28 亜人は思考する
ぼんやりする頭の中で声が響いていた。
頭がよく回っていないのは分かっているが、俺はぼうっとしたまま突っ立っていた。
「早くしろ、このノロマ!!」
そう言って俺の頭を叩き、背にしがみついてきたのは頭領だった。そうだ、早くしないと。また食事を抜かれる。頭領は指示さえ守っていればきちんと食べさせてくれるのだ。
ぼんやりする頭に頭領の指示を反芻する。
騒ぎの中心にいる少女は近寄る俺の背後に隠れる頭領に手を向けたが、一瞬躊躇したように手を止め苦い顔をした。
頭の中の声に混ざって頭領の焦る声が後ろから急かす。
駆け寄る勢いのまま少女の右手首に手を伸ばし掴もうとすると、彼女は手首を引っ込めその反動でよろめいた。小さく舌打ちが聞こえて彼女の身体がぐらりと傾く。
そのまま頭から硬い床に倒れ込みそうになるのを見て咄嗟に片手を彼女の頭の下に潜り込ませた。
「……っは…」
地面にぶつかった衝撃で小さく息が漏れて少女の身体が跳ねる。
長い銀髪が数束宙を舞い、それから床に散らばった。刺繍糸のようなそれは俄かに光を受けて美しい。
「……………なんで、」
頭の下から手を抜き、馬乗りになって両手で彼女の両手首を押さえると、鋭く光る紫の瞳と目が合った。
掴んだ手首は微かに震えている。
俺が少し力を加えれば簡単に折れるような、繊細な何かで出来ていそうな手首が。
俺や他者への恐怖による震えではない、また別の、何か………
「そんな悲しそうな顔で押さえるなら、するな。」
野生生物に似た瞳が俺を睨み付ける。
したくなかった。やりたくない。
ぼんやりしていた言葉が輪郭を取り戻す。
───頭の中で響いていたのは、俺の声だ。
「こりゃすごいモノを見つけたぜ…」
少女を薬で眠らせた頭領は、興奮した様子で彼女を見下ろしていた。
「凄いぞ、想像以上だ……こんなもの、貴族どもがこぞって金を出す…!」
手下が彼女を拘束して荷馬車に運ぶのを見送り上機嫌で酒を呷った。
「しかし躾が大変っすね。」
「睡眠薬は効くし、何とかなるだろう。それより急ぐぞ。大分時間を食った、警備隊と出くわすと面倒だ。」
怪我の回復した者は出発の準備をし、俺は足の動かない数名と重傷を負った一名を二台の荷馬車に分けて積んだ。
準備が整うと、荷馬車に乗り込もうとする俺の肩を頭領が叩いた。
「今回は良くやった。国境を越えたら肉を食わせてやるぞ。」
言うだけ言って頭領は去っていく。
肉、なんて俺がここに来てから出たことは無かった。それだけ彼女は価値があるということか。
「よし、出るぞ。」
外はもう日が落ちて暗くなっており、警備隊の気配も無い。荷馬車は取引相手のいる隣国へと向かって進み出した。
ガタガタと居心地の悪い荷馬車の隅で膝を抱えて目を閉じる。瞼の裏に猛獣のような瞳が浮かび、あの時の悔しそうな彼女の言葉が離れない。
俺が動かなければ、きっと彼女は逃げられた。
俺は彼女ではなく頭領を押さえるべきだったのではないのか。否、もっと早くそうしておくべきだったのだ。数年前捕まってから何も考えられず自分では動けない俺は、何も為せなくなっていた。
今回窃盗や魔物の狩猟だけでなく人攫いをやると知った時に何も感じなかった訳ではないのに。
臆病な俺が、彼女の勇気を台無しにしてしまった。
食事の量が調整されていようが、抗うことなら出来るのだ。猛獣であるべきは彼女でなくむしろ俺の方だった。
飢えることより恐ろしいのは、自分の心が自分と離れたところに在ってしまうことだ。
俺の気持ちはずっと子供達を逃がしたいと、連れて行きたくないと言っていたのに、いつから思考出来なくなっていたのだろう。餌が足りずとも、この身体は未だ動くのだ。
ガタリと馬車が揺れて止まる。
外を覗くと月明かりだけが煌々と、いやに明るく輝いていた。
「しかしここは道が悪いな。どうにかならねぇのか、これ。」
補給の為に止まった荷馬車から降りた男が愚痴を零す。
