には効率が悪い気がするのだ。


「もう少し、薔薇が咲けば作ってもよいのだけど」


 ロベリアが説明すると、ナギは仕方ないと首を振った。


「それなら、今は見て楽しむほかないだろ? だいたい、そのために植えた薔薇じゃないのか?」

「それはそうね」


 もう一度、柵に目を戻した。

 柵には数種の薔薇を這わせていた。今は早咲きの薔薇が一、二輪咲いているが、もう少し経てば、別の薔薇も咲き始める。それこそ、ナギの鱗みたいに真っ赤な薔薇や眩いばかりの黄色の薔薇、純粋な白い薔薇などが柵を彩っていく様子は、非常に見ていて美しいかろう。


「そうだ! もう少し咲いたら、薔薇風呂にしない? 花弁を湯船に撒いたら、良い香りがするのよ」

「主がしたいならすればいい」


 ナギは興味なさそうに呟くと、そのまま俯せになった。尻尾だけ庭側に垂らし、眠たそうに牙が剥き出るほどの大きなあくびをした。が、すぐに、ロベリアが近くにいると思い出したのだろうか。急いで口を閉ざすと、ぷいっと庭の方へ顔を向ける。太陽の日差しを浴びて、鱗がちらちらと輝いていたが、頬のあたりだけ殊更赤く輝いて見えた。


「ナギ、照れてる?」

「照れてない」

「噓でしょ」

「噓じゃない」


 ナギは煩わしそうに瞼を閉じた。

 ロベリアは頬杖を突いたまま、庭へと目を戻した。人の手が数年入らず雑草だらけだった庭は、秩序を取り戻しつつあった。小川や樫の森に続く道は敷石が見えるようになっていたし、雑然としていた畑は整地され、豊かな土壌に薄らと若緑色の草が生え始めているのが見える。テラスの階段の脇には、この間かったベリーの木が楽し気に揺られ、根元には可愛らしい黄色や紫のクロッカスで飾られていた。


「ナギ、綺麗ね……私たち、頑張ったと思わない?」


 ロベリアはナギに語りかけるように呟いたが、返事が返ってこない。

 気が付けば、彼はすやすやと寝息を立てていた。日差しが温かく、うつらうつらと眠たくなってしまう陽気だ。眠ってしまうのも無理はないし、ロベリアだって春の陽気の心地よさに身を委ねてしまいたかった。


「でも、家畜小屋を整備しなくちゃ」


 魔山羊や鶏を迎え入れる準備をしなければならない。

 まだまだ草をむしらないといけない場所はあるし、小川の先のため池に浮かんだ落ち葉やらゴミも取ってしまいたい。

 ロベリアはぐっと伸びをすると、窓辺から離れた。


 せっかく、ナギは寝ているのだ。

 起こしてしまったら、可哀そうだ。




 ロベリアは腕をまくると、意気揚々と家畜小屋の点検をする。

 隙間風がびゅうびゅうと吹き込み、天井にはぽっかり穴が空いていた。そのまま、天井に空いた穴から目を下に落とせば、雨粒が地面を削った後がくっきりと残っている。相当前から、このままだったに違いない。


「たしか、古い板が裏にあったはず。天井から直しましょうか」


 ロベリアは自分自身に呟くと、早速行動を始めた。

 まず、裏手の小屋に急いだ。工事用具や角材や薪が収納されている小屋に入ると、すぐに釘や槌をエプロンのポケットに入れた。穴を塞ぐに丁度良い板があったので、板と梯子を抱えて家畜小屋へと急ぐ。


「この梯子を立てかけて、……っととと」


 ロベリアは梯子を上った。

 板を脇に抱えたままだったので、右手しか使えず、登りにくかったが、なんとか家畜小屋の上に到達する。

 上に着いた瞬間、風が目の前から吹いて来て、思わず目を瞑ってしまった。春風が膨らませたスカートが落ち着いて行くのを感じながら、おそるおそる瞼を開ける。


 そして、その先に広がっていた風景に、ロベリアは驚きの息を零した。


「うわぁ……!!」


 一気に高くなった視界は、いつもと違う風景を現していた。

 何もかもが小さく見える。

 さっき見た薔薇は緑に浮かんだ斑点だったし、小川が白く輝いた道のようだ。白といえば、テラスから家畜小屋に続く道のほとりはシロツメクサで埋め尽くされ、柔らかな絨毯のように美しい。

 シロツメクサだけでない。

 タンポポの黄色も、スミレの紫も、名前の知らない淡く赤い花も、風にそよぐ草たちも。

 それぞれ庭に敷かれた絨毯のようで、その合間合間に石畳の道や川が張り巡らされていた。


「織物? 紋様? 素敵ね……」

「主! 何してるんだ!?」


 ロベリアが微睡んでいると、鋭い声が耳を貫いた。

 見れば、ナギが庭を駆けてくる。


「ナギー!」


 ロベリアは板を置き、ナギに手を振ろうした、



 が、そのときだった。



 殊更強い春の風が、勢いよく吹き付けてきた。


「え……?」


 薔薇の香りを孕んだ強風がロベリアの身体を押す。

 あまりにも唐突で、つかむところがない。足が滑り、身体が傾いたのが分かった。

 一瞬、浮遊感が身体を包み込む。あまりのことで、心が空虚になった。

 そのうち、身体の四肢が空に放りだされたことを認識する。

 雲一つない透き通った青い空が視界いっぱいに広がり、何て綺麗なんだろうと頭の片隅で思った。


 でも、それもつかの間。

 次の瞬間、急速に身体が落下した。風が耳を横切る音が、びゅうびゅうと鋭く聞こえる。



 駄目、死んじゃう……?


 あっという間で叫ぶ間もなく、眩しいばかりの青空と遠ざかっていく屋根が怖くて。




 ロベリアは恐怖に目を瞑った瞬間、鈍い痛みが身体全体を襲った。






次回、2章最終話。

投稿予定は20日17時前後です。

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― 新着の感想 ―
[一言] 春の突風は気を付けないといけないですね… 中国地方は春一番が吹いたそーです(笑) 薔薇風呂は洗濯ネットにでも居れておかないと後が大変そうですねーww
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