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ウル 2

 血まみれで地面に丸まり、力無く呻くサダムの前でウルは荒い呼吸に豊かな胸を上下させた。

 凍るような空気に白い息が速いペースでウルの口から吐き出される

 状況にそぐわない、降るような星空とあいまって、学生の頃に、田んぼの畔道で変質者にのし掛かられた時の悪夢が、フラッシュバックする。

 一瞬パニックを起こしそうになったが、深呼吸し、顔の横で垂直に構えた一メートルほどのゆすの棒を強く握り締めた。

 大丈夫。

 あの時は先輩が助けてくれたし、今は示現流剣術と、私自身が守護天使だ。

 神の定めた人が現われるまで、この身体は誰にも触れさせない。

 だが……

 アラディンと散歩しているところに突然現れ、俺の金入れが無くなった、犯人は余所者のお前しか考えられないと、酔っ払い特有の据わった眼で吼えるや、抱きついてきたのだ。今でもそのおぞましさに、震えが止まらない。大半は、怒りから来るものだが。

「立て、イヌ! 女相手にもう終わりか?」

 中東では、最大級の侮辱を、コンボでぶつける。

 言い掛かりをつけられ、後ろから抱きすくめられた上に、胸をまさぐられた怒りは到底治まらない。

「……殺す。雌イヌが……」

 浅く速い呼吸を繰り返す黒いベストの背中が、もぞもぞと身を起こしはじめた。

 血まみれの顔から、殺意に光る視線でウルを灼き殺そうとする。

 それに呼応して、ウルも黒曜石のような瞳に、あちら側の世界へ渡りきった狂気を漲らせた。

 ウルは心の中で、呪文を唱えた。

 正義は我にあり。

 間合いを詰めるウル。

 腰に手を伸すサダム。

 ウルの裂帛の気合いが、口をつきかけたその時、

「ハシム師、こっち!」

 こちらに駆けつけてくる足音と、 ウルと歩いていたところを、サダムに追払われたアラディンの声がした。

 二人とも、動きをピタリと止める。

 程なく息を切らせたアラディンと、険しい顔つきのハシムが現われた。

 一触即発の雰囲気をかぎとったアラディンが、慌ててウルにしがみつき、サダムとの間に割って入った。

 ハシムもまたサダムの前に立ち、まだ腰から抜き切っていない、拳銃の射線を予め遮る。

「説明してもらおう、サダム」

 サダムはハシムの平常と変わらぬ落ち着いた声に、狼狽を隠せなかった状況から立ち直ったようだ。

「ハシム、俺の金入れが無くなったんだ! だからこの異人に知らないか聞いたら、怒って殴り掛かって来やがった!」

「ウソだ! ウルに無理やり抱き付いてたじゃないか! ハシム師、俺隠れて見てたんだ。それにウルが盗みなんかするもんか!」

 アラディンが叫んだ。

 ハシムがサダムに眼を据えたまま、その前から退いた。

 視界の開けたサダムはハシムに血まみれの顔を向け、しわがれた声で吼えた。

「黙れ! ガキが一丁前に色気づきやがって。異人の小娘の腰巾着は口を開くな!」

 アラディンはやせっぽっちで体力はないが、頭の回転は早い。

 わざとだろう、困惑した顔で言った。

「血まみれでいわれてもなあ……心身ともにKO? イカしてるぜ、ベイ(旦那)」

 ウルが思わず失笑し、ハシムがうまいな、と呟いた。

「……っ!」

 サダムが言葉に詰まるほど頭にきたのか、口から出損ねた怒りが、そのまま右腕に奔流となって流れたかのように、グリップに手をかけた。

 が。

 抜けない。

「相手は丸腰だぞ。」

 いつの間にか近寄ってきたハシムが、その手を押さえていたのだ。

 サダムの手に、掌を被せているだけにしか見えないのに、びくともしない。

 細身で中背の、首領のどこにそんな力が隠されているのか。

 ティクリートで問題を起こし、二か月前にこの村に逃げこんできたというサダムには分からないようだった。

「なら、素手で殺れば文句無いだろう!?」

 サダムは怒鳴った。

 ウルが棒を構えて前にでた。アラディンを背後にかばう。サダムが血まみれの顔をそちらに向け歯を剥いて威嚇する。

「サダム」

 ハシムが、楽しそうに呼び掛けた。