動ける者は水場へ向かい、その間俺は商品を見ておけと命じられた。馬車の中には商品の他に怪我人が数人残っていた。
奥にある木箱に目を向ける。この中には、恐らく彼女が入っている。
このまま国境を越えれば戻ることは難しい。捜索の手も及ばないだろう。
釘打ちされている木箱の蓋を無理矢理剥がすように開けると、四角い空間に縄で頑丈に拘束された少女が納められていた。
「何をしている!」
音に気づいた一人が声を荒らげる。
咄嗟にそこにあったランプを壊し箱の中から少女を拾い上げる。取り出す際ついでに縄に力を込めると思ったよりも容易に千切れた。
「なんだ?!」
「ノロマが………!」
気付けば俺は彼女を抱えて飛び出していた。
俺の方が夜目が利く。月よ出るな、照らさないでくれ。
頭領は決して彼女を諦めない。まずは彼女だけでも逃がさなければ。
彼女が奪われれば必ず追いかけてくるだろうから、他の子供達は警備隊か安全な場所に彼女を移してからでも遅くない。逆に子供を数人抱えて逃げたところで彼女が手元にあれば頭領はそのまま出発する可能性が高い。
「おい来てくれ!」
「逃がすな!!」
後ろに盗賊達の怒号を聞きながら木々の間を走る。途中、目隠しと猿轡を外したが彼女は腕の中で眠ったままで起きる様子もない。あの薬は持続力はそれほどの筈なので今なら衝撃や騒ぎで起きてもおかしくはないのだが……眠りが深いのだろうか。
期待も虚しく輝き続ける月の光を反射する彼女の髪にフードを被せて隠す。まだ追手は来ていない、しかし警備隊の気配も一向に無かった。
町や村まで戻れば或いは、と思うが………
「─────っ!!」
周囲の木の密度が低くなってきたところで俺の腕を矢が掠めた。鋭く風を切る音がして続けて地面にも数本刺さる。
「見つけたぞ!」
灯と蹄の音が近づいて来る。
即座に木の陰に身を隠そうとしたが遅く、後ろから射抜かれた。
どっと重い衝撃が背中に走り前方に身体がぐらつく。そこへもう一本矢が加わり、完全に重心の傾いた身体は地に向かって落ちる。抱えていたものを自重で潰さないよう横に放り出せば一回転半ほど転がり、銀糸の髪がフードから溢れた。
「商品の持ち逃げをしてタダで済むと思ってんのか?」
「やっぱりてめぇはオツムが足りてねぇみたいだなぁ?!」
荷馬車の馬を切り離して追ってきたらしい二人の男がダガーに月の光を反射させ靴で土を躙りながら距離を詰める。
俺は背の矢を二本とも力任せに引き抜き、迫る盗賊に対峙した。
男が振るうダガーを避け胸倉を掴んで投げると派手な音を立てて木にぶつかる。
「……チッ、化け物かよ。」
もう一人が距離を取ろうとしたので離れる前に体当たりで倒し、腕を外した。
二人とも動かない間に放り投げたままの彼女のもとへ駆け寄り無事を確認する。縄の跡は痛ましいがその他の外傷は見当たらなかった。
良かった、怪我はしていない。
力加減を間違えると壊れそうな彼女の身体を確認し終えたところで彼女が薄く目を開けた。
安心したのも束の間、枝を踏む音が耳に届いた。もう来たのか。
「大人しくしてればいいものを………」
「そいつを寄越しな。」
彼女を取り戻そうと追って来た盗賊を捌こうとするも数が多い。
先に逃げろ、と叫ぼうと開いた口からは乾いた空気が漏れ出るばかりだった。
長い間言葉を発していないせいか、叫びは声にならず消える。
俺が抑えている間に逃げてくれないだろうか。
時折彼女の方を見やるも動く気配はない。
何度か試してようやく声の調子が戻ってきたところで、視界の隅で先ほど木にぶつけた男が起き上がり俺に向けて弓を構え、直後雷に打たれた。
後ろを見るとようやく動いた彼女は逃げるのではなくこちらを向いていた。
ああ、そうだったのか。
「やっぱり貴方も甘いみたいね。」
月の光を受けて青白く浮かび上がる、伝説上の生物のような神秘的な人。この人の壊れ物のような手は、他人を傷付けるのが怖くて震えていた。




