祝福の朝
智美は今日の約束をデートだと信じ、楽しみにしていた。こんな日に恋人と約束をして、他のことを考える人間は多分いないだろう。待ち合わせた雑居ビルの喫茶店。テーブルの上では熱かったはずのココアがすっかり冷めている。向かいの席に座る男は、いくつもの言い訳を並べ立てていた。
それなら、もっと早く言えばいいだろう。なぜ、別れ話をわざわざクリスマスイブにする必要があるのか。プレゼントと呼ぶにはあまりに残酷な仕打ちだ。
「君には僕よりもふさわしい人が沢山いるよ」
男は最後にそう言うと立ち上がった。伝票を手に、コーヒーには手をつけずに。
二人で話していた、正確に言えば彼が一方的に別れる理由を話し続けたのは三十分ぐらいだったろうか。これは何の拷問なのだろう。智美はため息さえつく気になれず、テーブルに視線を落とす。そして冷めたココアを手に取ると、ゆっくりと飲み始めた。たった今別れ話をした相手と並んで店を出るほど、智美の神経は図太くはなかった。
改めて周りを見ると、店の客は皆カップルかグループで、一人で過ごしているのは智美だけだった。それに気付くと急に、このまま店にいることが、別れた男と並んで歩くのと同じくらい居心地の悪いものに変わった。ほんの少しだけ急いで残りを飲み干すと、空になったカップを置いて、智美は静かに店をで出た。会計は彼が済ませている。誰にも止められることは無かった。そのままビルの出口へ向かう。
驚いたことに、彼はまだビルの出口にいた。そこに並んだ公衆電話の一つで、誰かと連絡を取っている。切れ切れに聞こえる言葉から察するに、相手は新しい恋人らしい。知らぬ間に二股を掛けられていたようだ。捨てた女が通るであろう場所で、選んだ女との連絡を取る男。場所を変えるくらいのデリカシーも無かったのかと、智美は男を見る目の無い自分を呪いつつその後ろ姿を眺めた。
「約束の時間、もうすぐだろ。まだ終わらないって、どういうこと?」
彼の声が雑居ビルの廊下に響いた。
「え、何言ってるの、一人に決まってるよ。どうして他の誰かといるって思うの? 何疑ってるの、クリスマスに彼氏を一人で待たせておいて」
どうやらもう自分は、新しい彼女との待ち合わせまでの間持たせに使われたらしい。そしてその結果、選んだ彼女に二股の匂いをかぎつけられた。これから彼は、自分にしたより遙かに多くの言い訳を彼女に用意しなければならないだろう。一方的に別れを告げるためだけに、わざわざこんな日を選んだ罰だ。智美はほんの少しだけ溜飲を下げ、彼の後ろを黙って通り過ぎる。彼へのプレゼントは、ビルを出た歩道のゴミ箱に捨てた。
家路に向かう街並みは、いつもより華やいでいる。今夜、一人でうらぶれて歩いているのは世界中に自分一人のような気がした。こんな日に一人きりの部屋に帰るのは気が重く、けれど賑やかで幸せそうな人の群に溶け込める訳もなかった。立ち止まって見上げる頭上には、人工の星。鮮やかなイルミネーションがきらめいていた。街灯と看板にに照らされた明るい夜の街。人工の光と引き替えに、本物の星の微かな光は空から消え失せている。
この暗い空を、今夜サンタクロースが光より早く駆けていく。世界中の子供を喜ばせるために、トナカイが引くそりに乗って。
サンタクロースか。
本当にいるなら、真新しい私をちょうだい。手も脚も、目も髪も肌も、心も、新品の自分。捨てるのが惜しくなるようなぴかぴかの私。
そこで智美は、信じてもいない存在にかなう訳のない願いをかける自分の滑稽さに自嘲した。そもそも自分はもう子供ではない。たとえサンタクロースが実在しても、プレゼントをもらえる存在ではないのだ。
サンタクロースはいないと確信したのは、記憶にある一番古いクリスマス、たぶん四歳の時だ。クリスマスの朝、目を覚ました智美の枕元にはプレゼントがあった。母親が「あー、サンタさん来てくれたねえ」と大げさに言ったのを覚えている。プレゼントの包装紙は、父親がたまに買ってくるお土産と同じものだった。プレゼントには、サンタからのメッセージが添えられていた。癖の強い、見慣れた母の字で。サンタクロースは来なかった。父と母が、真似事をしただけだ。子供の観察力でもそれは偽物と分かったし、そこからサンタクロースはいないという結論を導き出すのは、子供の推理力でも簡単なことだった。
