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目の前で私の親友と楽しそうに話しているのは、先月にやっと出来た私の恋人。
たった一ヶ月の短い恋は、私に悲しさよりも、悔しさよりも、情けなさを叩き付けてきた。
トイレで鏡を見る。
そこにいる一人の冴えない女。
長い髪は、手入れの甲斐もなく、いくら櫛を通してもボワっと広がり収まりが悪い。だから後ろでゴム止めしている。
太っているわけでもないのに、丸い輪郭。小さい鼻、薄い唇……
あげくの果てに、黒淵の太いフレームのレンズの中に隠れた瞳は死んだ魚の様。
視線を下に向ければ、量販店で買ったリボンシャツと太めのブルーデニムという、ファッションに興味の無い私が見ても溜め息が出るほど華がない。
唯一のアクセサリーである銀で出来たロケットネックレスは、祖母から貰ったアンティークなもの。だけどこれだけは気に入っている。
中に刻まれた何かの紋章が心を惹く。おしゃれにはほど遠いけれど……
「ま、いいか。所詮、私に恋なんて無理だもの」
鏡の中の冴えない女が「いーっ」と変な顔をする。
だけどその強がりはすぐに消え、ポロポロと涙が零れ始めた。
『楽しそうだね』
頭の中に響く低い声。ここは女子トイレだから男性が入る事は異常事態のはず。
だけど……
不思議とその声に驚く事はなかった。
「楽しくなんかないよ……」
『いや、だって楽しそうなんだけど』
「どこが?」
『“これからが”さ』
どういう事?
“これからが”?
恋に縁の無い私のこれからに何があるというの?
『あのさ、考えるのも別にいいんだけど、そろそろ姿を現したいんだよね』
「はあ……」
『鈍いなあ、こう見えても俺、男っぽいんだよね。さすがに女性用トイレには出にくくてさ』
誰ですか?
姿も見てないのに、男っぽいとか言われても……男っぽい?
男じゃないの?
『…………』
自問自答している私に、その声の主は呆れたのか黙っていた。
慌ててトイレを出る。だけど、出た瞬間、ドン!と誰かにぶつかってしまった。
「すみません!すみません!」
「やっぱり楽しいね」
私が驚いて顔を上げる。
ところが、上げても上げても一向に顔が見えない。それもそのはず、身長150の私よりも30センチ以上高い所に顔がある。
「でか……」
「ちっさ……」
失礼なヤツめ。
この時になって、この得体の知れない人間が怖くなり、私は逃げるように立ち去った……つもりだった。
「ちょちょちょちょ、待ってよ」
「あの、私に何かご用でしょうか?」
「何って、梢ちゃんの為に来たんだけど」
「な、なんで私の名前知ってんの!?」
さてはストーカー?
……なワケないか。こんな私に興味を持つ物好きもいないと思うし。
「まあ、とにかく……デートしようか」
ゲッ!やっぱりストーカーだ。
「ちなみに、俺はストーカーではなくて、悪魔です」
ストーカーで頭がおかしくなった人だ。危険すぎる。早く逃げなくちゃ!
私は心底怖くなり、男を無視して走りだした……。
「ちょちょちょちょちょ……」
「待ちません!誰か、助けて!」
会社のビルを飛び出し、しばらく走り続けて、電車に乗って、家まで帰ってきた。
「お帰り」
「ただいま……って!?」
玄関には、あのデカ男が立っていて、私を迎えてくれた。
もう……だめかも。
「心配しなくていいよ。俺は悪魔だから」
「心配になります!」
「じゃあこう言えばいいかな?……梢ちゃんのペンダント見てみてよ」
ペンダント?私のお気に入りの?
ギリギリまで男から目を離さず、ついでに距離もジリジリとあけながら手でペンダントを持ち上げて覗き見た。
無い!
紋章が!
「う、うそだあ……」
上目遣いで悪魔を見据える。汗が額を走る。
「疑い深いんだなあ……」
「な、なにしに来たの?悪魔ってことは、私の魂、狙いにきたの?」
「うーん……古典的だね」
「じゃ、何しにきたの?」
私が訊くと、悪魔はしばし考え込んだあと答えた。
「梢ちゃん、お金ある?」
これで狙いがわかった!お金を狙った新手の詐欺!
