89 悪魔は揶揄される
エリル村のお祭りが終わり、この周辺も本格的に寒くなってきた。
木に囲まれた日の届きにくい場所ということもあって、余計に寒い。夜になるとぐっと冷える。
《そろそろ寝なさい。》
「ふとんが温まったらね………」
毛布にくるまって暖炉の前に居座るミスティアを、クッションがわりに背中に敷かれているザッハさんがグイグイと押し出す。
「準備できたよ。」
《ほら。》
「はいはい……」
寝室からミスティアを呼ぶと、毛布を巻き付けたまま億劫そうに立ち上がりこちらへ来た。
暖気が逃げないように毛布をしっかり掴む様はペンギンのようだ。
気温が下がってからは、寝る前にベッドの中に火で温めた石を仕込むようにしている。温石だっけ、昔のカイロみたいなものだ。
大体温まったら石を抜いて、今みたいにミスティアを呼ぶ。
「おやすみ。」
「えぇ、おやすみなさい……」
そしていつも通りその辺を浮遊しながら寝入るミスティアを眺めていると、1分ほどモゾモゾと動いた後カッと目を見開いた。
「………寒いわ。」
出来る限り毛布との隙間をなくし蓑虫状態になったミスティアが僕に要求するような目を向ける。
近寄って頰に触れると、確かに冷たい。
「えーと、石足す? 温かい飲み物でも作る?」
どっちも温めるのに多少時間がかかるけど。
飲み物……虫歯とか考えるとお白湯がいいかな。
考えながら返事を待っていると、返事の代わりに毛布から右手の先だけを出して手招きされた。再び近寄ると、手のひらを掴まれる。
「悪魔でも体温あったわよね。」
確認するように手のひらを揉み込まれ、否応無しに尻尾が反応する。幸い宙に浮いていたので壁や家具にぶつけずに済んだ。
「な、な、な、なにを………!」
「あら、あたたかくなった……。」
揉んでいるうちに上昇してきた僕の体温に満足したのか、左手も出してきて両手で揉み出した。
「あのさ、僕の手はカイロじゃないんだけど。」
確かに揉んだら温度上がったけど!
でもあれだよね、カイロって揉んだからって温度が上がる訳じゃないんだよね。そんなこと今はいいんだけど、そんなことでも考えてないと脳みそが保たない………。
「ジル、ちょっと靴脱いで。」
「えっ?!」
「いいから早く。」
混乱している間にも掴まれた手のひらから順にベッドの中にズルズルと引き摺り込まれていく。
こういう、獲物を巣に引き込んで捕食する生物いるよね。あとはホラー映画で割とこういう引き込まれ方する。
実際力は強くないけど、振り払うのも………と躊躇っているうちに僕の身体は肩まで突っ込み、上半身をホールドされた。
「あ、あの、あれ、ベッド狭いから!」
ホラー的に言うと、異空間から現れた黒くて長い髪の毛を巻き付けられて闇に引き摺り込まれることから逃れようともがく人間みたいに、逃れようとバタバタと足を動かして踏ん張る。
「ふとんが捲れて寒いからやめて。」
「あ、はい………。」
が、ミスティアの低い声に無力化される。
そして抵抗虚しく中に吸い込まれた。
ちょうど窓側にいるミスティアがこちらを向き、対面する僕にしがみつくような形だ。
このまま抱きつかれているのはまずい………特にこの向かい合ってて顔の距離が10cmくらいなのがまずい。
「まぁまぁぬくい………」
「ひゃっ……!!」
向かい合わせの状態からどうにか回転して逆を向いた頃、太腿の間に何か滑り込んできた。
不意に訪れたひんやりした感触に変な声が出た。
な、なに……足? 足を僕の太腿に挟んで暖とってるの?
「ふふ、ほれほれ。」
反応が面白いのか、指先とか耳たぶとか、冷たいと思われる部位をありったけ全部押し付けてくる。
ヒヤリとしたものが僕の首筋やら背中に引っ付く度にこっちが微振動するのを楽しんでおられる。
「も、もう僕出るから!!」
「……ごめんなさい、悪ふざけし過ぎたわ。」
ベッドの中で前進するも、背後から制止される。
「もうしないから、ね。」
いや、僕は別にヒヤヒヤ攻撃されるから出たいんじゃなくて、そもそもこの状態が、こう………高血圧で血管破れそう。
「寒くて眠れないの……いいでしょ………。」
微睡んだような、小さく溶けそうな声が耳元をくすぐる。
なんでそんな頭の近くにいる? なんで至近距離で囁く? わざと? うっかりOKさせようとわざとやってる?
