第十八章 美夜子、そして藤崎統治2
第十八章です。美夜子のスフィンクスゲーム、状況開始。
九城とウル、その膝ではしゃぐぽんた、美夜子の腕で眠るむんちゃんの、大所帯を乗せたタクシーが京都駅に着いたのは、オレンジ色の光があたりを染め始める頃だった。一万円札をぽん、と九城に渡すと、
「お釣り受け取っといて。二人をお願い」
という台詞を残し、美夜子は手ぶらで、構内に向けてダッシュした。
「……頼むで。あいつがおらんと、面白ないからな」
美夜子から、そっと受け取った赤子をおっかなびっくり抱えたまま、九城が言った。
美夜子は、振り向かずに片手を挙げると、人ごみの中を疾駆する。
主婦そこのけの、経済観念を持つ美夜子が、三条から京都駅までタクシーを走らすほどに、事態は切迫していた。
出発の支度を整えている最中に届いた、血のつながらない兄からのメール。
『すまん。またいつか』
「バカッ!」
走りながら吐き捨てた。
なにかあったらすぐ逃げる。
何が、ペシュメルガよ、誰かと生きてくのが怖いだけの臆病者。
だだっ広い構内で、小さい体を精一杯走らせる。
汗が噴出す。息を荒くし、辺りを見渡す。列車の発射時刻を知らせる、電光掲示板に眼を走らせる。
大阪行きの新幹線。先回りするにはこれが最速だ。
噴出す汗を拭いながら、緑の窓口を目指す。
鋭く短い衝撃が、全身を襲う。
ちらり、と見慣れた後ろ姿を、改札の向こうに見つけたのだ。
「お兄……」
迸りかけた気持ちを、慌てて飲み込む。
今の状況では、逃げられる。
どうしよう、どうしよう。
大型のバックパックを、片がけに担いでエスカレーターを上っていく十崎を見て、パニックになりかける。
十崎を凝視したまま、無意識に髪の毛を縛っていたぽっちを、ふたつとも毟り取る。
イライラしたときの癖だ。
切符だ。まず切符だ。
当たり前のことに、ようやく気が付く。
間に合う、きっと。
わかりにくい切符売り場に、全力でダッシュした。
心臓とわき腹を突き上げてくる痛みから、必死で意識をそらしながら、階段を駆け上がる。
いた。
色白の顔が、ぼんやりした表情で乗客の列に並んでいた。
構内に滑り込んできた、電車が起こす風で、黒髪があおられるのに任せる横顔。
戦闘準備だ。
美夜子は、急いでポケットから出した銀縁メガネを掛けると、髪の毛をいつも通りに括りなおした。
状況開始。
縦二列に並んだ乗客の、死刑場に連行されるような、鈍い足取り。
それに合わせて、四角く口を開く急行に乗り込もうとする十崎に、美夜子は思いのたけをぶつけた。
「恥を知れ、極悪人!」
突如ホームに響いた絶叫に、ぎょっとして振り向いた十崎の額に、美夜子が投擲した物体が、ぱこーんと着弾した。
兄が、どこかの大統領のように、フットワーク軽くかわさなかったのは、美夜子にとって意外だった。
ピンクのストライプの入った、白いスニーカーが十崎の背後に、弧を描いて落ちる。
十崎は、息も荒く靴を投げた姿勢のまま睨みつけている、美夜子を呆然とした表情で見つめている。
ようよう搾り出した言葉は。
「……なんで」
様々な意味に取れる、そして実際、様々な意味がこもった一言。
それを把握しながらも、全てを飛び越えて美夜子は言った。
「なんで? 何年、妹やってる思てんのよ」
十崎は、後ろに並んでいる迷惑顔のサラリーマンに気付き、会釈してから列を離れた。
いまいましげに、美夜子の投げつけてきた靴を拾い、人気の少ないホームの端に歩を進める。美夜子はけんけんでついてくる。十崎は彼女の足元に、スニーカーを放り投げた。
「あのメール何?」
向き合うなり、靴を突っかけながら美夜子が言った。
十崎は、無言で顔を逸らした。
ふてくされた表情に向かって、美夜子が詰め寄る。
「イラクから帰ったとき、約束したやんな? 日本でおとなしゅうしてるって」
「お前が勝手にいっただけだろう。約束なんかしてない」
「起きたら、絶対連絡してって言うたのに」
「それも約束なんかしてない。てゆーか、メール送ったじゃん」
