31 亜人は贖罪する
もはや死などは怖くない。
働き出した俺の頭は飢えではなく、死ではなく、心を縛られることこそを恐れていた。
感情を無視してあの魔獣を殺していれば、間違いなく俺の心は壊れていた。それを止めてくれた彼女を、俺の心と思考を取り戻し、俺をまともな生物に戻してくれた彼女を、易々と渡す筈がない。
「────俺は野垂れ死んだって構わない。元より命に代えても、この人と残りの子供達を解放するつもりだ。」
だから頭領に向かって、そうはっきりと意志を示した。
解放する前に死にさえしなければ、その後は力尽きて果てようが、生き延びて少ししてから餓死しようがどちらでも構わない。
自分を騙し不味い餌を貪るよりも、その方がずっといい。
「………何をしようと、俺はもう従わない。」
ただ一つ迷っているのは彼女の事だった。
本来なら恨むべき俺のことを助けて疲弊した彼女を残して行くことは出来ない。
しかしここで頭領達を相手にしてから向こうの救出に向かえるほどの力は残っていなかった。血を流し過ぎたのか、ふらつき寒気すらする。元々常に空腹だったのだから万全でもないのだ。ここまで出来たのだって、追い詰められて本来以上の力が発揮できたからだ。
「頭下げて。」
幸いあちらも警戒してか動かない盗賊に注意を向けつつ考えるも思うように頭の回らない俺に、澄んだ声が届いた。
声の方を見ると後ろに庇っていた筈の彼女が隣で俺の頭部に手を伸ばしていた。
「そんなもの、律儀にずっと付けてることないわ。」
訳のわからないまま言われた通り頭を下げると彼女と目が合った。その瞳の下にはうっすら隈ができているが、疲れより力強さを感じさせる。
それに気を取られている間に後頭部に回された手は、強烈な破壊音をもたらした。
頭の裏で何かが壊れる音がして、俺の枷が地面に落下する。
「頭も軽くなったことだし、ここは私に任せてさっさと行ってきて。」
これは、こんなふうに壊せるものだったのか。
それはそうか。壊れない道具なんて無いのだから。
「復讐がしたいのなら別にあいつを叩き潰してから行ってくれても一向に構わないけど、あなた違うんでしょう?」
俺が放心している間にも一人攻撃した彼女は先程よりも疲労の色が濃く見える。
それでも敗北は想像させず、俺の背中を押した。
この人はとても強い人だ。
走り出した身体は思うよりも軽かった。
国境を越えるまでに荷馬車を止める。
もはや警備隊を頼っていては間に合わないだろう。
走りながら、森をうろついていた──先刻倒した盗賊の一人が乗ってきたものであろう馬を捕まえて、俺は与えられた贖罪の機会を全うする為に月明かりの中を進んだ。
辺りは静まり返り、蹄の音と俺の荒い呼吸音だけが聞こえてくる。荷馬車は商品を満載している分、追いつく事は可能だと思っていたがまだ見える気配もない。
初めに荷馬車が留まっていた場所はとうに過ぎている。そこから車輪の跡を追って馬を走らせてどのくらい経っただろうか、永遠に走っているような気がしていた。
ふいに、静けさの中に車輪の音が加わり暗闇に目を凝らす。進む先、遥か前の方に目的のものが見えた。
早く、もっと速く。走り続けて既に疲れている馬には無理をさせていたが、それでも応えてくれていた。
荷馬車は目前に迫り、遂に俺は荷馬車に並んだ。
「お前、なぜここに………っ!」
追い付いた俺に驚きながらも短剣を抜こうとする御者台の男の腕を掴み引き摺り下ろす。
馬車に乗り移り馬を止めると、中から数人見張りの盗賊が出てきた。
「ノロマぁ、商品を持ち逃げた分際で何ノコノコ帰って来てんだ?」
「こいつ枷が外れてやがるぞ。」
「使えると思って生かしてやったが、これなら殺して角だけ売った方が良さそうだなぁ?」
下卑た笑いを浮かべて得物を構えた盗賊三人が距離を詰める。俺はその内の一人を殴打し、そこへ向かって来たもう一人の胸倉を掴んで残った男に投げつけた。くぐもった声が漏れ纏めて地面に落ちる。
