2話 婚約破棄、そして…
「妊娠してる、ですって?」
ロベリアは冷ややかな視線を幸せ絶頂の二人組に向けた。
それが確かであれば、2人は数か月前から密会していたということになる。
しかも、他人の部屋で。
「馬鹿みたい」
ロベリアは頭から水を被せられたように、身体中を湧きあがらせていた熱が冷めていくのを感じた。
「馬鹿とは何だ!
いいか、ロベリア。お前との婚約は破棄する。
実の妹に対する数々の悪行を黙って見逃すわけにはいかない!」
ロベリアが呆れていると、エリックはルージュを庇いながら睨み付けてきた。
「いままで婚約者だと思って、お前の悪行に目を瞑ってきてはいた。
だが、もうたくさんだ! 次期国王の権限で婚約及び大臣秘書官としての職務を解任する!」
彼の視線、口調にあるのは蔑みの色だけだ。当初の後ろめたさは見る影もない。
ロベリアはエリックの言葉が耳に流れ込んでくるにつれて、胸に抱いていた残火も萎んでいった。
「ロベリア、さっさと出ていけ! お前の顔なんて、二度と見たくない!」
「王位継承者の権限を使用するときは、王または法廷での承認がえられたときだけですよ」
ロベリアは男を窘める。
しかし、彼はふんっと鼻を鳴らした。
「そのような些事は事後に回せばよい」
「私の後任は?」
「お前にできた程度の仕事など、どうにでもなるだろ」
「……どうにでもなれば良いのですが」
ロベリアはエリックの肩越しに隠れる妹を一瞥した。
いまだに「お姉さま怖いーっ!」と顔を覆って泣いているようだが、白い指先の合間から薄紅色の唇が弧を描いている。
「そういうことね」
妹の口元を見て、ロベリアは目を伏せた。
最初から嵌められた。
ルージュはロベリアを婚約者の座から追い出して、自分が王子の婚約者になろうと策略していたのだ。
姉の婚約者を寝取る倫理観とか王族との婚約契約を破棄する社会常識とかを妹に求めること前提自体が間違っていたのである。
ルージュは、どこまでも我儘な妹だった。
ロベリアは今後起きるであろう事態を予想する。
ルージュがエリックを望んだ理由は、彼の器量の良さもあるだろうが、一番は将来の王妃となることだ。
王妃ともなれば、伯爵家にいた頃以上に贅沢な暮らしが約束される。国の頂点に立つ者の仕事は国王に押し付け、自分は我儘三昧の生活を謳歌するつもりに違いあるまい。
たぶん、エリック自身に興味はない。
そのことに、彼が気づくのは何年先になるのやら。
「女を見極められないなんて、ね」
「ああ、君が悪女だと判別できなかった父上たちの目を疑うよ」
エリックはロベリアを蔑む。
こんな男のために努力していた自分が、なんだか馬鹿みたいだ。
この屋敷にいるのは願い下げ。
さっさと妹贔屓の執事を呼び出して、馬車の準備をさせよう。
「さようなら、エリック様」
ロベリアは鞄を乱暴に拾い上げると、侮蔑の視線を背中で感じながら退出する。
自分の部屋から出るというのに、この後味と居心地の悪さは如何なるものか。心なしか歩調が速くなり、見慣れた廊下が涙で歪んで見えてきた。
緩んだ涙腺に追い打ちをかけるのは、執事や使用人たちの態度。
ロベリアが震える声で、
『領地の本邸へ帰るので、馬車を用意してください』
と、頼めば、彼らは即座に了承した。
妹贔屓の使用人たちは満面の笑みになるのを堪えているようだった。邪魔者がいなくなるのを心から嬉しく思っているようで、意気揚々とロベリアを狭い車内に押し込んだ。
きっと、本邸に戻っても同じ。
両親はルージュの過ちを許し、王子との子を身籠ったことを喜ぶ。
使用人たちも妹の味方だから、ロベリアの居場所はない。
「……馬鹿みたい」
ロベリアは掠れた声で呟く。
よけい惨めな気持ちになるから泣くまいと唇を噛みしめるが、涙が頬を伝っていく。ぽつぽつと斑模様の染みがスカートに広がるのを感じながら、この現実を忘れようと窓の外に目を向ける。
窓の外も雨。
寂しげな風が吹き、いくつもの筋が窓を伝っている。
往来では色彩豊かな傘が往来を闊歩し、その世界の片隅で………小さな塊が震えていた。
大きさからして子どもだろうか。小綺麗な邸宅の軒先で、襤褸布を被り、雨に怯えるように震えている。それを身なりの良い男性が怒鳴りながら幾度となく足蹴りをしていた。
「止めて!」
気が付けば、ロベリアは叫んでいた。
「ロベリア様?」
「いいから、止めなさい!」
御者が渋々馬車を止める。
馬車が止まるや否や、ロベリアは傘をつかんだまま差さずに飛び出した。
「先程から見ていましたが、貴方、何をしておられるのですか?」
「はぁ? 何をって……見ての通り、躾だよ」