「い、いくら渡せば、私の前から消えてくれるの……」
「えー?俺は別にいらないよ。梢ちゃんが使うんだよ」
もう、全然意味がわからない。
私、どうなっちゃうの?
***
私は今、ヘアーサロンにいる。
髪の毛なんて、いつも近くの美容室で切っているから知らなかったけど、今時の美容室にはヘアデザイナーがいて、雑誌のモデル並みの髪型にアレンジしてくれる。
私は黙って座らせられ、肝心の髪型については、あの悪魔がデザイナーに説明していた。
こんな事になったのも全て悪魔のせい。
『そんなに貯金してなにに使うつもりだったの?』
『別に、使い道ないから貯まる一方で……』
『じゃあ、まずは髪型変えようか。ちょっと高いけど、大丈夫だよね』
提案してくるわりには実費は全部私持ちな辺りは納得いかないけれど、悪魔が何を考えているのかわからないから素直に従ってしまった。
「おー!似合う似合う!」
人前でパチパチと拍手している悪魔。長い髪をバッサリと切った。髪の色も黒じゃない。
なんでも、しふぉん色というらしい。髪型はしょーとれいやー?
あまりに悪魔が喜んでいるので、私自身も見てみたくなり眼鏡を掛けた……ところが。
「うーん……それ、やめとこ。ダッサイ」
なんでアンタが決めんのよ。
確かに、高校時代から使い続けてる古い眼鏡だけど、当時は高かったんだから大事にしてるのに。
で、気がつくとコンタクト屋に連れてこられていた。
視力を計り、たくさんのレンズの入った箱を買わされた。
その中の一つをつけて驚く。
「はっきり見える……」
「やっぱりねえ。視力落ちてたんだよ」
そう、高校以来5年以上も眼鏡を代えていなくて、視界がぼんやりしてても、それが普通だと思っていた。
だけど、新しいコンタクトレンズをつけてみたら、全てがくっきりと見えた。
見えるついでに見てみたいものが、今、私には二つあった。
それは、私の顔と
……この悪魔の顔。
「…………」
鏡を見て言葉が出なかった。
これが私?
いつも顔を見られたくないから、俯きがちに歩いていたけど、それほど悪い顔じゃない。
自分で言うのもなんだけど。
驚いた拍子に悪魔の顔を見た。
「…………」
またもや声が出なかった。
ニコニコしている悪魔の顔……反則だった。
アンタ、どこのアイドルですか……
「じゃ、次いくよ!」
私は、悪魔に連れられるまま、化粧品売り場でメイクを試されたあと、高いファンデやらリップやらを買わされ、衣料品売り場で、ぼけっとしている私に悪魔が次から次へと服を持って来ては着替えさせられ、ブラウスやらワンピやら買わされ、気がつけば10万円以上お金を使っていた。
「ちょっと高かった?」
でも、私は首を横に振る。
お金は使ってしまったけれど、違う自分を手に入れられた。高いとは思わなかった。
***
私が悪魔と歩いていると、なぜかみんなが振り向く。
女は悪魔に、そして信じられない事に男は……私に。
悪魔がちょっとだけ私から離れた、そのたった10分の間に、私は見知らぬ男から声を掛けられた。
もちろん、なんて話せばいいかわからないから、ずっと黙っていたけど。
悪魔が戻ってくるなり、見知らぬ男はすんなりと諦めてどこかに行ってしまった。
たぶん、悪魔に勝てないと判断してなのかもしれない。
「どう?おもしろくなってきたでしょ」
そう言えば、“これからが”面白いって言ったのは、悪魔だったっけ。
「おもしろい……でも……」
「なに?まだ不満?」
「そろそろ、魂抜かれちゃうのかなって……」
おいしい後には決まって何か厄いが待っているのがお決まりのパターン。きっと、私は輝いて……そして消えて行くんだろう。
……ところが、悪魔はケラケラと笑って答えた。
「だーかーらー、そんなんじゃないって。困るんだよなあ。悪魔のネガティブキャンペーンやってるやつって、天使とかそういった系かな」
「でも、天使っていい人よね?」
