第十八章 美夜子、そして藤崎統治
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第十八章 美夜子、そして藤崎統治
かわいそうにおもった神様は、ある晩、おもちゃばこの、かっぱさんのまえに現れていいました。
「かっぱくん。なにかおねがいはありませんか」
かっぱさんは、いいました。
「なら、男の子が、つぎにぶたれそうなとき、ぼくを、一回でいいからおおきくして、しゃべれるようにしてください」
つぎのひ、お父さんは、また男の子をぶとうとしました。
神様はやくそくどおり、かっぱさんをおとうさんくらいのおおきさにしてくれました。
かっぱさんは、はりきってお父さんのまえにたちました。
「おとうさん、かわりに、ぼくをいっぱいたたいてください。ふかふかだし、血も出ないし、けがもしませんよ」
「ひゃあ、おばけ!」
おとうさんは、怖がってにげだしました。
もとの大きさにもどったかっぱさんは、その晩ふつうごみにだされました。
かっぱさんは、なみだをひとつぶながしました。
「ごめんね」
かっぱさんは、お星様をみあげてつぶやきました。
「ぼくなにか、しっぱいしちゃったみたい。ぼくがもっとかしこければ、みんなうまくいったのに」
朝になり、かっぱさんはごみしゅうしゅうしゃに連れて行かれました。
九城は、緊張の面持ちで、その建物を見あげた。
表札に彫りこまれた樫田の文字が、平日の陽光に照らされている。
青い空に、頼りなさそうな雲が細く、切れ目を入れていた。
「こんな時間に、その娘はいるのか? 平日だぞ」
背後で、丈の長いスカートに、エキゾチックな上着とアクセサリーを身に着けているウルが言った。
手には、キャリーバッグの取っ手が握られている。
「……たぶん。悪いなつきあわせて」
九城は、振り返った。
大分腫れの引いた左頬は、大判のシュマグ・スカーフで隠れている。
「まったくだ」
ウルが、眉を寄せてから続けた。
「まあ、世話を掛けたから我慢するか」
九城が、珍しく訪れた熟睡から醒めたのは、昼過ぎだった。
携帯に、着信が残っていたのに気づく。
登録のない番号に、いくらか緊張しながらコールバックすると、出たのはウルだった。
昨夜の礼と、お別れに電話を掛けてきたのだ。
すぐに、ピンと来た。
アラディン達の事が、気にかかったのだ。
これ幸いと、アラディンから預かり物をしていることを告げると、サイヤーラの手配した、大原野の宿泊先から九城が泊まっていた、四条のネットカフェまで取りにくるという。
少し考えた九城は、三条の駅で落ち合うことにした。
改札で向かい合ったウルに、少し躊躇した後、九城は頼み事をした。
久しぶりに、知り合いに会うんだが、付いて来てくれないかと。
ウルは、怪訝な顔をして難色を示した。
当然だ。
大して知らない人間の知り合いに、腫れた顔で会えと? ありえないだろう。
だが、九城は粘った。
いまから会いに行くのは、女子高生の知り合いで、一人で会う勇気が、どうしてもでない。
ウルは、更に警戒を強めた。
ジト眼で見られ、九城は一日会っただけの相手に、話したくない恥部を全部喋らなければならない羽目になった。
世界中を、貧乏旅行するバックパッカーは、皆ずうずうしい。
元貧乏旅行者の、九城の面の皮は、とりわけどこに出しても、恥ずかしいほどに厚い。
それを駆使してアメリカでは、タダで初対面の人間のフラットに、三ヶ月間転がり込んでいたくらいだ。
改札の仕切りをはさんで、ぽつぽつと九城は経緯を語った。
最後まで黙って聞いていたウルは、一つため息をついて組んでいた腕をほどくと、改札を出てきてくれた。
「助かる。恩に着る」
九城は手を合わせて、直角に腰を曲げた。
「あなたの経歴は、昨日別れ際に、アラディンとサダムから少しだけ聞いた」
ウルは、怒ったように言った。
九城は黙って、頭を下げ続けた。