豪奢な傘を差した男は苛立ちながら言い捨てると、ロベリアが止める間もなく爪先で勢いよく蹴り飛ばした。襤褸布に包まった者も痛いのか、苦しそうな叫び声をあげる。
「ぎゃうっ!」
ところが、まるで獣のような叫びだった。
ロベリアが驚いて塊を注視すると、襤褸布から赤色の鱗のついた尻尾がはみ出ていた。
「この子、ドラゴン?」
「ああそうだ。ドラゴンだよ、最弱最低のな!」
男は襤褸布を乱暴に剥ぎ取る。ドラゴンの姿が雨空の下に露になった。
赤いドラゴンだった。
蜥蜴のような尖った耳が怯えるようにぴくぴく動き、瞼は固く閉じられている。泥まみれで至るとこに生傷が目立ち、両翼ともに端の方が破れていた。両手両足もドラゴンと思えないほど痩せている。あれでは、歩くことさえままならないだろう。
「ババアが死んで仕方なく飼うことになったのによ、空も飛べねぇし、騎竜としても役立たずだし、勝負でも勝てねぇし、なしなし尽くしの最弱野郎だ。
しかも、オスだ。まだメスなら使い道があったのに!」
男が再び足を振り上げる。
「失礼します」
ロベリアは男とドラゴンとの間に割って入った。
男は行き場のなくした足で道を叩くと、不機嫌そうに眉間の皺を深めた。
「あぁん? 自分の所有物をどう扱おうが、勝手だろうが!」
「……では、貴方のものではなくなれば、問題はありませんね」
ロベリアは怒りを抑えながら、できるかぎり冷静に問いかける。
男も不機嫌そうだが、生憎、ロベリアも絶賛不機嫌だ。つい数分前、妹に婚約者を奪われ、仕事まで失った。おまけに、こんな胸糞悪い出来事を目撃してしまったものだから、苛立ちは増すばかりである。
ロベリアは左手で傘を差しながら、男を睨み上げた。
「そのドラゴン、役立たずというのでしたら、私がいただきましょう」
「……はぁ?」
「ですから、私がいただこうと言っているのです」
ロベリアは悪戯を思いついた子どものように笑った。
「貴方が最低最弱で荷運びにも使えぬ不要と判断するのであれば、私がいただきます」
「てめぇ、なーに馬鹿なことを言ってんだ!? 本気かよ、こんな役立たずを貰おうだなんて!
見たところ、どこぞの貴族の令嬢か? こーんなガリガリで見目も悪いドラゴンを連れ回してるなんて知られてみろよ、冷笑されるのがオチだぜ?」
「あら、問題ありませんわ。その子を引き取ったくらいで下がる評価ならいりませんから」
ロベリアがすぱっと言い放つ。
すると、その態度が気に障ったのだろう。男は大きく手を振り上げると、そのままロベリアを狙った。ロベリアは避けもせず、むしろ顔で受け止めた。頬に痛みが奔り、白い肌に赤い痣ができるのを感じた。奇跡的に鼻血は出ていないようだが、口の中に血の味が滲んでいる。
「おま、なんで避けないんだ!?」
「避けて欲しいなら、殴る必要はなかったのでは?」
ロベリアは口の端から滴る血を舐めると、後ろを振り返る。
ドラゴンは固く閉ざしたままだった瞼を開いていた。深緑色の瞳を見開き、呆然とこちらを見上げている。
「ごめんなさい、あなたの意見を聞いていませんでしたね。
よろしければ、私と来てくれませんか?」
ロベリアは語りかける。
このドラゴンを放っておけなかった。
妹に婚約者を寝取られた孤独な寂しさが、雨空の下で飼い主に蹴られ続けるドラゴンと重なったかもしれない。
「返事は『はい』しか聞きたくないですが……どうです?」
ロベリアは傘をドラゴンの方へ傾けると、空いている右手をドラゴンの鼻先に差し出した。
「…………俺で、いいのか?」
ドラゴンは尋ねてきた。
喉はからからで、やっと絞り出したようなかすれ声だった。
それでも、このドラゴンが発した言葉に違いない。ロベリアが大きく頷くと、ドラゴンの深緑色の瞳に決意が灯った。
「貴方と一緒に行きたい。貴方が、良いのなら」
「ええ、もちろん」
ロベリアは傘を肩にかけると、ドラゴンの前足を手に取った。
ぼろぼろの爪をそっと握ると、そのまま腹部へ手を廻し身体を持ち上げた。ドラゴンの雨に濡れた身体は冷たくて、そのまま温めるように抱きしめる。
「そういうわけでして、この子は私の所有物になりましたわ」
「っく、勝手にしやがれ! どうせ、あんたはすぐに捨てるだろうさ!」
男は唾を吐き散らしながら、通りの向こうへ消えていった。
「さて、行きましょう」
ロベリアはドラゴンを抱えたまま、馬車へと戻った。
最初に乗り込んだときのような悲しさや腹立たしさは消え、心なしか気持ちが明るくなっている。
「……うん。そうね、これからは好きなように生きればよいのよ」
冷たい鱗を撫でながら、ロベリアは呟いていた。
妹に寝取られた?
