1話 妹の不祥事
ロベリアは絶句した。
「これは、なに?」
あまりの事態に、ロベリアの手から鞄が滑り落ちる。
早めに仕事を片付け、自分の部屋に帰ったはずだ。自分の部屋に帰ったはずなのに、なぜかその部屋で、よりにもよって妹と自分の婚約者がキスをしていたのだ。
とはいえ、屋敷へ帰ってきた段階で妙な感じはした。
なぜか、婚約者の愛馬が横付けされていたし、出迎えてくれた使用人たちの目も泳いでいたのである。
おまけに、妹贔屓の執事が異様によそよそしく
『ロベリアお嬢様、お茶を御用意します。さあ、サロンへ』
など勧めてくる始末。
「とにかく寝たいから」と執事を振り切り、私室へ戻って正解だった。
「ルージュ、エリック様。この状況、説明していただけますね?」
ロベリアは沸き上がる怒りを抑え込み、なるべく冷静に問いかけた。
「ち、違うんだ!」
エリックは裏返った声を上げた。
「違う、とは?」
ロベリアが睨み付けると、彼の顔色は瞬く間に青ざめた。
一方の妹は、こちらを振り返ると朗らかな笑みを浮かべた。
「お姉さま、今日は帰りが早いのね」
ロベリアと同じ橙色の瞳には、罪悪感の欠片もなかった。
おまけに、彼女の白い細腕はロベリアの婚約者の腕に巻きつけたまま。エリックから離れようとする素振りは微塵もない。ロベリアは口の端がひくひくと動くのを感じた。
「ルージュ、エリック様から離れなさい」
「なんで? お姉さまの顔、怖いーっ!」
ルージュは可愛らしい悲鳴を上げながら、エリックに豊満な胸を押し付けた。
「私たち、遊んでいただけよ?」
「キスが遊び?」
「そうよ。だから、許して」
ルージュは鈴の鳴るような声で言うと、すらりとした肢体を少し折り曲げ、上目遣いに懇願してきた。頭を少し落としたことで、滑らかな金髪が一房、白い肩から垂れ下がる。その美しき姿は、実の姉から見ても生唾を飲み込むほどだ。
誰が付けたか、社交での称号は「黄金姫」。
輝くばかりの美貌は人の眼を奪い、鈴のように囀る声は心を奪う――これは比喩ではなく本当の話。
ルージュに声をかけられると、何人であれ頬を緩ませる。守銭奴でさえ、ルージュが『あれが欲しい』と言えば、簡単に金貨数枚を出してしまうのだ。
誰もがルージュを猫可愛がり、なんでも願いを叶えてきた。
たった一つ、「エリック王子の婚約者」以外は。
王子の婚約者ともなれば、将来の王妃。
そして、王妃の親族はある程度の恩恵を受けることができる。
数多の貴族たち同様、父はこの地位を切望し、ロベリアに十分すぎる教育を授けた。
ルージュに相応の教育を受けさせなかったのは、「ルージュの望む結婚を用意してあげたい」とのこと。
ロベリアは自由気ままに人生を謳歌する妹を傍らに、ひたすら勉強や教養を身に付ける日々。大好きな庭にでることも許されず、苦痛以外の何者でもなかったが、期待に応えるべく努力し、見事「王子の婚約者」の地位を射止めることができた。
問題はココからだ。
『王子の婚約者になりたい! 私が未来の王妃になるの!』
ロベリアの婚約を知った途端、妹は駄々をこね始めた。
『私もクロックフォード家の娘でしょ? 交代したところで問題ないわ』
しかし当然、変更できるわけがない。
ルージュは涙を流したり、喚いたり、わざと具合が悪いふりをしたり、食事をテーブルから落としたりしたが、この事態を変えられないと悟ると、それから数日は部屋に引きこもってしまった。
可哀そうに思った両親は、駄目もとで王家に変更を掛け合った。
もちろん、答えは否。
それ以前に、妹の名は妃候補に最初から連ねてなかった。
ロベリアは生まれて初めて、少し誇らしい気持ちになった。
エリックは自分だけの婚約者。
いくら妹が欲しても、ロベリアから取り上げられない絶対的存在だ。
だからこそ、彼のために全身全霊を以て答えたかった。
そんなときだった。
とある貴族の子息から、
『大臣の秘書官が足りない。エリックを補佐する勉強になるから、引き受けないか?』
との誘いを受けたのは。
ロベリアは喜んで誘いに乗った。
少しでも、エリックのためになりたくて。
それからは、朝から晩まで書類や補佐に追われる日々。
大臣に付き王国を西から東へ飛びまわったり、外国の大使とやり取りしたり、目が回る忙しさは睡眠時間をごりごり削った。移動中の馬車で寝たことは数え切れず、ベッドで寝ることは皆無に近かった。
それでも、化粧と薬で体調の悪さを誤魔化しながら、彼のため、この国の未来のためを思えば頑張ることができた。
その結果が、これだ。
「お姉さま、私は悪くないわ」
ロベリアは自分の失態を悔いる。
妹がエリックを諦めたと思い込んでいたこと自体、考えが甘すぎた。彼女の言葉に全く反省の色がなく、謝罪の気持ちは皆無と見た。
「だから、いつもみたいに許して。姉は妹の頼みを聞くのが道理でしょ?」
「……そうね。私は貴方の姉よ」
ロベリアは淡々と答えながら、胸の奥から憤りが突き上げてくるのを感じた。
思い起こせば、昔からこうだった。
ロベリアが怒ろうとしたら、両親や周りの人たちから『姉だから我慢しなさい』と叱られ、涙を呑んで我慢してきた。
今回も、ロベリアだけ傷つけば、すべて丸く収まるのだ。
しかし、
「いい加減にしなさい!!」
さすがに、今度ばかりは許すわけにはいかない!