「今おまえの内ポケットから、失敬したんだが」

 ハシムがにこやかに掲げた物を見て、無頼漢は凍りついた。 ハシムはイタズラっぽく微笑んで、財布を左右に振った。

 口をぱくぱくと開閉するサダムを見て、ウルは怒りを感じるより先に、ハシムの手管にあきれていた。 まるでプロのスリだ。

「いかんなあ。サダム」

 間延びした声でハシムが呟くと、アラディンがウルにしがみついた。

 訝しんでウルが見ると、アラディンはサダムと対峙したときにもみせなかった怯えをハッキリと表情に刻んでいた。

「人を嵌めるなら、もう少し頭を使わないと」

 サダムが一瞬ポカンとした。

「返すぞ、ほら」

 ハシムがサダムの眼の高さまで、古びた皮財布をトスした。

 サダムが慌てて受け取ろうと、両手を伸した。

 刹那。

「がっ」

 苦悶の声を発し、サダムは前のめりにくずおれた。

「しかも酒臭い。始末におえん」

 側頭部から地面に落ちたサダムを、足で転がし仰向けにさせる様子を、ウルは呆然と見つめた。左ボディからのワンツー。

 後ろから見た背中の動きで推測しただけだ。手の動きは見えなかった。

「お前は本当にボンクラだ。普通そういう事をやるのなら、相手の荷物にプランティングしてからにするんだよ」

 ここでハシムは、チラリとウルの方を見た。

 数秒たってから、ウルは意図を理解した。

「すぐに荷物をチェックします。以後私物の置き場には気をつけます」

 ハシムは満足そうに頷き、サダムに眼を戻した。

 さすがに虫の息だ。

「とうわけで、その手は以後使えなくなった。そもそも金が欲しい人間が、こんな貧しい村に居着いたりするものか。」

 ウルはアラディンが怯えている理由を理解した。態度とは裏腹に、ハシムは激怒しているのだ。一度村の防衛のため、彼が銃を撃つところをみたことはあるが、この村に通いはじめて一年になる彼女でも、長が人を殴るのをみたことはなかった。

「ティクリートで問題を起こして逃げて来たあげく、ろくに働かず、酒は飲む、威張り散らす、あろうことか子供たちの恩人に無礼を働く……血縁でなければアラーの身許に送ってやるところだが」

 淡々とした口調が、かえって恐ろしい。

「手首の切断で勘弁してやる。左でいいな?」

 アラディンが、ひっ、と喉の奥で悲鳴をあげるのを聞いて、ウルは我に帰った。

「ハシム師、もうそれだけすれば十分です。よしましょう」

 しかし腰から山刀を抜いたハシムは、振り向かずに言った。

「ウル、申し訳ない。ここからは村の問題なのだよ」

「お願いです、師よ。子供も見ています」

 ハシムが無表情に振り返った。

 アラディンがウルの背中に半ば隠れ、蒼白になって震えているのを見て、ハシムは嘆息した。

「サダム。貴様はこの二人の慈悲によって救われたわけだ。それをゆめゆめ忘れるな」

 ハシムがマチェットを、サダムの右足の甲に突き立てた。

 絶叫が夜の大気を震わせる。

 凍りつく、二人を尻目に、ハシムが淡々と言った。

「傷は浅い。治るまで、家に閉じ籠もっていろ」

 

 

「サダム」

 ハシムの静かな呼び掛けに、ウルは我に帰った。

「二人とも落ち着きなさい。サダムも口のききかたを改めろ。ウル、子供達の話は後でゆっくり聞かせてくれ」

 サダムは気まずげに眼を逸し、ウルはおとなしく頷いた。

 あの晩以来、ウルとサダムはお互い良好な状態を保っていた。つまり無視しあっているのだ。あの晩の事は散々な目に合わされたサダムはもちろん、ウルも、震えていたアラディンも口をつぐんでいる。

「ウル。日本に行ってくれないか」

 師の唐突な頼み事に、ウルは言葉を失った。

「どういうことでしょうか」

 返事が口から出るまでに、実に五秒を要した。

「ある人間に会って、預けてあるものを引き取ってきてほしい。君はアジアの諸言語に堪能だ。我々は、英語すらまともに話せない」

 ウルは返事をしなかった。実際には英語と、日本語が母国語で、アラビア語は学習したので会話が出来るというだけだ。そのせいで思考が混乱することもしばしばで、あまりいいものではない。

