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第三章 遥かなるサバーランドとクルディスタン

 その一週間後。

 数千キロ離れた、極東の地では大学の講義中で、七海は俯いて必死に笑いを堪えていた。

「……でな、その番組でイタコにダイアナ妃の霊を呼び出させるってコーナーがあったんよ、なあ、十崎」

 右隣りにデンと座った九城が、七海の左隣に座っている相方に、小声で話を振った。

「ええ、あれは秀逸でした。まじめ腐った婆さんが……」

 ここで突然声色を変え

「アチュい、アちゅい、マフィアコワイアラブ人カネモチ」

「めっちゃ日本語でさ。アラブ人関係ないし。息子らの名前聞かれたのにかたっぽしか答えられへん」

 七海は耐え切れず、額を机にくっつけて全身を震わせた。

 負けだ。笑ったら負けだ。

 唇を噛み、太股をつねって、全力で二人の悪意に反抗する。

 ここで講師に目をつけられたら、最悪、今日の出席票がもらえない。

 そもそも今朝、一緒に授業に出ていいか、とニヤニヤ笑う二人に尋ねられ、

「おしゃべりできませんよ」

 と答えると、十崎が、

「笑わせたらどうします?」

 と笑顔で聞いてきたのだ。

「笑いません。集中してるから」

「なら、今日一日ギブアップしなかったら、だれもが欲しがる考古アイテムを、進呈しましょう」

「受けて立ちます」

「トレヴィアン」

 十崎と九城は、手を打ち合わせた。

 受けて立たなければよかった。 学問に学生生活を捧げんとする七海に、当然二人は容赦しなかった。 次々と笑いの波状攻撃を仕掛けてくる。

 授業中に突然立ち上がり、

「由美ちゃん!」

「永井クン!」

 と言って、顔の高さを三段階に変えて見つめ合うのは――キックオフするのは反則だろう。

 ちなみに教室でそのあまりに古いマンガネタにツボられたのは、教壇で講義していた四〇前の講師と七海だけだった。

 本当なら降参したかったが、悔しいのでどうしてもギブアップが言えない。

 昼休みになる頃には、笑いすぎで、顔と腹筋が痛くなっていた。

 ついでに太股と、噛み締めていた唇も痛い。

 講師や教授に目を付けられて、頭も痛い。

 七海は盛大に溜め息をついた。

 しかも。

「幸せが逃げますよ」

 向かいの座席に、トンカツとカップラーメン、コーラという、滅茶苦茶な取り合わせが載ったトレイを運んできた、十崎が座った。

「誰のせいだと思ってるんです?」

 恨めしげに、七海はにらんだ。

「まあまあ。物欲に眼がくらんだなつみんも悪いで」

 ニヤニヤ笑いながら、九城もトレイを持って、十崎の横に座った。

「悪乗りしすぎです。教授や講師に目を付けられたじゃないですか」

 唇を尖らす七海に、九城はニヒルな笑いを浮かべて言った。

「なつみんってば……怒った顔もイカしてるぜ? ……ヒャッハー! これ言ってみたかったんよ、十!」

「映画版バンパイアハンターDですね、さすが九城です」

「九城さん」

 真顔で七海は言った。

「おう、なんや?」

「自殺してください」

「いいすぎやろ!?」

「ちょうどそこのバルコニーが開いてます。二階程度じゃ難しいかもしれませんので放物線を描いて、ユーキャンフライ」

「鯉のぼりの季節には、早いで!?」

 この数週間の間に、十崎だけでなく九城とも大分打ち解けることが出来た。

 九城という男は、見かけはおっかないし行動もおっかないが、陽気で竹を割ったような性格で、少なくとも七海には優しかった。

 テーブルに眼を落とすと九城のトレイには焼肉とカツ丼とプリン二個に紙パックのマミー。

 七海はコメカミを押さえた。十崎の取り合わせもひどいが、こちらも大概だ。

「二人ともなんのバツゲームです、そのメニュー」

「ん? いつもどおりやで、なあ十」

「いや、九城は少し変化がありますよ。プリンがいつもより一個すくない」

 照れたように九城が笑った。

「わかる? いや、そろそろ身体絞らにゃいかんと思ってや」

 突っ込む気持ちにもなれない。

 そのまま見つめあい、手を取り合う十崎と九城。

「由良さん」

「真さん」

 くッ、負けるものか。

 そんなすけべなマンガは全然知らない振りをし、七海は無表情に、買ってきたうどんを啜りはじめた。

「で、九城」

 コーラを飲みながら十崎がさりげなく言った。

 

「青汁はやめたんですか?」

 

「……!」

 七海はむせそうになった。

 やられた。

 この悪魔超人どもは……

 この悪魔超人どもは、七海が食べ始めるのを待構えていたのだ!