「私がこうするのは、昨日あなたには礼を尽くすよう、彼らに頼まれたからだ、バグダッドの英雄。しかし、ほぼ初対面の私にそんなことを頼むとは……あきれるな」
ウルは歩きながら、心底あきれたように言った。
「いや、今日中に済ませときたいんよ」
後を追い、弁解じみたことを口にする九城。
「それは、あなたの勝手だ……まったく……朝起こしに来てくれた、女の子を押し倒して撲殺するところだっただと?」
ウルは、九城が抱えている大きな傷を、こともなげに口にした。
九城は、消え入りそうな表情で、下を向いた。
「これだから、軍人ってやつは……そんなに怯えるくらいなら、最初から戦場なんかに行かなきゃいいだろう。大体、日本人のあなたが、わざわざイラクまで、何を好き好んで」
「……まあ、色々あったんよ」
俯いて答えながら、九城は心から、澱んだガスが抜けていくような、心地を味わっていた。
この褐色の美人は怒ってはいるが、引いたり、軽蔑をしている様子はない。九城が自分でも口にできなかった傷を、まるで仕事のミスをした部下と一緒に、得意先に頭を下げにいくかのような感覚で愚痴にしている。厳しさと、大らかさを同居させる、不思議な女だった。
九城が呼び鈴の前できょどっていると、 後ろに数歩下がって控えているウルが、あきれたように言った。
「早く押したらどうだ。こんな中途半端な時間を選んだのも、留守だったらいいな、とか思ってのことだろう」
図星をつかれ、九城は泣きたい気持ちで、インターホンを押した。
心臓が、こんなにバクバク音を立てるなんて、何年ぶりだろう。
戦闘やら、喧嘩やら、試合やらさまざまな修羅場を潜ってきた鉄腸も、まったく役に立っていない。
結局、肝っ玉だなんだといったところで、それはそのことについての怖さを全く知らないか、又は、慣れているかどうかだけの事だと九城は思う。
何人かの女に、鬼馬鹿死ねといわれたことのある九城だが、この女の子相手には、まったく慣れていなかった。
インターホンの、ボッというノイズの後に。
「はーい」
「なんでおんの!?」
ウルが小さく舌打ちした。
「違うだろうが」
「は? ……その声、九ちゃん!?」
「え……あ、の」
九城は、しどろもどろで直立不動を崩せず、インターホンの前で固まっていた。
再びボッという音がして、インターホンが切れた。
つかの間の静寂。
どう解釈してよいか、考えあぐねる間。
三〇秒待って、このままだったら帰ろう。ダッシュで。
既にウルのことも頭から消えて、脂汗を滝のように流しながら、斜め四十五度上をみていた九城だったが、玄関のドアが開く音がして、心臓を更に跳ね上がらせた。
出てきたのは、野暮ったい銀縁眼鏡をかけ、制服を着た小柄な少女だった。。
一五〇センチにあるかないかの身長、白い肌、細い手足、制服がセーラーだったら、中学生にみまちがえたかもしれない。かわいい角のように、ゴムで二つに括った髪型が、さらにその印象を幼いものにしていた。
だが、眼鏡があまり似合わない可愛らしい少女は、今の九城にとってサーベルを咥えた往年の悪役プロレスラー、タイガー・ジェット・シンよりもプレッシャーを与える存在だった。
驚いたように、九城を見つめていた少女は、やおらすたすた歩いてくると、九城の目の前に俯いて立った。
九城が、口をパクパクさせていると……
「ぐわっ」
むこうずねを、思い切り蹴られた。
「いいってええ」
徐々に鮮明になってくる痛みに、ゆっくりと足を抱えて片足立ちになったところを、両手でどん、と突き飛ばされ、派手にしりもちを着いた。
「ばかっ! 心配したんよ!」
げしっげしっ、とストンピングの嵐。
「あ、やめ、痛いし。パンツみえてるし」
ピンクと白の縞々から眼をそらしつつ、九城は弱々しく訴えた。
九城は、安堵で涙が出そうになった。心の中の氷の一部が溶けてゆく。
「連絡もよこさんし、兄ちゃんに聞いても、知らん、しか言わんし……それから」
少女は小さな拳骨を、九城の頭に見舞った。
「あつっ」
「あの時、めっちゃ怖かったんやからね!」
今しかない!
