『滅びを望む』
お風呂上がりに火照った体を冷まそうと、ベランダで穏やかな夜風を浴びる。
夜空でも見えれば心も安らぐだろうに。
残念ながら〈魔界〉の空は昼も夜も雲しかない。
「世界滅亡か……」
平和な時間の中で、俺は唐突にそんな物騒な言葉を口にした。
特に考えがあった訳じゃない。ふと思ったのだ。
「……記憶」
ぼそりと呟くように口ずさむ。
失われた記憶が、本当に徐々にだが戻りつつある。
喜ばしいことなのだろうが、素直に喜べない自分がいるのもまた事実。
やはり考えてしまうのだ。
――記憶が戻った場合、今の俺はどうなるのだろうか?
以前の俺に変わるのか、それとも両方を兼ね備えた俺になるのか。
資料で調べたりしたものの……結局は本人の感覚であるためな、あまり参考にはならなかった。
「――物騒なことを仰いますね。魔王様はやはり、世界を我が手に。そう仰ると思っていましたが、滅びがお望みですか?」
「気配を消さずに、存在感全開の奴め。……滅ぼすくらいなら繁栄させるさ」
普通こういう時は静かに、忍び足で近寄って驚かすだろうに。と心の中でツッコミつつも、声がする直前にそこにいることに気付いた身としては、あまり強くは申し立てできない。
こいつに関しては常識などどうでも良いらしい。気配を全く隠さずに、まるでここに自分がいるのだと主張されているようだった。
「ノックをしたのですが、応答がなかったので入らせていただきました」
「すまん、気付かなかった」
「そのわりにはあまり驚かないのですね」
最近、女性陣を不満にさせることが多いな。
自分自身への不満を現した息は風に紛れて消えた。
「これでも驚いている。フィーネが来ると予想し、いくつもの弁解と謝罪を用意しておいたのだが……」
「……フィーネさんとは、廊下でお話しました」
「内容は言えない話、だろ?」
「どうしてそれをっ」
やはり表情が変わりやすい奴だ。
だからこそ考えていることが分かりやすい。
顔に書いてあるからと言うのは無粋かもな。
「勘だ。乙女の勘なる的中率が高い、女性にのみ許された能力があるのなら……さしずめ俺のは魔王の勘だ」
「勘、ですか」
「曖昧だと言いたげだな」
「い、いえ、そのようなことは……すこしだけ」
口ごもって結局思いの丈を白状した。
正直者だな。
真面目と称するべきか。
どちらにせよ、隠し事には向かない性格のようだ。
「世の中なんて曖昧なことばかりだ。お前が驚きを示したこの国とて、俺が精神操作で操っている可能性がある。無論、そんな無駄な魔力を消費するのはごめんだがな」
昼よりも暗い夜を、城下の薄明かりを見下ろしながら例え話をする。
「心配するな、ユイナを責めているのではない。ただのお節介だ」
フィーネが相談役を譲ったのは意外だった。
しかも相手がユイナとなればなおのこと。
まぁ、フィーネだしな。
何かしらの考えやら企みやらがあっての判断だろう。
「――で、何の用なんだ?」
半ば誤魔化す意味も込めて、部屋を訪れた理由を訊いた。
「魔王様が思い詰めたご様子だったので……お役に立てたらと」
「おやおや。フィーネやアカネだけではなく、出会って間もないユイナにまで……ははは」
自信をなくしそうだ。
大袈裟に項垂れると、ユイナがあたふたと慌ててしまったので冗談だと笑いかけた。
「俺は前魔王――フレズベルク・デーモンロードによって何処か別の場所から召喚された。〈魔族〉と最も敵対意思を持つ〈人間族〉が勇者の召喚を行った影響でな」
「召喚魔法、ですか」
首を傾げるユイナに頷きを返す。
「召喚魔法自体は昔から存在した。が、実用するには不確定要素が多く、過去の過ち含めて禁忌に指定された魔法だ。まぁ、それを使って俺が召喚されたのさ」
