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001

「才能の問題だよ、ケンジ」とシゲオが言った。

 「なるほど、そうかも知れません」とケンジが相槌をうつ。

 シゲオは向かいに座るケンジの顔を見ていた。丸い顔に丸い頭。ひねくれのない純朴な瞳。彼の目が言葉の裏にある陰湿な事実を見つけることはなかった。消しがたい素晴らしき純朴。その代わりに深い思索も無かった。

 「どうして坊主にしているんだ」と以前シゲオは聞いた。

 「尊敬している人が坊主だったんです。それで僕も坊主に。少しでもあの人のようになりたくて」とケンジはそう答えた。いつでも誰かを尊敬しているのだ。

 彼らは騒がしい居酒屋の奥に座っている。黒いテーブルとその上に並ぶいくつかの調味料。醤油、塩、七味唐辛子、それから数の少なくなったつまようじ、シゲオはそろそろ店員が補充すべきだと思った。昔、居酒屋でアルバイトしていた経験があるのだ。壁にはきっと見る人が見たら低俗であろうそれらしい筆の文字が掛かっている。薄暗く調節された灯りの下で多くの人々が座って笑っている。彼らは誰もが顔を合わせて、揺れ動き、見ている者からは想像もつかないほど個人的な会話を育んでいる。

 「こういう気遣いが必要なんだ」

 シゲオはおしぼりでテーブルを拭きながら言う。しょうゆの染みのついたおしぼりがレタスの切れ端を巻き込んでいく。

 「なるほど、大切なことですね」

 「人間には2種類いる」

 「はい」

 「気の使える人間とそうでない人間。気の使える人間にならなくてはならない」

 「なるほど。どうしたらなれますか?」

 「いつでも神経を張り巡らせていることだ。相手は何を考えているだろう。この場所はどういう状況か。いつでもそういう風に考えることだ。見ろよ」

 そう言ってシゲオはケンジの向こうに視線を送る。そこには二人のサラリーマンが座っている。彼らは一つのテーブルを挟んで顔を付き合わせている。肘をテーブルにつき、ブルドックのように険しい表情で。

 「あの空気がわかるか」と小さな声でシゲオが言う。「あの険悪なムードが。彼らはさっきから少しも酒を飲まない。飲む時もほんの少し口にふくむだけだ。会話はない。ああして黙ってひたすら顔を付き合わせている。あの二人がどうなるかわかるか?ああして、会話も無く顔を付き合わせている二人の男が?きっと喧嘩になる。ならないかも知れないが、なる可能性を多く含んでいる。俺たちはその準備をしておくべきなんだ。心のどこかでな。二人は急に立ち上がり殴り合うかも知れない。一人の男がもう一人の男を突き飛ばすかも知れない。そうしたとき、その男の身体はここに倒れこむだろう。俺にはそのイメージがある。見えるんだ、男がこのテーブルに倒れこみ顔を歪めているところがな。あらゆる準備をしておくこと。それが神経を張り詰めておくっていうことだ。俺はいつでもそうしているよ」

 「なるほど」とケンジが言う。「なるほど」ほかに言葉が見つからないかのように。

 

 

 


 一週間前、二人は同じ職業の集団面接で知り合ったのだった。面接官は赤ら顔の小さな男だった。首もとまできつく閉めたシャツとアイロンのかけた跡が彼の厳しい性格を物語っている。

 「気を、つけ!」

 と彼は言う。

 「気を、つけて、並べ!」

 赤ら顔をぶるぶる震わせて彼は言う。こめかみに浮いた欠陥は這い出しそうな虫に見えた。彼のこめかみでチューチューと活力を吸うのだ。

 「並、べ!それから!」

 息を深く吸う。深く深く。彼の鼻は部屋の空気を全部持って行ってしまいそうだ。長方形をした狭い部屋。古びた綺麗な机と、壁一面に写真がある。金、銀、銅のメダル、賞状、有名人とのツーショット、おびたただしく輝かしい業績。壁のあらゆる側面から彼と彼の業績が部屋に立つ人間を見つめている。「緊張せよ!」壁のメッセージはほかに見当たらない。

 「これから」と彼は言う。吸い込んだ空気をゆっくりと吐き出しながら。「これから一週間、君たちには試験を受けてもらう。時には厳しく、時には辛いだろう。しかし、必要な試験ダ。なにしろ合格者には秘密探偵のバッジを与えなくちゃならん。大事な大事なすべすべした貴重なバッジだ。おいそれと与えられるモンではないのダ。もちろん――君たちはじゅうじゅう承知しているだろうがネ!」