九城はすばやく正座すると、秘奥義、ライトニング土下座を敢行した。
ババァァァン
と言う擬音が、似合いそうなシチュエーション。
劇画なら、全裸で股間を強調しつつ、ハンサムなマッチョが登場しているところだ。
「すんません、ごめんな」
九城は、本気で謝った。
以前、三又がばれて、包丁が出てくる修羅場になったり、アメリカでストリートギャングに銃をつきつけられた時でさえ、平気でばっくれることの出来た男が。
「ちょ……やめてよ! 近所の眼があるのに!」
美夜子の方がうろたえて、周りをわたわたと見回した。
づかづかと近づいてきたウルが、襟首をぶら下げるように引っ張って立たせた。
「……立てい! みっともない。それでも男か」
「あほ! 俺かて女に、こんなんした事ないわい!」
吊り下げられた、猫のようなポーズのままウルに喚く。
夕佳ねえ以外には、という言葉は飲み込む。
ウルはうむ、と頷いてから、徐に美夜子に両目を向ける。
「かなりうそ臭いが、まあ、よしとしよう……ミズ、でしゃばったまねを許して欲しい。最後まで、口出しをするつもりなどなかったのだが」
ぽかん、と見あげる美夜子の、眼鏡越しの眼をみつめたまま続ける。
「この男は、この男なりに苦しんでいたようだ。どうか話だけでも、聞いてあげてもらえないだろうか?」
しばらく呆けたように、ウルの真摯な言葉を聴いていた美夜子だが、うなだれている九城に尋ねた。
「はあ……九ちゃん、この方は?」
「話すと長いんやけど……」
九城はいいよどんだ。
「申し遅れました、ウルマといいます。先日、日本に来たばかりですが、成り行きで彼に、ここまでついて来た次第です」
美夜子は、まじまじとウルを見つめながら、首を傾げた。
「ナンパされるようなタイプには、見えないしな……アッサラームアレイクム。ハムッドリラー」
ウルは驚き、戸惑いながらも返答した。
「ワレイクム・ムッサラーム……驚いた、挨拶を知っているだけでも珍しい」
次の一言で、ウルは心臓を一撃されたような表情になった。
「まさか……あなたクルド人? ペシュメルガじゃないでしょうね?」
「なっ! ……」
美夜子の顔に、あからさまな警戒心が表れた。
「九城! どういうことだ」
食って掛かってくるウルを、横目で見ながら、九城は苦虫を噛み潰した様子で、襟を整える。
「この少女は、何者なんだ!」
「とざ……カジワラの妹や」
雷に打たれたように固まるウルを見て、今度は美夜子が、険しい顔付きになった。
「カジワラ……やっぱり」
忌まわしい、十崎のイラクでの通り名に、美夜子は柳眉を逆立てた。
「兄に御用ですか? 言っときますけど、うちの兄を二度とイラクなんかに行かせませんよ?」
「冗談じゃない!」
ウルは、思わず大声をだした。
「私たちとて、二度と関わるのはごめんだ!」
美夜子は、一瞬にして表情を酸っぱくした。
「うちの兄が、なにかご迷惑を……かけたんでしょうね、やっぱり」
急にしょんぼりして、小さい身体が、余計小さく見える美夜子の姿に、ウルは我に返った。
この子はアウルディーとは、かなり性格が違うようだ。
「あ……いや、こちらにも、落ち度は多々あるので、気にしないでください」
小鳥のように、上唇を尖らして俯く美夜子に、ウルは慌てていった。
「まあまあ、それはそれとして……」
九城は、門の内側にとめてある、昨晩七海が乗ってきた原付に気づいた。
「昨日、兄ちゃん来たんやな……会った?」
「うん……起きたら絶対電話ちょうだい、って言うたんやけど」
美夜子が、伏し目がちに呟いた。
「連絡つかんねん。だからぽんたくん、幼稚園にお迎えいかんならんゆうて、早引けさせてもろてん」
「今日、来たんはそれもあってな。このままやったら多分」
美夜子が、弾かれたように顔をあげた。
