3
悪魔がいなくなって一週間が経つ。
その後も私は真島さんとうまくいっている。
少しずつ悪魔の存在が夢と混ざってきて、記憶が薄れて行く。
朝起きた時は、鮮明に覚えていた夢も、その日の終わりにはほとんど忘れている。
たぶん、悪魔と過ごした日々も、そんな数多い夢の中の一つだったのだろう。
私は、失恋のショックで理想と現実の境界が曖昧になってしまっていたんだ。
……と言い聞かせる。
それでも、やっぱりなんとなく悪魔の事が気になって寝付きが悪い日もあった。
ロケットペンダントの紋章は消えたままだ。
もともと私の側にずっと居てくれたのだろうか。だとしたら、もっと早くから出てきてくれてもよかったのに。
……悪魔。
そういえば、名前すら聞いてない。
私は自然に悪魔の事を悪魔と呼んでいたけど、居なくなって呼んでみたくなる時、名前を聞いておかなかった事に少し後悔する。
いや、忘れよう。
もう、私に悪魔は必要ないんだから。
その名を聞かなかった事には、きっと意味があったんだと思う。
人は、夢ではなく、現実と向き合わなくてはならないんだから。
私は、真島さんと一緒になりたい。
そうなれば、いずれ悪魔の居場所が無くなる。そう考えれば、今のうちにこうなってよかったのかもしれない。
***
「梢さん?」
真島さんはいつの間にか私の事を名字ではなく名で呼ぶようになった。
「今日……インターコンチネンタルを予約してるんだ」
それが真島さんの覚悟だという事にすぐ気付いた。
私にノーという理由はない。
「うれしい……」
それは、私のイエスのサイン。
真島さんはホッとしたように表情を緩ませると、頭の後ろをさすりながら照れていた。
私は、本気。
邪な気持ちなんてひと欠片もない。
真島さんが……
好きだ。
ラウンジに広がる夜景がキラキラと輝いていた。
でも、そのどの輝きも、目の前に座る真島さんには勝てない。
やさしい瞳で夜景を眺める彼の横顔をずっと見ていた。
私の前ではいつも口数が少なくなる彼。だからと言って寂しくなる事はない。
その視線の先にある大きな夢を追っている彼が、道ばたに咲く、私という目立たない小さな花に微笑みかけてくれるだけでも奇跡なのに、その花に愛を囁いてくれた。
彼の熱い体に抱かれ、一人の女として認められた時、私は名もなき花から、掛け替えのない世界にたった一つの貴い花となる。
激しく求める彼に答えるように、体の全てを彼に捧げた。
それが、私の遅れて訪れた初体験だった。
次の日、一夜の夢からまだ目覚めぬ私は窓の景色を、半ば放心状態で眺めていた。体の激痛に耐えながら。
乱れたままのシーツを体に巻いた私の肩に、彼がキスをする。
彼はずっと優しかったし、私も彼に抱かれる事に抵抗なんてなかった。
だけど……。……なぜかわからないけど、得体のしれない不安を感じていた。
それは、私がこういった経験がないからかもしれない。
女は誰だって、初めて抱かれた日は不安に満ちていると思う。
ただ、なんとなく悪魔に話して、この不安を取り去ってもらいたいと思っていた。
悪魔。どこにいるの?
あなたなら、この私の不安を拭い去ってくれるでしょ?
「うーん、気にしなくていいんじゃないかなあ?」と言って欲しいの。
そう言えば、お腹空いてるんじゃない?
最近、料理を食べてくれる人がいなくて、つまんないのよ。
ねぇ……悪魔。
どこに行ってしまったの?
***
最近、会社で嫌な視線を感じる。
久しく話していなかった、美雪が話しかけてきた。
「おめでと」
何が?
美雪は、それだけ言うと、クスクス笑って去っていった。
同じ部のみんなも、私と目を合わせようとしない。
飲み会のお誘いも、無くはないけど、以前と違って「来たいなら来ていいよ」みたいな感じ。
何かやらかしてしまったのかな?
でも、私に与えられる仕事なんて、誰でもできるような簡単なものだけだし、取り立てて失敗した記憶もない。
ただ昼食を真島さんと摂っている時だけは、彼を心配させたくないから元気なふりをしていた。
だけど、それから何日か経ってトイレに居た時に、何人かの人が私の話をしていたのを聞いた。
その内の一人は、美雪。
『24まで処女だったんだってぇ』
『うわ、遅咲きの春?』
『だって、最近デビューして人気あるけど、その前までイモだったじゃん』
『真島さん、同僚と賭けてたらしいわよ。あいつは絶対処女だって』
『ひっどーい。あははは』
ナイフで胸を抉られるような衝撃だった。
何故?何故?何故?
真島さん……私は、あなたのおもちゃだったの?
怒りがこみ上げてきた。だけど、すぐに情けなさに全てを奪われる。
昔からそうだ。
私は怒る勇気がなくて、いつも泣いてばかりいた。
トイレの個室から飛び出し、美雪達に目を向けずに走りだした。
自分の席から鞄を荒々しく掴んで部屋を出る。
もう嫌だ。こんなとこにもう二度と来るもんか!