直後、初めに殴った男に足を掴まれ一瞬動きが止まったところに、新たに馬車から降りて来た者が刃物で斬り付ける。掴んだ手を力任せに振り払った足を、そのまま斬りかかってきた男の腰にぶつけ蹴り飛ばした。
切っ先が腕を掠め微かに血が宙を舞うが傷は浅い。
そこにまた他のナイフが俺の首筋を狙うのを、頭を振り右の角で弾いた。
「……っ…お前、こんなに素早く動けるのかよ………」
ナイフと共に弾かれた男の腕を掴み、無理な方向に回して力を加えると、ボキリと嫌な音がした。
その男を突き飛ばしてから、背後にいた一人を躱して地面に叩きつけ、ようやく俺の周りには立っている者がいなくなった。
「はぁ………はぁ………」
自分の息がうるさい。
倒れているうちに拘束しようと、幌の中を覗くと子供の一人と目が合った。ぼんやりとした蝋燭の灯りの中で怯えたようにこちらを見ているが、目を逸らす様子はない。
「縄、を。」
警戒し緊張しているのか、呼吸を早くしながらも後ろに他の子供を庇う彼にそう告げる。彼は、そうだ、あの殴られていた子供だ。
俺の方も絶え絶えの息の合間に喋っているので酷く聴き取りにくい、要旨の分からない発言になってしまった。
「手を、出して。」
荷台に上がり固まっている彼の手首の縄に手を伸ばすと小さな体が反射的に逃げるように揺れた。
「お前、盗賊の仲間じゃないのか。」
そのまま縄を解く俺に、男の子は不可解そうな目を向ける。
「他の子の、縄を、切ってあげて。」
解き終わった俺は質問には答えずに次の子供の縄を解きにかかり、彼にはナイフを渡した。
全員手首だけ縛ってあったのでそれを必要分だけ解いてから先に外の盗賊を縛りに行く。
幸い抵抗されることもなく全員後ろ手に縛り終えた。後は警備隊に回収してもらうだけだ。
「終わったぞ。」
幌の中から声がかかった。
中を覗くと子供たちは怖がる素振りを見せたが、憔悴しているものの無事なようで安心した。
「盗賊は、片付けたから、帰れる。」
「おいアンタ大丈夫かよ?!」
荷台に上半身を預ける。身体に力が入らない。
安心して気が抜けたのかもしれない。
さっきまで何も感じなかった背中が痛み出し、血が生温く布を伝って広がるのを感じた。
「アンタすごい血だぞ………」
矢に、血が止まりにくくなるような薬でも塗ってあったのだろうか。よく見ればさっき軽く掠った箇所からもまだ血が滲んでいる。
「誰か、馬車は、動かせる?」
全員首を横に振るか俯いている。
予想通りだ。
「血の匂いで、動物や魔物が、寄ってくるかも、しれない………みんなで、ここを、離れて。」
「……アンタは行かないのか?」
灯りを手に少年が訊いた。
「俺は、血が止まってから、行くから。子供たちのこと、連れて行ってほしい。」
夜道を子供だけで行かせるのは心配だが、この状態の俺がいるよりはマシだろう。戦力にならないばかりか獣を呼ぶ餌になる。
この子は勇敢な子だった。今も俺のこの姿を見ても冷静だ。この子ならきっと無事に警備隊かどこかの村に辿り着ける。
「亜人だから、すぐ治る。」
後から行くという俺の言葉を信じていなさそうな少年にもう一言付け足し、それから帰り道の方角を知らせた。
「わかった、着いたら人を呼んでくるから。」
子供たちは不安そうにしながらも少年に従って移動を始める。荷台から降りた子供たちと入れ替わりに、俺は荷台に上がり身体を投げ出した。
最後が無責任に、託す形になってしまったのが残念だが、俺のしたいことは概ね遂げることができた。
仰向けになり、遠ざかる子供たちの足音を聞きながら空に目を遣る。幌の間から見える月が綺麗だ。
彼女のマントがもう返せない状態になってしまった。
彼女は無事だろうか、名前も知らない魔法使いの彼女は。
「ふふ、ははは………」
知らず知らずのうちに漏れ出ていた笑い声に自分でも驚いた。
白く輝く月を最後に目を閉じる。
俺の心の中は、かつてない充足感に満たされていた。