つまらないことを思い出したと、智美は止めていた足を再び動かし始める。
駅前にさしかかると、いつもはもう閉まっているテナントビルが営業時間を延長していた。ショーウィンドウの中で、特大のテディベアがライトに照らされている。小柄な大人が膝を抱えて座ったくらいの大きさ。目が合ったように思ったのは気のせいではないだろう。今夜、話を聞いてもらうのにちょうどいい。どうせ友達はみんな、自分のデートで忙しいのだ。ディスプレイ用の非売品でなければ良いのだけれど。智美は吸い込まれるようにビルに入っていった。
飾られていたのは、雑貨屋の商品だった。一体だけ店頭に残っていたぬいぐるみの顔を見て、智美はウィンドウに飾られたものが欲しいと店員に告げた。店先のぬいぐるみとは、目が合わなかったから。店員は一瞬いやな顔をしたが、ウィンドウの商品を下げてくれた。大きなぬいぐるみを、更に大きな箱に納める。店員は、ラッピングをどうするか訊いてきた。智美はクリスマスらしい赤地の包装紙と、サテンの緑のリボンを頼んだ。そう、これはサンタクロースからのプレゼントだ。本物が来てくれないなら、自分で自分のサンタクロースになればいい。
重くはないが大きな包みを抱えて、智美は帰りのバスに乗る。これがサンタのプレゼントなら、明日の朝までは開けられない。これが自分の元に届くのは、今夜眠っている間なのだから。結局、今夜は一人で過ごすことになるらしい。その事に気付いた智美は窓に映る自分の顔をちらりと確かめる。その顔は苦笑していた。
家に着くと、真っ先にベッドの脇に箱を置いた。明日の朝までは、これは無い物なのだと自分に言い聞かせる。デートだと思っていたから、今日はろくな食材も無い。あり合わせの野菜炒めとインスタントのスープ。食事の後、バスルームで少しだけ泣いた。風呂上がりに買い置きの缶ビールを一本飲んで残りの本数を確認する。友達との新年会は、うちで鍋パーティーを提案しようと智美は思う。そんなのは冴えないと言われるかも知れないが、ビールの消費を手伝ってもらわないと。
歯を磨いてベッドに入る。なかなか寝付けなかった。何度も姿勢を変えるうちに、智美は何かが顔を濡らしていることに気付いた。それが自分の涙だと気付くのに、少しかかった。それから智美は、声を押し殺して泣いた。あんな男を相手に、無駄な時間を過ごさなくて良かったではないか。智美は泣きながら、そう自分に言い聞かせる。
浅い眠りから覚めたのは、何かの気配のせいだった。この部屋に、自分以外の何かがいる。智美はベッドのヘッドボードの灯りをつけたが、淡い灯りに照らされた部屋には誰もいなかった。寝ぼけていたのだろうか、ビールも飲んだことだし。智美は灯りを消そうとして、気配の元に気付いた。それはベッド脇、箱の中だった。梱包してもらったときに、虫でも入ったのだろうか。この時期に人の暮らしに紛れる虫と言えば、アレしかいないだろう。箱を開けて確かめるか。智美は眉をしかめ、時計を見た。零時はとっくにまわっている。サンタクロースのプレゼントが枕元にあってもおかしくない時間だ。箱を開けるのに、早すぎることはない。思い切って開けることにする。智美はベッドから降りると、部屋の灯りをつけた。アレなら、薄暗いままでは逃げ出されたときに厄介だ。緑のリボンをほどき、包装紙を剥がすために箱をひっくり返そうとしたが、やけに重い。底からきちんと剥がすことは諦め、包装紙を破り始める。むき出しになった段ボールの上蓋を開いた。
箱には虫はいなかった。そして、ぬいぐるみも入っていなかった。
代わりに黒い髪が見えた。裸の若い女が、膝を抱えて座っていた。女がゆっくりと顔を上げる。その女を、智美はよく知っていた。髪も顔も、体つき、爪の形まで、毎日見慣れた自分のそれだった。ただひとつ、目だけは違っていた。自信と情熱に輝く瞳。自分がそんな目をしていたことはあったろうかと智美は思う。
サンタクロースか。
本当にいるなら、真新しい私をちょうだい。