 十崎は、今日一日としか言ってない。

 そう、授業中だけ、なんて十崎は言わなかった

 七海が油断したのだ。

 うどんを口にいれたまま、飲み込む事も、吐き出すことも叶わない。

 ……見える。

 嗚呼、顔を上げずとも見えるッ!

 六本腕で顔が三つあるヤツと、四角の塊で、下手したら金色のライターに変身しそうな悪者達が、カーカカカ、フォーフォフォと嗤う影が!

 七海は、進退窮まった。

 どんぶりに、口の中のものを戻すのも躊躇われるし、飲みこんでいる最中にヤられたら、眼も当てられない。

 万が一クリティカルヒットを喰らった日には、最悪鼻からうどんがでてくるという、今世紀最大級の、痛ましいことに……

 その姿を想像してしまい、笑いのゲージが、一気に危険領域まで上昇した。

 顔が真っ赤になり、うどんを口から垂らしたまま俯いて堪えた。

 効いてない、効いてない。

 七海は兄の口癖を暗誦する。

「おー、悪ないんやけど、かき混ぜんのがめんどうでなあ。テレビで見てええわあ、おもてんけど」

「織河さん、朝の青汁のドキュメント番組知ってますか?」

 十崎が穏やかに問うた。

 七海だけで無く、クイズにハマったことのある人間なら皆そうだが、知らない、と答えるのを極端に嫌う。止せばいいのにいつも十崎の振りを受けてしまうのもそのためだ。

「ふぃってはふ」

 飲み込むチャンスを逃した。

 いや、無理だ。

 鼻からうどん。

 それだけは避けたい。

「なら話は早い。あれがんばって働いてる一般の人が苦労の末にそこそこ成功して現在に至る、って形で紹介されてるじゃないですか。例えばこんなカンジで……

 ロシア系トルコ人のメフメット・サバスキーさんは苦節十年、やっとこの島根の地に、ガラタ橋、名物サバサンドを根付かせる事が出来ました。店の名は、彼の敬愛していたアメリカの、黒人アーティストに因んでサバーランド・島根」

 子供一人で遣いにやれんなあ。

 九城が背もたれに体を預けて呟くのを、七海は遠くで聞いた。

 メフメット・サバスキーさん。

 サバーランド島根。

 あかん。

 腹筋が痙攣し、視界が揺れる。弛みつつある口から麺が一本、二本と丼の海に帰って行く。

 噛み切れない。 噛み切ったらもう戻せないからだ。

 神様。

「それでかならず過労や病気で倒れて、奇跡的に生還した彼は、健康に気を使い青汁を飲むようになった……がパターンじゃないですか」

 七海は肩で息をしながらカクカクと頷き、うどんを噛み切って腹を括った。

 飲み込む。一瞬のスキを突き飲みこむ。

「あの番組で凄かったのはね……そんな彼を襲った突然の悲劇。身体を蝕むのは癌! でコマーシャル」

 今だ!

 七海は意を決して口の中に残ったうどんを飲み込む。

 けれど七海は賭に負けた。

 九城が続ける。

「んでコマーシャル明けのナレーションが、まさかの『幸い癌ではなかったが』……癌ゆーたやん」

「んげぶっ」

 がはげへごほ、

 ごっほごほごほげべ

 にょろん。

 パーティーで鳴らすクラッカーのように、自分の顔面から、ひも状のものが咲くのを感じ、七海は奈落の底へ突き落とされた。

 七海は、顔を光の速さで俯かせながら箸を置き、まだとまらぬ咳ごと顔面を、取り出したハンカチで必死に覆う。

 ……

 全てが終わり、涙目でおそるおそる顔を上げると、硬い表情の九城と、興味津々の笑顔で、ガン見している十崎がいた。

「……いや、正直すまん。ここまでなるとは思わんかった」

 九城が引いたままの顔で言った。

 周りを眼だけで伺うと、幸い他の学生はこちらに注意を向けていなかった。

 十崎は微笑み、拳を握ると励ます様に言った。

「えんがちょ」

 