「人じゃないし。あいつらも同じ業種だよ」
「はあ……」
どうやら私が思い描いているものとは違うらしい。
「あのねえ、俺は梢ちゃんと一緒にお店に行ってるだけで、お金も出してないし何にもしてないんだよ。全部、梢ちゃん、君自身の力で変われたんだからさ」
確かにそうかもしれないけど、でも、私一人だったならば間違いなくこんな展開にはなれなかったとも思う。
「まあ、アシストくらいはしたかもしれないけどさ。でもそれっぽっちで魂とか大事なもん奪うなんて、本当なら詐欺だよ」
とまたしてもケラケラ笑った。
そして、気がつけば私も一緒に笑っていた。
職場では男の人からやたらと声を掛けられるようになった。
アフターファイブは、毎日のように飲み会や合コンに誘われる。躊躇していたのも始めだけで、そのうち当たり前のように参加するようになった。
お酒が飲めないおかげで、幸いにも体型に響かなかったけれど、私の顔には次第に明るさが備わってきて、男の人との話も自然に合わせられるようになった。
それが過ぎると受け身だった性格もどんどん積極的になってゆく。
気に入った人がいれば、隣に座る。たいていの人は、私が側に行くだけで喜んでくれた。
お酒に酔った勢いで、私に告白してくる人もいる。一人が告白すると他の男も次々とノリで告白してきた。
同席する同性の視線は痛かったけれど、元々奥手な性格だから自分からイニシアティブを取りにいく事が無く、それが逆に男性の心理をくすぐったみたいだった。
「もう俺、梢ちゃんと結婚する~!」
「え~!?困ります~」
熱気と嘘と本音と、少しばかりの嫉妬が入り乱れた席は盛り上がり続けた。
その日々が楽しくてしかたがなかった。
「木野原さん……今日は送ってあげるよ」
声を掛けてきたのは、先日、私を捨てて親友の美雪と付き合い始めた、元カレの誠也だった。
「……美雪は?」
当時はあんなに素敵な人だと思っていたのに、今見ると、普通以下で冴えない男だった。
「もう別れた。あのさ、俺やっぱりお前が一番好きだったんだ」
呆れるほどの身の代わりように、嫌悪感に包まれる。
でも、私は敢えて送ってもらう事にした。さっきからちらちらと雑踏の隙間からこっちを見ている美雪に見せつけるように。
「送ってくれる?でも、送るだけにしてね……」
「も、もちろん!」
「ちょ、ちょっと待ってよ!俺が送るよ」
「いや、俺がっ!」
その時、別の人が二人割り込んできて、私の取り合いになった。
もちろん、お酒が入っているから真剣な喧嘩にはならなかったけれど、冗談ぽく罵り合いながらも、どこかに“本気”が見え隠れしている。
私からしてみれば、けして悪い気分ではなかった。
家に着くまでの間、誠也はずっと美雪の事を蔑み、私をほめ続けていた。美雪と付き合っていた時は、その逆の事をしていたのだろう。
時々、女の扱いを知っている風な事まで話してきて、自分を上げる事も怠らない。昔の私だったら、そんな誠也にのぼせ上がっていたかもしれない。だけど、今の私はただ、吐き気がするだけだった。
「ありがとう。ここまででいいよ」
「こ、梢!今日は泊まって行ってもいいだろ?」
私と付き合っていた時は、家の前まで来るとさっさと帰っていたのに。いつ彼が来てもいいように部屋を隅々まで綺麗にしていた私だったのに。
「ごめんね。私、もうあなたの事、全然好きじゃないから……きゃ!」
急に抱きしめられ、私は小さく悲鳴をあげた。
気持ち悪い!気持ち悪い!吐きそう……
「おかえり、梢ちゃん。だれ?その人」
低い声で私を迎えてくれる悪魔。
誠也が慌てて私から離れる。
どう?あなたとはレベルが違うでしょ?
今の私と付き合いたかったら、せめてこれくらいのレベルになってね。
私は、悪魔に駆け寄り胸に飛び込んだ。
あわあわと体を小刻みに震わせている誠也。
その光景がおもしろくてたまらない。最高の仕返しができて、胸がスーっとした。