「召喚魔法の向こう側は何処に繋がるか、未だに判明していないと聞きます」
「主に別の世界が多い、とされる。この場合の“別の世界”とは、〈四界〉以外の場所になる」
神が住まうとされる神界とも呼ばれる――〈天界〉。
神の寵愛を受け、最も繁栄した種族が住まう――〈人間界〉。
神々とは相反する存在である悪魔が住まう――〈冥界〉。
そして、俺と魔族が住む――〈魔界〉。
これらは〈四界〉と呼ばれ、それぞれ別の世界のように扱われているが実際はひとつに繋がっている。
国同士の国境のように、何かしらの柵が隔てられてはいるものの、移動自体は難しくはあっても不可能ではない。
だが、本当の別の世界ならば話は違う。
少なくとも自らの意思で別の世界に行った者の記述は残されていなかった。
「研究者たちが喉から手が出るほどの欲しがる研究対象なんだよ。もちろん、実験に付き合う気は微塵もないがな」
「魔王様が召喚前にいた場所は――」
「残念ながら知らないんだ」
「え?」
予想外の返答に間抜けな声が出てしまったようだ。
「ふっ、はははははは」
「な、なんですか!」
「はぁー、悪い悪い。反応が面白くて、つい、な」
謝罪しながらもふと思い至る。
こんなに声を出して笑ったのはいつ以来だろうか……。
「話を戻そう。俺は前魔王フレズベルク、もといフレンに召喚される以前の記憶を失っている。いわゆる記憶喪失だ」
「記憶喪失なのは道中でお聞きしましたが、そのような理由があったのですね」
「さっきも説明したが、召喚魔法は不安定要素の塊だ。記憶喪失でも俺自身、この世界の基準でになるものの自分の能力は高いと自負する」
ここよりも、過酷な世界にいたのかもしれない。
と思考をずらしてしまったのに気付いて元に戻す。
「そんな俺でも召喚魔法に関してはまだまだ不明瞭な部分が点在するのだ。――と、長々と話したわけだが、他に気になることがあるみたいだな?」
「……はい。あの後、ここの方々とお話しする機会があり、魔王様の目的が世界征服だと知りました。それからアーカイスさんに呼び止められ、お聞きしたのです」
――誰もが笑顔で過ごせる、平和な世のために。
ユイナはそう言葉を続け、次の瞬間には眉を歪めた。
「夢物語、理想だと蔑まれそうな胸の内で抱いているのだと……なのに――」
「やはりお前を連れてきて正解だった」
俺は彼女が何を言いたいのかを知りながら、その途中で遮った。
賢い、と言うよりも聡いの方がしっくり来る。
心の中で重荷を背負わせる罪悪感に苛まれながらも、必要なのだと込み上げるそれを押し込んで告げる。
「俺が人間たちや他の種族ではなく、彼らと共にいる理由をユイナには話しておこう――」
時間にすれば数分程度の短い内容だった。
ただ、要した時間と、内容の密度は必ずしも比例しない。
ユイナの表情がそれを物語り、俺の胸を締め付ける感覚が襲った。
「――フィーネは気付いている。俺の企みを知ってなお、共に歩む道を選んだ。だから俺は、あいつを誰よりも信頼してんだ。本人には恥ずかしくて言えんがな」
あんな風に捲し立てておきながら、フィーネが断ればユイナをここに住まわせはしなかった。
とは言え約束があるから、手の届く範囲にはいてもらうつもりだったがな。
「――って、何で泣くんだ!?」
「辛すぎますっ。それではあまりにも、おふたりが……悲しすぎますっ!」
優しい奴だ。
自分以外の者の、他者のために涙を流せる。
そんな少女の頭に手を乗せて、涙が早く止まるようにと祈りながら優しく撫でる。
「感謝する、ユイナ」