「相手は日本人なのですか?」

「そうらしい。アウルディーという通り名しか名乗らなかったが、ここにくるまでは、カジワラと名乗っていたようだ。所在地を見つけるまでに一年かかった」

 ちょうどウルがこの村に来たころだ。

「あまり友好的な関係ではないのですか?」

 物品を預けておいて、一年間、音信不通というのが理解できない。

 ハシムは苦笑した。

「いや、彼の素性を、こちらが詮索しなかっただけだ。交渉のため日本人を雇ったが、完全には信用できん。そこで君に頼みたいんだ」

「相手は、何者なんです?」

 ウルは、一番気になることを聞いた。

「……バグダッドでタチの悪い官憲を二人懲らしめた、まあ英雄だ」

「日本人がですか? 相手を殺したんですか?」

「いや、それならさすがに指名手配されてるよ」

「でしょうね」

 ウルはほっとしたように笑ったが、次のハシムの言葉で凍りついた。

「相手に薬を盛って、眠らせている間に、路上で死に掛けている、ウィルス保菌者から採血した血を注射したんだ。死亡率一〇〇%のな」

「…………」

「そのまま北上して我々の村に数日滞在した後、更に北上してクルディスタンに滞在した後、帰国した様だ」

「やり方が残忍すぎます」

 ウルは恐怖を覚えるよりも、腹が立った。

「異国の娘よ」

 ずっと壁によりかかり眼を閉じていた、髭にうもれたような老人が口を開いた。

「なるほど、残忍じゃ。だが、権力を笠に着て、町にあふれている貧しい子供達を男女問わず犯しては責め殺すようなシャイターンにはちょうど良いと思わんか」

「……」

 ウルは今度は別の怒りに囚われたが、何も答えなかった。

「その被害者の中の一人が、このウスマン老の孫でな。この村に形見を届けてくれた」ウスマン老が、小さいながらしっかりとした、装丁の本を取り出した。

 コーランだ。

「その際、バクル――殺された子の名だ――のわずかな私物の入った鞄を渡された。その中に二つ、これが入っていた」

 ハシムが懐から大きな判子大の薄青い物体を取り出して、ウルに掲げて見せた。

 ウルは訝しげに眉をひそめていたが、その正体に気付いた。

「それは、昔、博物館でみたことがあります」

「そう、円筒印章と呼ばれる、古代メソポタミアの遺物だ。アウルディーが言うには、バクルが綺麗だからひとつを家族に、もうひとつをアウルディーにあげると言ったらしい。ウスマン老は喜んでそうした。その価値を知らなかったし、知っていてもそうしたろう」

「盗品ですか」

「多分な。盗品の盗品で、出所はバグダッド博物館だろう」

 アメリカによる侵攻の、どさくさにまぎれて略奪が行われた場所だ。

「我々はこれの買い手を日本で見つけた。先程のサイヤーラと呼ばれる日本人に見つけてもらったんだ」

 ウルは、眼に怒りを閃かせた。

「私に、運び屋をやれというんですか?」

「もちろん、君は断るだろう」

「無論です」

「運び屋は、サイヤーラの仲間がやる。君はアウルディーを説得するだけだ。日本の好事家は一本なら十万、二本揃えば二五万usドル出すと言っているらしい。アウルディーには、七万五〇〇〇ドルで買い取らせてもらえるよう交渉してほしい」

「お断りします。私には関係ありません」

 ウルはハシムに対して、失望を禁じ得なかった。

 ハシムは、答えはわかっていたというように、にっこりと微笑んだ。

「君の言いたいことは分かる。盗品を売る上に、恩人から利ざやを取ろうというんだ。後ろ暗いことこの上ない」

「そうですね」

 ウルに容赦はなかった。

 サダムが割って入った。

「ハシム師、もういい。そもそも彼女は同胞ではないんだ」

 その言葉に、嫌味なものは混じっていなかった。むしろ諦めが感じられる。

「そのとおり。師よ、ミスターサダムに任せたらどうです?」

 それでも何か疎外感を感じ、皮肉のひとつでもいわずにはおれないウルだった。サダムはちらりと不満げにウルを見たが何も言わない。

「当初はその予定だったんだ。彼は英語が話せるからな。しかしその足では……」

 メガネを掛けた男が言いかけるのを、ハシムは苦笑しながら片手をかざし、遮った。 人のよさそうな笑顔からは、あの夜の酷薄さが想像できない。

「まあ待て、ウル。最後まで話を聞いてくれないか。君も知っての通りこの村は貧しい。子供達に、最低限必要なものすら与えてやれない。南方からの避難民の吹き溜まりだから当然だがな」

