黒い影
人々は畑を耕し、薪を割り、牛に牧草をやり、馬の毛繕いをし、生活しているようだった。牧歌的な光景。でも、そこにはどこか血が通っていない……気がする。無駄な働きをしているものがいない。まったりとスラング満載で会話する奴らの声も、忙しく走り抜けていく冒険者の姿もないMMOなんて、不自然極まりない。
「田舎が珍しいのか? 体調も優れないようだし、どの道準備も要る。少しこの辺りを巡ってみよう」
ラピスはきょろきょろしている俺を見兼ねて、そう提案した。じっと手を見る。本当にじんわり脂汗をかいている。相当なリアルさがウリのセレスだけれど、ここまで再現されるのはおかしい。バーチャルに現実が浸食してきているようで、寒気がする。ほら、寒気までリアルだ……。
「辛そうだな。大儀なら手を貸そう」
ラピスが姫らしくない気安さで手を差し伸べてくれる。しかし、汗ばんだ手を握られるのが恥ずかしくて俺は首を振った。
「心配ない。外の空気を吸えば落ち着く」
「そうか? 無理はするなよ」
ラピスが少し先を行き、俺が案内をしてもらう形になる。
「この辺りはオニキスと隣町の境だな。酪農が盛んな場所で……」
ラピスが集落の説明を始めるが、頭に入って来ない。とにかく、ここから抜け出す方法が知りたい……今プレイヤーキャラを見つけたら、土下座してでも同行して貰うだろう。不安で叫び出しそうだ。実際、叫んでもNPCだけだから問題ない気がする。逆に考えれば、NPCだけなのだから何をしたって許されるのではないか。壺を割ったって、タンスを漁ったって、それを咎める命令がされていなければ感知さえされない。
……いや、でも、ラピスならどうだろう?
「隣町は炭鉱で栄えているんだ。翠玉を発見したのもそこだ。しかし、その時点ではエメラルド・ザウルスの出現は確認されず……」
流暢に故郷を語るラピスからは、生き生きしたものを感じる。ただ、創生譚を繰り返し唄い続ける吟遊詩人とは違う。
「手を……」
「?」
「手を借りても、いいか?」
半ば無意識に出た言葉だった。
「やはり無理をしていたか……話も聞いていないようだし。仕方ない。ほら」
ラピスは再び俺に手を差し出す。握った手は温かかった。昔両親や兄に手を引かれたときの感触が蘇った。不安が少し薄れる。
「ん……だいぶ汗をかいているな」
ラピスは平然としている。これが現実なら、道行く人に注目されそうなものだが、それもない。そもそも姫が護衛もなしに平然と歩いていて、しかもどこぞの冒険者の手を握っているのに誰一人として疑問に思いもしないようだ。
「ラピスは本当に、NPCなのか?」
「は? えぬ……?」
ラピスは頭にハテナが三つぐらい浮いていそうな表情をした。この世界がゲームだなんて言っても無駄そうだった。
「何だ、その珍妙な響きのものは……。お前の祖国の言語か?」
「いや、何でもないんだ……忘れてくれ」
ラピスに先導されながら集落の広場まで歩く。話に花を咲かせるおばさんたち、小鳥に餌をやるおじさん。広場には、小さな市が幾つか開かれていた。
「丁度いい。情報収集ついでに、食料や薬草を買っていくか」
ラピスが商人に声を掛ける。今まで何事もなく売り込みをしていたまだ年若い商人が、素っ頓狂な声をあげる。
「ラ、ラピス様!! 生きていらっしゃったのですか」
「勝手に殺すでない。敵襲から何とか逃れてきたのだ」
「そうですか……。私は昨日の朝こちらの集落へやって来た商人のベリルと申す者です。ラピス様は翠玉の竜の強力な猛毒に耐えられなかったと、オニキスの中心街で伺ったばかりでして……」
「誰がそんなデマを」
「トパゾス皇も瘴気にあてられ、命が危ないと聞きました。オニキスは破滅寸前です」
「父上が……」