 出立の朝が来た。

 あの会合以来、一週間が経っている。

 ウルは、青く澄み渡った空を見上げた。

 アラディンは思った。

 背を伸ばし、垂直に空を見上げるその姿は、いつか海賊版のDVDで見た、吹雪に耐える南極の皇帝ペンギンのような荘厳さだった。

 ウルは狼だ。

 高貴と言う形容詞が、こんなにふさわしい女性を見たことがない。

 村のほとんどが、見送りにあつまった。

 石造りの家の屋根から、子供達が見下ろしている。

 大人達にかこまれていて、ウルに近付けないのだ。

 屋根に登ることが、出来ない子たちが泣いている。

 ウルは大人達を掻き分けて、ライラを抱き上げ、尚も泣きやまない彼女に二言三言呟いて頬擦りした。

 子供達が一斉に泣き出して、ウルのもとに駆け寄ろうとした。

 大人たちが道を空ける。

 ウルが、ライラを抱いたまましゃがみこみ、駆け寄ってきた子供を空いてる手で抱きしめる。

 あっという間に子供達の壁に囲まれたウルを見て、周りの大人たちは苦笑した。

 一人づつ抱きしめては、言葉を掛け、頭に頬ずりする。

 自分も駆け寄りたい衝動を、ぐっと我慢しながらアラディンは、自分の任務に思いを馳せた。

 車で二時間ほどのアルビルの空港で、円筒印章をサイヤーラの仲間に渡す。

 それは、自分と会計のアリの役割だ。

 仕事に関しては、なみなみならぬプライドを持っていると評判のサイヤーラだが、異教徒をどこまで信用してよいものか。

 そして……

「アラディン、行くぞ」

 運転席のアリに、声をかけられて我に帰る。

 給油が終わったらしい。

 車の傍に放置されている、空になったポリタンクから、垂れる雫はピンク色だった。イランからの密輸品だ。最近は純度の高い、イラク製の黄色いガソリンは手に入りにくいらしい。

 これで世界第三位の、原油埋蔵量を誇る国だとは笑わせる。

 全てフセインと、アメリカのせいだ。

 ウルが立ち上がった。

 泣き声が一層大きくなる。

 ウルが追い立てられるように車に乗せられた。空港まで会計を司るアリとアラディンが一緒だ。 ハシムは村を留守に出来ない。

「感謝する。君が無事に帰って来てくれないと、子供達が怒る。私もタダじゃ済まない」

 ハシムが笑って言った。

「すぐに帰ります。私にはここで、大事な仕事があるのですから」

 ウルは涙に潤んだ眼を、後部座席から子供達に向けた。

「すぐに戻る。みんないい子にしてるんだぞ。崖には近付くな」

 車が走り出した。

「神の御加護を」

 ハシムとウルは、互いに言いあったた。

 追いかけてくる、子供達の声が徐々に遠ざかる。

 やがて喚声は砂埃の向こうに消えた。

 

 その光景を、石造りの粗末な家の窓から、見つめる影があった。

 やがて窓から離れると、使われていない暖炉の中に手を突っ込み煙突の裏側の壁に隠してある衛星電話を取り出した。

「リオンよりベースへ。予定通り、鷲は飛び立った」

 

 道中、アラディンが話かけても、ウルは生返事を繰り返すだけだった。

 心の中では、今別れた子供達の事ばかり考えていた。

 アラディンは聡い子供なので、それ以上話かけてこなかった。やがてアラディンは眠り込んでしまった。

 ウルは、そっと膝を貸してやる。

 あどけない寝顔を見た、ウルの口許が弛んだ。

「アラディンは寝たか?」

 道中必要事項しか話さなかった、アリが口を開いた。

「ええ」

「ハシム師からの伝言だ。安全を第一に、兎に角無理はしないでくれ、とのことだ」

「以前も聞きましたが、相手はどんな人物なのですか?」

 ウスマン老の話は、美化されているような気がして、参考にしていいものかどうか。

「身長は、ハシム師より少し高い程度で痩せ型。村に現れたときは、アラブ人のなりをしていたよ。黒髪に黒目で、まばらな髭……ハザラ人(モンゴル系イスラム教徒)かと思った。年の頃は二〇代半ば……かな。若かったが、落ち着いていて、穏やかな目をしていた。それなりに上手なアラビア語を話していた。バグダッドでNGOをしていたといっていたが、多分嘘だろう。軍人にも見えなかったがね。いったい何者なんだか……ただな、ひとつだけわかってるのは」

 次の言葉は、ウルの脳裏にこびりついて、離れることはなかった。

「ウスマン老が言うような、上等な人間じゃない。官憲二人に、注射をしたときの事を話している時だけ、子供が夢を語る時のような、輝いた眼をしていた。殺しても胸が痛まない相手を探して歩いている……心のどこかの配線を間違えた、狂人だよ」

 

 

 アルビルの空港に着いたのは、昼前だった。

 アラディンは、車の停車する振動で目が覚めた。

 そして、その途端、後悔した。

 ウルのそばにいられる、最後の機会なのに。

 けれど。

 アラディンは、目を開けたとき、信じられないものをみた。

 柔らかいひざの上に、自分の頭を乗せたウルが見下ろして、慈母の様な微笑みを浮かべているのだ。

 ここまで優しい笑顔を浮かべる彼女を、アラディンは滅多に見たことがなかったし、自分にむけられたことはなかった。

「アラディン、少しばかり留守にする。その間子供たちをたのむぞ」

 アラディンは、まだ夢の中にいるのだろうかといぶかりつつ頷いた。

 ウルは、アラディンの頭を、豊かな胸の間に抱えた。

「あの晩サダムから、私を守ってくれてありがとう。汝の上に平安のあらんことを」


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