 部屋にいる20人ほどの男たちは胸を張って立っている。シゲオはシャツの下で汗が滲むのを感じた。靴の中で足が痒い。面接官に気づかれないように一方の足で踏みつけて痒みを抑えようとした。

 「もっと、も!もっとも!大事な、もの、なにかわかるか!ひみつ、たんていにとって!」

 彼は腰に手を当て部屋をゆっくり巡回しながら話す。ゆったりとした動作。激しい口調。慎重な動きと内面の激しさは蠅を模倣しているかのようだ。

 「だれ、か!わかる、か!」

 と彼は叫ぶ。つまさきを揃え、背筋を伸ばしながら。まるで上空からの細い光を待ち構えるかのように。

 シゲオはどきどきした。自分が当てられるのではないかと緊張した。手に汗が滲み、足はますます痒くなる。もぞもぞと足と足とぶつけ合う。

 「それは愛!」

 面接官はそう叫ぶ。耳に聴こえないメロディに従い軽やかにターンする。太い鼻を波立たせて男たちの前を通過する。テーブルに並べられたいくつかのコーヒーの香りを嗅いで回るみたいに。

 「それは愛!」

 彼はもう一度叫ぶ。

 「それは愛なのだよ、君たち!愛こそ最も重要な要素。それが全て!きみたち、よおく憶えておきたまえ!以上!次は試験で会おう!」

 彼は再び顔を赤らめてそう言った。そして最後に鋭く鼻で息を吸った。スッ!と、ピリオドを打つように。彼は扉を越えて部屋の奥へ消えた。

 部屋から出ると柔らかな疲労が肩にかかるのを感じた。胸の底に溜まっていたため息が溢れる。骨の奥にまで浸透する深い疲労。

 部屋の外は広い休憩室で出来ている。柔らかな上質なカーペットと心地良く沈む古いソファ。ソファの前には足の長い灰皿がある。もう一方の壁にはいつも緑色のビニールボールが落ちていた。サッカーボールぐらいの大きさの。その上には小さな窓があり、試験を行うための芝生を敷いた緑色のグラウンドが広がっている。部屋から出た20人ほどの男たちは、それぞれ自然に半分に分かれて灰皿とボールの前に群がった。彼らは彼ら自身の男性的性質に従ってそれぞれのグループを作り始める。ため息をつきつつ灰皿に群がる男たちとビニールのボールをぶつけ合う陽気な子どもっぽい男たち。彼らは試験期間である一週間が過ぎても、ほとんど交わることは無かった。

 「緊張しません?」 

 灰皿の前でケンジがそう言った。

 「まあな。だけどこれだけならまだマシさ」

 とシゲオが答える。まだ手はわずかに震えている。

 「僕はケンジです。よろしくお願いします」

 「こちらこそ。俺はシゲオだよ」

 「うまく行きそうですか」

 「試験に?」

 「はい」

 「受かるさ」とシゲオが答える。「必ずね」

 「すごい自信ですね」

 「自信が無きゃこんなところに来ないさ」

 「僕はすっかり怖くなってしまいました」

 「飲みにでも行こうか。自己紹介もかねて。今日はもう終わりだろ」

 いつの間にか灰皿の周りにいた男たちはシゲオたちの会話に耳を澄ませている。自信たっぷりの男。自分の不安。それらの要素を考えるとシゲオに注目が集まるのは必然に思えた。彼らは先頭に従う従順な羊のように二人について行った。この不安を拭える何かが得られるかも知れない――そう思ったのかも知れない。もしくは、この後どうして良いかわからなかっただけか。

 シゲオは部屋を出て行くときに、部屋の反対側を見た。緑のビニールボールで遊ぶ男たちの姿を。彼らはたくましい肉体と均整の取れた笑顔を持っている。白い歯とすべすべした髭のない肌。定規で測ったようなバランスの良い顔の形。

 「俺、本当に怖かったよ!緊張したね、本当に!」

 そのうちの一人が笑いながら言った。

 「だけど、必ず受かってみせるよ」

 すでに親友となりつつある一人の男が彼の胸に向かってボールを投げかけた。男は素早くボールをキャッチする。彼らの笑顔から視線を引き離して、シゲオは部屋を出て行った。





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