呆然とするラピス。商人は俺たちの握った手に気づき、憤慨する。
「ラピス様の御手を一介の冒険者が汚すとは何事ですか!」
「……こ、これは……」
「体調が悪いので、手を引いてやっている。病人を見過ごすのが善とは思えない。だから、こうしているだけだ。気にするな」
紡がれた言葉に何となくがっかりしてしまう。まあ、特別な意味なんてないよな……。
その後は、不足していた物資を補給した。その間も手は繋がれたままで、ラピスがことあるごとに俺に買い物の選別を委ねる。まるでカップルだった。商人の目が少し怖かったが、耐える。一通り準備が終わりエメラルド・サウルスの討伐への道は突貫工事だが整った。
買い物が終わると、商人は何事もなかった顔をして再び売り込みに戻ってしまった。以下無限ループ。NPCは、ラピスにだけ特別な反応を見せるようだった。ラピスはそれだけ特別なNPCらしい。
ラピスは時折、表情に憂いを垣間見せた。商人の噂を聞いて不安になったのかも知れない。
広場の端の方をふと見ると、さっきまでいなかった黒ずくめの男が立っているのが確認できた。『黒曜』と白文字で書かれている。そしてこの集落では初めて、赤と青のバーを持っていた。
プレイヤーキャラだ。
「ラピス、悪い」
俺はラピスの手を離して、男に向かって駆け出した。制止を促すラピスの声も無視する。
草履に黒装束、腰に付けられた二本の短刀という集落にはおよそ馴染まない、いかにも忍者然とした格好。顔にはニヤニヤと嫌な笑みが張り付いていた。まるで、世界の全てを馬鹿にしたように。本当なら話し掛けるのにためらう人種だろう。正直怖い。でも背に腹はかえられない。
「あっ、あ、あの……」
ブラッドに似つかわしくない上ずった声が出る。ラピスと中二会話を繰り広げていたが、実際はいつもこんな感じだ。黒曜は哄笑を隠しもしない。
「へへッ……キョドッてやンの。お姫様の手なんか握ってブルブル震えちゃってさあ、流石『紅龍の大剣士』サマ」
「何で、その名前を……?」
どきっとする。俺の二つ名をわざわざ知っている奴は、そんなにいない。ソロばかりで名乗る場がないからだ。面識もない奴にその名を呼ばれるのは奇妙な気分がした。これが普通のプレイヤーなら喜べたのだろうに……。
「こッから出たいンだろお? おいらの言うこと聞いてくれりゃあ、わかンなくもないぜ」
完全に優位な者の持つ余裕で黒曜は言い放った。
「なっ、あんた……どうして」
「事情はちょッと言えないねぇ。そしたら、あンたを消さなけりゃあ」
殺気のこもった声。黒曜は短剣に手をかけてヒヒ、と下卑た笑いを漏らす。
「黙ッて、さッさとURモンスを倒してきな。ドロップはおいらが頂く。姫さんには内緒でな。それで、めでたしめでたしだ」
俺の返答を待たず、黒曜の影が薄れていく。
「ちょっ……」
広場はまた、元ののどかさを取り戻した。結局、一方的にまくし立てられただけだった。疑問が何も解決していない。
「ブラッド、今の男は何だ?」
「あ、ああ……いや、知り合いだよ」
違う。あんないかにも悪役みたいな顔の奴、会ったなら絶対覚えている。こちらの素性が向こうに割れているだけだ。
「ラピス。エメラルド・ザウルスを倒しに行こう。早い方がいい」
俺は黒曜の言葉を真に受けるしか方法を思いつけなかった。もとより、ラピスの頼みなのだ。出来ること、やるべきことはそれしかない。
「そうだな、行こう」
ラピスはぐっと表情を引き締めた。
URモンスターの強さは未知数だ。でも、この新しいスキル・竜眼と万能職のプリンセス・ラピスがいれば、どうにかなるに違いない。いや、どうにかしなくてはならない。
エーデルシュテーンの為に、ラピスの為に、そして何より自分の為に。