泣きっ面でエレベーターに乗りたくなかったから、階段を駆け下りる。
途中の踊り場で、誰かとぶつかった。
私も相手も衝撃で尻餅をついた。
「あ、あ、あ、す、すいません……」
どこかで見た事のある顔。……でも思い出せない。
ぼさぼさの髪、曇った黒ぶち眼鏡……その奥の目は視線が定まらなくてふわふわと宙を泳いでいる。
私はあっけにとられボーっとしている。
目の前の冴えない男は、私の鞄から散らばった化粧品を拾い集め、私に手渡そうとしていた。
「あ、あれ?な、泣いてるの?」
「ほ、ほっといて!」
私がその男の手を叩くと、また化粧品がバラバラと散らばった。
でも、そんな事に構わず、鞄だけを手にとり再び階段を駆け下りた。
帰ってからずっとテーブルに突っ伏していた。
窓が閉まっていたのか開いていたのかは覚えていない。
だけど窓からひんやりとした風が入って、私の体を撫でる。外の景色は夕焼けを通り越し、暮れはじめていた。
顔だけを窓に向けた。
ずっと泣いていたから酷い顔になっているのだろう。
窓の外から聞こえる風景は時の流れを止めていない。
四角形の額縁に広がる濃紺が絵画のようにも感じるし、絵画じゃないようにも感じる。
『夜空って綺麗だよね』
記憶が蘇えっても、それはただの記憶。
その窓べりには誰も座っていない。
『暗闇がすきなんだよね』
そうかもしれない。少なくとも私には暗闇の方が似合う。
悪魔もそういうつもりで言ったんでしょ?
所詮、私は星にはなれない。少しだけ輝けたからって……バカみたい。
「違うんだよね」
「何が?私はやっぱり闇が似合うんだよ。きっと」
「うーん。それは、ちょっと」
え? ……うそ?
がばっと起き上がり、反対を向く。
そこには、悪魔が座ってて、腕を組んで、難しそうな顔をして……
悪魔……
「ど……どこ行って……」
私は全てを言い終える前に、悪魔に抱きついて。ずっとずっと泣き続けた。
***
「で、ほんとにどこに行ってたのよ」
「ちょっと、居づらくて。あっちに行ってた」
と、天井を指差す。
私は怒ってる。……と思う。怒らないと……泣いてしまいそうだったから。
「嫉妬したから?」
「…………」
そんなあからさまに否定しなくてもいいじゃない。
「……そうなのかなあ」
「……そういう事にしておいてよ」
「うん。わかった」
ねぇ、悪魔……
「抱いてよ」
「えーっ!?」
そんなあからさまに……
あっ……
悪魔が私を抱きしめる。優しく……きつく……
私は今日まであった嫌な事を全て忘れる。“単純だ”なんてことじゃなくて、本当に忘れる事ができた。
「男ならそのまま自分のモノにしてよ」
「……男じゃないし」
「女なの?」
「女でもないよ」
「じゃあ……なによ」
「悪魔です」
「……なんで、いつもそこだけ敬語なのよ」
すっかり雰囲気を打ち砕かれた私は呆れながら笑う。
笑いながら擦り付けるように悪魔の胸に頭を押し付ける。
「暗闇は……どこまでも透き通っていて、ひとつも汚れていないんだよね」
「てっきり悪魔だから闇が好きなんだと思ってた」
「まあ、それはそれで。悪魔ですから」
「また、敬語だ」
このまま消えてしまってもいい。
どこまでも透き通る闇の向こうに。一片の曇りのない黒の世界に。
「もう、どこにも行かないで」
「それは……無理な相談だなあ」
私は悪魔の胸を押して距離を開けながらキッと睨んだ。
「行・か・な・い・で」
「無理だよ……もう、俺は必要ないハズだよ」
「必要とかそういう事じゃないの。ここに居なさいよ!」
「うーん……俺、やっぱりこう見えても悪魔だからさ、梢ちゃんに厄いを起こさないといけないんだよね。俺がいなくなれば梢ちゃん悲しむでしょ」
「何よ、それ。『そういうのじゃない』って言ったの、あなたじゃない」
「まあ、そうじゃないのも確かだけど」
もう、わけわかんないよ。
せっかくのムードぶち壊し。
でも、それもありかなと思う。少なくとも今の私には。
「夜空の本当の美しさを、梢ちゃんは知ってるんだからさ。もう、俺のおせっかいはいらないよ」
それからの記憶はほとんどない。
まどろんだまま、気がつけば朝が来ていた。
そして、予想通り、悪魔はやっぱり居なくなっていた。
テーブルの上に置いてあったペンダントを見ると、美しい紋章が戻っていた。
***
昨日、飛び出してきた会社に出社する。
他人の視線は、不思議と気にならなかったけれど、無断で早退した事を上司に謝った。
いつも通りの一日に戻る。
真島さんの事は、もうどうでもいいと思った。
私は私を見失っていた。その間に見た悪夢なんかに負けてはいられない。
「あ、あ、あの……これ……」
手に化粧品を持って挙動不審な男が、目の前に立っていた。
同じ部だったのか。どうりで見た事あるはずだ。
相変わらず、視線は宙を彷徨っている。
「こっちを見て」
「えっ?」
「いいから、私を見てよ」
私が出せる精一杯の迫力で、その男を睨む。
男は恐縮しながら、どうにか目を合わてきた。
その瞬間、私の頬が緩む。
「ありがと」
私のペースに、ボサボサの髪を掻きながら男はキョトンとしていた。
さてと……
「君、お金持ってる?」
ende
ありがとうございました。
分割に見事に失敗しました……