十崎は、体中から溜まった澱を排気するようなため息をつき、口調を少し改めていった。
「なぁ、俺、籍を抜いて何年経つと思う? いつか言わないとって思ってた……俺、他人だぞ」
美夜子は胸に、ナイフを突きたてられたかのような、表情を浮かべた。
「もう俺に……構うな」
とどめを刺す。美夜子と……
顔を逸らし、苦痛の表情を浮かべている、十崎自身に。
美夜子は嗚咽を漏らした。走ってきた熱気で曇った、銀縁眼鏡。
美夜子は、顔の大きさに合わないそれを外すと、袖で目元を拭った。
「なんで……そんなん言うんよ?」
眼鏡を持ったまま、子供のように両手で涙をぬぐい続ける。
美夜子は、兄を探して、クルドの地に行き着いた時の事を思い出した。
最初、完全に現地の人間に同化しつつあった十崎を、美夜子ですら見間違えた。尋ね人を見つけ出した安堵など一瞬で吹き飛んだ。
吊り上がった、何の感情も映さない眼、まばらに生えた無精ひげに、完全武装の民族服姿。口元に彫りこまれてしまったかのような、皮肉な笑み。
兄は……
恐らくは本人が望んだとおり……最悪の事態に陥っていた。
目の前に、下痢と緊張でやつれきり、薄汚れたバックパッカー姿で現れた、自分の存在が信じられなかったのか、兄はたっぷり、一〇秒間凝視した後……
思い切り張り飛ばされた。
今まで十崎にはもちろん、両親にすら手を上げられた事はなかった。
あっけなく地面に転がった美夜子は、驚きと痛みと、初めて見る、鬼のような兄の形相に震え上がりながらも、立ち上がった。
その時、闘志と使命感と共に、胸に宿った炎の色は今と同じだった。
……お兄ちゃんは相変わらず、過去の世界をうろうろしてる。
樫田家に引き取られ、ついで、普通養子縁組してからも、何処へと去って行った実の父を探して、幾度も小さな家出を繰り返していた頃とかわってない。
彼の実母が、ガンで亡くなる前に作ってくれた、手作りの小さなリュックに、これも幸せだった頃、実父が買ってくれた、河童のぬいぐるみだけを入れて。
ぼくが、もっと賢かったら。
兄の口癖だった。
身の回りで起こる、全ての不幸はおまえのせいだと、幼い頃に刷り込まれてしまった兄を……
ゴミ捨て場で、泣いているカッパさんを。
絶対につれて帰る。
持てる武器、全てを使って。
ゴングだ。
「……私」
美夜子は眼をこすりながら、情けない声で、十崎に言葉のボディブローを打ち込んだ。
「私、お兄ちゃんしか頼れる人おらんのに、なんでそんなこと言うんよ」
俯いたままの表情を、イラつかせながら、何か言おうとする十崎の出鼻を、次はジャブでくじく。
「おとうちゃんも、おかあちゃんも、仕事でいっつもおらんの知ってるやん。弟と妹寝かせつけんの、どれだけ大変かも知ってるやろ」
十崎は、黙り込んだ。
「友達と遊ぶ時間もろくにあらへんし。あの子らかわいいよ? かわいいからなんとか我慢できんねん……けどな」
手を休めるな。
「私、友達に、なんて呼ばれてるか知ってる? ぴよバアって。おばはんくさい言うて、ぴよバアってあだな付けられてんねん」
言葉のダブル。
一瞬、十崎の動きが止まり、ゆっくりと、冷たい色を湛えた虹彩が、美夜子を見据える。
かかった。
小さいころ私がいじめられ、泣いて帰ってくるたびに、何も言わず、今と同じ眼をした兄が、すれ違いで出て行った。
やっぱり、お兄ちゃんはかわらない。
エウリュディケでもない、九ちゃんと会って以来、冗談で名乗り始めた十崎でもない。彼の尊敬するという、ホラ吹き達を合体させた、ノビー・梶原なんていう、変な名前でもない。
彼の名前は、藤崎統治。
苗字が変わろうと、私の命と同じくらい、大事なお兄ちゃんだ。
美夜子はなおも、眼を拭いながら、上目遣いで十崎を見る。
「勘違いせんといてな、仲良しの子らにやで……でもな時々、クるんよ。実際、ババくさいもん。ぽんたらの世話ばっかりで、彼氏もおらんし」
「おまえに、その気がないだけだろ。男の誘い、断りまくってるって、お前の女友達がいってたぞ」
ミスブロー。
……莉子のヤロう。