婚約破棄された?
仕事も失った?
両親や周りからの期待は完全になくなった?
それは、悲しいことだ。
でも、だからどうした。
期待も柵も失ったなら、ここからは自分の好きに生きればよい。
このドラゴンを引き取ったように。
「とりあえず、この子とお茶を飲もうかしら」
気が付けば、雨は止んでいる。
窓から差し込む陽光を浴びながら、ロベリアはこれからの人生に夢を膨らませるのであった。
その頃、クロックフォード邸では、エリック王子が呆然としていた。
何故、こうなってしまったのか。
エリックはクロックフォード家に来た。
いつものように、ルージュと逢引きするために。
ロベリアの仕事の予定はルージュに聞いていたので、慌てることもなく、エリックは愛しい少女の肩に手を置き、柔らかな唇にキスを落とした―――、瞬間だった。
『これは、なに?』
ロベリアが帰宅したのは。
ロベリアは、ルージュを魔族のような形相で怒った。
彼女の怒りはエリックの肌を痺れ上がらせるほど強烈で、すぐさま謝罪の言葉が喉元まで上ってきたが、その直後、愛しい人の辛そうな顔が目に飛び込んできたのだ。
『ロベリア、いい加減にしろ!』
エリックはルージュを庇ってしまった。怒りに突き動かされるように、次期国王の権限を使い、追放を命じてしまっていた。
エリックが我に返ると、ロベリアは橙色の瞳を目いっぱいに開き、涙を頬に伝わせまいと堪えていた。
『さよなら、エリック様』
彼女は別れの言葉を囁き終えるとすぐに震える唇を固く噛みしめ、こちらに背を向けた。勢いよく背を向けたものだから、妹似の艶やかな金髪が波打った。金髪の隙間から覗いた最後の横顔は切なげで、胸が収縮する。
「ロベリア」
エリックは、婚約者の名を呟く。
ロベリアの遠ざかっていく足音を聞いていると、申し訳なさが込み上げてきた。
ロベリアは真面目な少女だった。
「王子の婚約者」になっても浮つくことなく、むしろ、次期国王を支えるために研鑽を続けていた。
可愛げがないと思っていたが、次期王妃としては不可ない。正式に結婚してから愛を育めば、善きパートナーとして生涯を歩めるのではないかと思ったものだ。
つまり、ロベリアに欠点はない。
浮気をした自分が悪いのである。
いくら会う時間が少なかったとしても、婚約者の妹に手を出してしまうなんて……、とここまで考えたとき、エリックは違和感を覚えた。
「……あれ……私は……何故?」
エリックは頭を抱えた。
婚約者の妹が可愛くても、手を出すなんて「王家の恥」以外の何者でもない。そのうえ、婚約者の部屋で白昼堂々会っていたなんて、こちらに非があるのは明白だ。
いま大事なことは、ロベリアに謝罪すること。
すべては、それからである。
「すぐに、ロベリアを呼び戻さないと……!」
「エリック様!」
エリックが追いかけようとしたとき、ルージュが手をつかんでくる。
エリックが「離してくれ」と頼む前に、彼女は鈴のような声で語りかけてきた。
「ありがとうございます。おかげで心安らかに産むことができますわ!」
彼女の声は聴き心地が良く、身体に柔らかく沁み込んでいくようだった。エリックの感じていた申し訳なさが薄まり、温かな気持ちで心が満たされていく。
それでも、このままではいけないと首を横に振ろうとした。
「それは嬉しいが、いや、しかし」
「エリック様は……私のことがお嫌いになったのですか?」
ルージュがエリックの胸に飛び込むと、上目遣いで見上げてきた。
ロベリアと同じ橙色の瞳が輝いている。その瞳に映った自分を見て、エリックはごくりと喉を唸らせた。
自分は、ルージュを不安にさせている。
それを自覚した途端、ロベリアへの比ではないほどの罪悪感で心が押し潰されそうになった。エリックは慌てて彼女の背中に手を廻すと、謝罪を口にした。
「ごめん、ルージュ。君のことを世界で一番愛しているよ」
「良かった……これからも、ずっと一緒ですよ、エリック様」
エリックは、ルージュの甘い言葉に頷き返した。
彼の頭の中に浮かぶのは、ルージュとの輝かしい未来だけ。
ロベリアの存在なんて、微塵も残されていなかった。
だから、気づかなかった。
「……やっぱり、あの女を始末しなくちゃ」
愛しい人が薄桃色の唇で呟いた言葉に。