ロベリアの17年間、たまりにたまった怒りの叫びが屋敷を震わせた。
叫び声と共に、激しい熱が胸の内側から四肢の隅々まで波のように瞬く間に広がっていく。
今回ばかりは、姉だからと涙を飲む事態を越していた。妹に甘々な両親であっても、さすがに「駄目」と窘めるに決まってる。
「エリック様は私の婚約者です。貴方の婚約者ではありませんわ!」
ロベリアの顔は熱せられた鉄のように熱くなるのを感じた。
普段なら「感情を抑えないと」と己を律するところだが、そんなこと知ったことか。ロベリアは我慢ならぬ憤りに身体を震わせながら、鬼気迫る顔で妹に詰め寄った。
「姉の婚約者に手を出すなんて、人として最低です!」
「お、お姉さま!?」
ルージュは、まさか反論してくると思わなかったのだろう。ぽかん、と口を開けた後、橙色の瞳一杯に涙をため、エリックの胸に飛び込んだ。
「ひぃ、どうして怒るの!?」
「自分が何をしたか考えれば、怒られるのは当然のことでしょうが!
だいたい婚姻の契りも結んでいない男とキスをするなんて……!」
「別にいいじゃない。ねぇ、エリック様?」
「エリック様に同意を求めない! だいたい、貴方は――」
「ロベリア、いい加減にしろ! 彼女が怖がってるじゃないか!」
姉妹の口論に、婚約者が間に割り込んでくる。エリックはルージュを自分の後ろに隠すと、厳しい双眸を向けてきた。
「私は倫理観と社会通念を教えているだけです」
「言い方が厳しすぎる。……ああ、分かった。昔からその調子でルージュをいじめてたんだな! 噓だと思いたかったが、これで分かったぞ」
「いじめ?」
「ルージュから聞いてる。
君と顔を合わせるたびにネチネチと悪口を言われたり、新品のドレスに葡萄酒をかけられたりしたってな!」
突然の告発に、ロベリアは虚をつかれてしまった。
「エリック様? 何をおっしゃっているのですか?
私、姉としてルージュの行いを注意したことはありましたけど、悪口を言ったこともありませんし、意地悪をするなんて……というか、そんなことは今関係ない――」
「関係ある!
他にも、君はルージュの物を盗んだり服を切り刻んだりしたんだろ? 私は……君の言動に怖がる彼女を慰めていただけだ!」
「ええ。私、お姉さまが怖くて……うぷっ」
ルージュは目元に涙を溜めると、すぐに気持ち悪そうに手で口を覆った。エリックは瞬く間に彼女の肩を抱き寄せると、妹の白い顔を覗き込んだ。
「ルージュ!?」
「心配ないわ。実は……ここにね」
ルージュは肩に置かれた手を取ると、優しく腹の上へ導いた。
エリックはそれだけで、なにかを察したのだろう。死人と見間違えるくらい青白かった顔色が、一気に薔薇色に染まった。
「嘘だろ?」
「私は嘘を言いませんわ」
「責任は取ろう、ルージュ。僕と正式に結婚してくれ。心が清い君と結婚したいんだ」
「エリック様……!」
「なに、この茶番劇」
ロベリアは呆然と呟いたが、二人っきりの世界を構築している彼女たちの耳に入らなかった。