「あのさ、あの、あの、あれ………あれ?」
頭がオーバーヒートしてきて彼女の思う壺だ。
暑い、ものすごく暑い。身体中発火してるみたいに熱い。僕自身が温石にでもなったかのような気分だ。
まずいまずい……温石と化した身体から理性を切り離して対応しないと。脳が溶ける。
「………ま、魔女様さぁ、中身は小学生じゃないんだし、こういうのは良くないと思いますけど?」
返事はない。
「年頃のお嬢さんがねぇ、こういう………」
全く返事がない。
「え?! もう寝た?! 嘘でしょ?!!」
すぐ背後では、背負ったら下ろせない妖怪のようにがっしりと背中にへばりついたミスティアが至近距離で寝息をたてている。
───こうして僕は毛布の中の仄暗い深淵へと呑み込まれた。
◇
深夜、澄んだ空気がしんとした静けさを際立たせる中、厚手の絨毯の上で魔狼は身動ぎした。
《………静かだね。》
この時間。みな寝静まり、周囲に家屋もなければ人気もないこの場所が静まりかえっていることは何もおかしくはない筈だが、魔狼はじっと寝ていられない程の落ち着きのなさを感じた。
なんとも違和感がある。
辺りを見回し、耳を澄ませ、違和感の正体に気がつく。
自身が眠るこの場所と壁一枚隔てた向こう、寝室から声が聞こえないのだ。
飽きずに毎日、魔狼の気が狂うほどに聞こえすぎて、逆にないと不安になるまでになってしまったらしいあの悪魔の囁きが。
《おい、病気か。感染る類のものではないだろうね。》
伝染する病ならば早く隔離せねばと、寝室のドアを開く。
常ならば娘の周囲をふわふわと浮遊している筈の悪魔の姿が見えない。天井の方から視線を下げれば、ベッドから息継ぎをするように顔だけを出す赤い悪魔が目に入った。
《……何をしている。》
「ザッハさん、いいところにっ…………」
息も絶え絶えといった様子で、こちらに助けを求めるような目を向けたり目を伏せて恥ずかしそうにしたりを繰り返している。不気味な光景である。
茹だって温かそうな血色の顔だなと感想を抱きながら魔狼は黙って眺める。
「ザッハさん………?」
《貴様が弱っているのは珍しいな。》
しばらく眺めてから、そう言って愉快そうに笑い声を漏らした。
「笑い事じゃな……っう、ザッハさん、助け……っ、助けて………」
そうこうしているうちに、後ろから伸びてきたミスティアの腕にジルベールが更に引っ張り込まれる。顔の変色が進行した。
この見た目に反して存外初心な生き物は、密着状態にあることに耐えきれないようだ。静かなので不埒を働いているのではと心配して来たが杞憂………むしろ逆に見える。
魔狼は安堵した。
《腕を退けて出てくれば良かろう。》
「魔女様が尻尾を踏んでて、力が入らない………」
魔狼の双眸に映るのは腑抜けた男のみ。
面白く思いながら数秒観察してから、放置しても問題ないと判断した。
《────ならば黙ってそのまま寝たらどうだ。》
「はぇ?」
《良かったじゃないか。》
珍しく下卑た笑みを見せて、魔狼は退室した。
◇
結局、あの後解放されたのは明け方で、ミスティアが寝返りを打ってようやくだった。
今日はもう過ちを繰り返さない。温石もめちゃくちゃ増やしたし、毛布も追加した。呼ばれても近づかない。
「じゃあ寝るわね。おやすみなさい。」
ミスティアが寝室のドアを開ける。
僕は少ししてから入って、2メートルくらい距離をとろう。
そう思って見送ると、ザッハさんが余計なことを口にした。
《ソレは持って行かなくていいのか。》
完全に僕のことを言っている。
昨日の僕の醜態が余程お気に召したらしい。
おじさんのくせに若者の恋愛を揶揄うとか………あれ? 僕の方が年上?
いやいや、心は若者だから………。
「そうね。ジル、一緒に寝ましょう。」
あぁぁあぁあぁ!!!
「お、男と一緒に寝るってどうかと思うけど。」
ハッキリ言わないと……言ってもあんまり頓着しないけど、言わないよりは。
ていうかこの前も注意したのに………
「自分からそういうこと言う奴は大丈夫よ。昨日も快適に眠れたし。」
こっちは一睡もできなかった。
寝る必要ないから別にいいけど。
「僕のこと何だと思ってるの。」
「湯たんぽ………?」
駄目だ、男として見られてないどころか便利グッズと思われている。
「なによ、ロリコンなの? 無い胸触る?」
「は?! 遠慮します!!」
これ以上喋っていると、やらかしたりやらかされたりしそうだったので大股で後退りして退却する。
外に出れば雪が降っていて、足元に少し積もっていたものがサクサク小気味よく音を立てた。
《いいのか? チャンスだったろうに。》
家の横で逆さまになって浮かんでいるところにザッハさんがやって来る。
変なことを言うので危うく地面に落ちかけた。
「ザッハさん、僕が出来ないの分かっててそういう、性格悪いよ。」
《……貴様でなければこういった揶揄い方はしないので問題ない。》
こういうとこミスティアと似てるな……。
なんか似たような台詞に聞き覚えがある。
血縁関係がないのに遺伝子を感じる。
《私は散歩に出る。あの娘が寝ている間に触れても、今なら誰も見ていないぞ。》
実際触ったら怒るであろう狼は、尻尾を振り振り雪の中に消えていった。