 ここでハシムは真顔に戻った。

「結局バクルも――彼の上にアラーの祝福があらんことを――その貧しさに嫌気が差して都会に出た。だが一三歳やそこらで仕事があるわけがない。結局は盗みか、体を売るくらいしかないのだ」

 ウルはかすかに眉を寄せ、唇をかんだ。

 ありふれた、そしてやりきれない話だ。

「そこからは私に話をさせてくれ、ハシム」

 先ほどの、ウスマン老が口を挟んだ

「きっとこれも、アラーの思し召しだったのじゃろう。そう思わねばやりきれん……じゃがな、もう二度と、この村、いやできればこの村に限らずバクルのような子供達を出して欲しくはないのだ。わしは難しいことはよくわからん。じゃが、ハシムは子供達に未来を与えたいと言った。わしにできることなら命をくれてやってもかまわん。あの仇を討ってくれたアラーの御使いも、あまりしゃべらん男じゃったが、同じ気持ちに違いない。異国の娘よ。あんたはやさしい娘じゃ。子供達に対する態度や眼をみていれば分かる。そして腕っぷしも強い」

 ウルはかすかに苦笑した。

「しかし、同時に荒事は苦手じゃろう……いや、今言うことではないな」

 ウルの表情が強張った。 その通りだ。

 しかしこの荒れた地でそれを悟られたくない。だからこそ、自分でも尊大と思える態度と口調で突っ張って来たのだ。

「二五万ドルあれば、多くの子供達を救えるだろう。だがもっとあればもっと救える。わしには金など必要ない。家族に先立たれ、早くアラーの御許に行くのを心待ちにしてるだけの年寄りじゃ。ハシムならうまくやってくれる。そう信じている。わしを含めて男共は、死ぬために遠路はるばる集まった、フェダイーン(戦士)だ。どうなろうとかまわん。娘よ。子供達を助けてやってくれんか」

 うそ偽りのない朴訥とした物言いに、ウルの心は動かされた。

「ウル、私はこの村をもっと大規模な、難民村にしたい。学校を建て、医者を呼びたい」

 ウルは小さくため息をついた。 アルビルで外国人として住民登録を行っている為、ビザは問題ない。

 先日、慌てて脱いだ靴が重なっていたのをおもいだす。 クルドでは旅立ちの日が近いことの予兆だという。

 ライラや、アラディンの顔が眼に浮かぶ。見て見ぬ振りはできない。

 サダムの足の怪我に関して、自分に落ち度があるとは思わないが、 皆に対してはやはり負い目を感じる。だが犯罪の片棒を担ぐのは、彼女の中の潔癖さが許さない。

「私はそのアウルディーという男に会って、取引を持ちかけるだけでいいんですね?それ以上はやりません」

 彼女の中で、妥協せざるを得ないラインだ。

「ああ。後はサイヤーラがやってくれる。交渉が不調に終わってもかまわない。目標の規模を小さくするだけだ。」

 ウルは覚悟を決めた。

 子供達のために、自分ができることの中では一番大きなことのような気がする。お金でしか買えないものもたくさんあるのだ。

「わかりました」

 ハシムは真剣な表情を一層厳しくした。

「助かる。チケットはこちらで手配する」

「段取りはお任せします」

 ウルは立ち上がった。

「ウル、アラーに誓おう。子供達の笑顔を、守ってみせる」

 ウルは背中をみせたまま頷いた。やはり気は重い。

 先ほど発言した男が、ウルに聞いた。経理をつかさどっている眼鏡の男で、アリという名だ。

「何か必要なものはないか。金は諸経費とは別に、三〇〇〇ドルくらいなら準備できる」

 つまりは報酬か。

 ウルは入り口のところでかすかに振り返って言った。

「ノートと教科書と下着、八歳児にあうサンダル三足とボールを」


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