次あったら、パンツにリコの携帯を突っ込んで、マナーモードでコールしてやる。喜ばれたらヤだな。
「時間ないもん。無理やもん。ぽんたらの世話誰がするんよ」
軸を崩すな。生命線は、子供攻め。
「言っただろ? おまえ一人、苦労する必要はないんだって。夕方まで託児所に……」
ここだ。
顔を上げ、涙の雫を頬中に貼り付けたまま、まっすぐに十崎を睨んだ。
「預けんの? 施設にいたときのお兄ちゃんみたいに、じっと入り口を見つめて過ごさすの?」
十崎は、世界のひび割れをみつけたような、青い顔で美夜子を見……
そして、今まで見つからなかった、パズルのピースを見つけた表情から、敗北感が漂うそれへの、グラデーション。
「小さいころの私みたいに」
美夜子は、涙を拭いながら思った。
なんて人の良い、お兄ちゃん。
性質の悪い女に、だまされたりしないか心配だ。
ほんとはぽんたに、『家に帰っても退屈だから、ずうっと幼稚園がいい』っていわれてるけど……
美夜子は兄の単純さと、資本主義社会を儚み、声を上げて泣いた。
延長保育は、お値段が、お高くていらっしゃいますのよ。
「だったら文句いうなよ! 自分が望んで、やってるんだろうが!」
十崎が、感情を爆発させた。
来た、苦し紛れのラッシュ。
呆然とした顔を作り、美夜子は呟いた。
「そんなん言うん?」
我に帰った十崎は、臍を噛んだような表情。
もういっちょ。
「そんなん言うの?」
十崎は、歯を食いしばって下を向き、踵を思い切りアスファルトに叩きつけた。
オッケーもう少し。
美夜子は心中、掌に拳を叩き付けた。
また泣き出す。鼻水も垂れるがままだ。
「何で怒んの?」
しゃくりあげるスピードが増す。
「お願いやから、ひどいこと言わんといてよ。
俺にかまうな、とか言わんといて。
他人とか言わんといて。そんなん、言われるくらいやったら」
……喰らえ。
「まだ、ぶたれるほうがマシや。イラクのときみたいに」
十崎の全身から、力が抜けた。
十崎は、断末魔の様な吐息を吐くと、傍の柱にもたれ掛かった。
リュックを落とさずに、静かに地面においたのは、最後の余力だろう。
美夜子は立っているのが精一杯、という表情の十崎に、恐る恐る近づき……
臨終間際のような、顔を見上げた。
「……俺に……どうしろってのさ」
「決まってる」
迷わず言った。
「毎朝起こして。そのために、お兄ちゃんのマンションに、固定電話つけたんやから」
二人が加入するキャリアの、固定電話から携帯への通話は無料だ。
十崎は、俯いたまま言った。
「……いつまで続けさすんだ、それ?」
「……来年決めよ? 私の誕生日に」
十崎は暫くの沈黙の後、掠れた声で呟いた。
「好きにしろ」
美夜子は、ひまわりの様な笑顔を浮かべると、両手を広げて一気に十崎の胸に飛び込み、一方的にしがみついた。
「よろしい」
美夜子は至近距離から、レモン漬けの苦虫を噛み潰したような、十崎の顔を見上げて甘えたように言い、そして厳かに宣言した。
「君を第三期、おはよう大臣に任命する」
ちょうどその時、向かい側のホームで呆然とこちらを見ている、九城達を見つけた。ぽんたは、新幹線に夢中で、こっちに気付いていない。
いくつものホームが、線路をはさんで並列する景色の中で、九城の視線が美夜子のそれと合う。
実は美夜子の視力は悪くない。なんにもアクセサリーの類をくれない兄から分捕ったのが、いつも掛けてる、男よけの銀縁めがねってだけだ。
美夜子は兄に見えない角度で、九城たちに向かい、会心の笑顔でウィンクすると、いたずらっぽく舌を出した。
ぎゅっ、と衣類の匂いしかしない、兄の胸に顔をこすりつける。
九城と、睦美を抱えたウルが、呆然とこちらを見て……
九城がゆっくりと首を振り、何かを呟いた。
すげえ。
唇の動きが、そう読み取れた。
後で聞いたところ、こええといってたのだが。
ここまでお付き合いくださり、ありがとうございます。
もう少しお付き合いくだされば、幸いです。
この物語を楽しみにして下さっている人たちが、いると信じてここまでこれました。
次章、最終章です。