どうやらサンタクロースは本当にいて、智美の願いを聞いてくれたらしい。箱の中の智美は、膝を抱えていた両腕をほどくと、ゆっくりと智美へ伸ばしてきた。両手が首に絡まる。智美は抵抗しなかった。自信に満ちた目の前の自分を、美しいと智美は思う。自分を美しいなどと思ったのは、生まれて初めてだった。首にかかる圧力が強まる。息が苦しくなり、ゆっくりと世界が遠のいていった。
朝の光と目覚まし時計の音が、智美を眠りから引きはがした。目覚めた智美は、おかしな夢を見たものだとベッド脇のダンボール箱を眺めながら思う。きっとこんな物を買ってきたせいだ。今日はゴミの日だし、ちょっと惜しいけど捨ててしまおう。智美は会社へ行くための身支度を始める。
身支度と朝食を済ませた智美は、段ボール箱を抱えて部屋を出る。持ち上げられるに決まっている。中身はぬいぐるみなのだ。ゴミ集積所に段ボール箱を置いて、智美はバス停に向かう。
乗り込んだバスで、智美は一人の男性の胸元に目を奪われた。その人は、昨夜、自分が捨てた彼へのプレゼントと同じネクタイを締めていた。
男性と目が合う。ショーウィンドウのテディベアのように。男性は、真新しい智美に向かって微笑んで見せた。
今日は、世界中が真新しい朝を祝福している。
ずいぶんと懐かしいことを思い出したと、智美は考える。今は中身の入った段ボール箱などゴミとして回収してはくれない。スマートフォンが普及している現在、若者は恋人との連絡に公衆電話など使わない。どちらかが一人暮らしなら、クリスマスは出かけるよりも、その部屋で過ごすカップルが多いだろう。そもそもカップルという言葉は、今も生きているのだろうか? 暮らしも風習も言葉も、時代と共に変わるものだ。
智美の暮らしも、あの日を境に大きく変わった。
あの日バスで目が合った男性は、居間でくつろいでいる。いや、くつろぐと言うには少し不機嫌だ。その理由に、智美は楽しげな微笑を漏らす。一人娘の佳美が、デートで遅くなるというのだ。
「何がデートだ、高校生の分際で。そういうことは自分で稼いでからにすればいい」
それが夫の言い分だった。今時の高校生が異性に興味もないようではむしろ不健全だと智美は取りなしたが、夫の機嫌は直っていないらしい。テーブルの上には、刺身と天ぷらという、クリスマスイブからは程遠いメニューが展開されている。もちろん夫の好物だ。智美は十何年ぶりの二人きりのクリスマスを、それなりに楽しんでいた。
クリスマスケーキはちゃんと買ってある。商店街の洋菓子屋が出しているクリスマスの特製ザッハトルテは、佳美のリクエストだ。これは夫も好きなので、切り分けたら一番にピースを取る権利を夫にあげようと智美は思う。
洗い物を切り上げて、智美も食卓に着く。智美がほほえみかけると、夫は憮然とした顔で、それでも機嫌はやや上向きになったようだった。
「洗い物しながらね、初めて会ったときのことを思いだしたの。あなたが締めてたネクタイ」
「初めてじゃない。毎日、同じバスに乗っていた。さとが俺に気付かなかっただけだろう」
「そうか、そうね」
二人は小さく笑う。夫に「母さん」ではなく「さと」と呼ばれるのも久しぶりだ。「さとみ」の上二文字で「さと」。何となくくすぐったい。
あの日、未来の夫が締めていたネクタイは、同じ柄ではなく、智美が買ったそのものだった。智美が捨てるところを、彼が偶然見つけたのだ。そして、わざわざそれを拾った。包装された箱の中身がネクタイだと知って、翌朝それを締めて出かけたのだ。智美の気を引くために。その話を聞かされたときは、驚くよりあきれたものだ。ゴミ箱を漁ったの?
「今は、そういうのはストーカーって呼ぶのよ」
「俺、何か無理強いしたっけか?」
そして二人はまた小さく、楽しげに笑った。
ゆったりした食事の後は、ザッハトルテとワイン。もう少しだけ、二人の時間が続くといい。
時計の針は十時に近づいている。佳美はもうすぐ、最終のバスで帰ってくる。デートは楽しかったろうか? もちろんそうだろう。大切な人と過ごす時間が楽しくないわけがない。
メリークリスマス。智美から夫に、夫から智美に、同じ言葉が贈られる。
家族が揃ったら、イブはお開き。小さな子供はいないから、この家にサンタクロースは来ない。
それでも夜が明けたら、平凡な家庭にも、祝福の朝が待っている。
お楽しみ頂ければ幸いです。