「あいつまた、おらへんようになるかもしれんから」
美夜子は蒼白になり、唇がわなないた。
九城は、安心させるように笑いかけた。
「そうならん様に、俺が来たんよ。ひよちゃんか、おれの携帯のどちらかに、連絡あるやろ。もしもの時は、捕まえに行こう」
美夜子は力強く頷くと、二人を家の中に招き入れた。
どことなく、懐かしい感じのする玄関と廊下を通って、人の声が漏れてくる扉を開く。
明るい、八畳程のリビングは、おもちゃや落書きされた紙が、散らかり放題だった。
原色だらけの室内にいた、二人の住人が大声をあげた。
「みよねえちゃん、どこいってたん……あれ?」
駆け寄ってきた、坊主頭の幼児が、美夜子の後ろに続く二人を見て、不思議そうな顔をした。
「……おう。ぽんた、俺のこと覚えてるか?」
九城が、緊張した顔で笑いかける。
「九ちゃあん!」
子供は、タレ眼で鼻の低い典型的な日本人顔を、くしゃくしゃにして笑った。
「もー、どこいってたんよ」
「おー、ひさしぶりやな、はっはっはっ」
九城は相好を崩すと、くりくりと男の子の、いがぐり頭をなでた。
少し、離れたところにあるソファに手をつき、プラスチックのブロックを口に入れていた、よちよち歩きの幼児が、知らない人を見て泣き出した。
「あー、むんちゃんなかない、泣かない」
美夜子が、歩み寄って抱き上げると、しっかりとしがみついた。
「おっ、むんちゃん歩けるようになったんかい」
九城が嬉しそうに言うと、そーやー、とぽんたが自分のことのように言い、 ウルに目を向けると、不思議そうに誰何した。
「……おねえちゃん、誰なん?」
ぼんやりしていたウルは、あわててひざまづくと、ぽんたに視線を合わせて、スカーフを口許までずらした。
「こんにちは。私の名前はウルです」
優しく笑いかける。
「なんで泥棒さんなん?」
スカーフ姿が原因だと思い当たり、ウルは思わず顎を逸らして笑ってしまった。
前に大笑いしたのは、一体いつだったろうか。
「そうだな、私は泥棒さんなんだよ。色も黒いしな」
「ぽん。ウルマさんは、九ちゃんのお友達やで。どろぼうさんやないよ」
美夜子が、むずかる赤ちゃんをあやしながら言うと、ぽんたはちょっとだけぽかんとし、
「なんや、うそついたらあかんやん」
照れたように、笑って言った。
ウルは、暫くぽんたの顔をみつめていた。
「そうだな」
ウルは、ぽつりと言った
「嘘は……だめだよな」
ウルの表情が涙で決壊した。
「すまなかった。だから」
ウルは、ぽんたを抱きしめた。
「君は、私に嘘をつかないでくれるか……たとえ私のためでも」
ぽかんとした表情で、ぽんたは美夜子を見、美夜子は驚いた顔で九城を見た。
なんとなく、ウルの言ってることがわかった九城は、美夜子に向かい、人差し指を唇に当てた。
そのとき、ウルのすすり泣く声をBGMにしたまま、九城の携帯が鳴った。
「……あいつや。まずいな、むんちゃんの泣き声とか聞こえたら、ここにおるのばれてまうわ」
九城は直ぐ戻ると言うと、急いで表へ出た。
「おう」
「九城、元気そうですね」
「ん……まあな。お前こそ、鼻っ柱どうよ?」
「あれは効きましたねえ。近年、あれほどダメージを受けた記憶は、ありません」
「……概論、言ったんかい?」
「退学願いは、郵送するつもりです」
「……そんなん、通るんか? 手続きいろいろあるんやろ?」
「さあ。別に受理されても、されなくてもどっちでもいいですし」
「なんで、やめる必要があんねん?面白なって来たとこやないか」
「……さすがに、あれだけの事すればね。忘れたんですか? 僕はあなたを殺すとこだったんですよ」
「んー……そう言うたらそやけど」
九城は笑って言った。
「おまえやから、赦したるわ」
「……頭、涌いてるんじゃないですか」
「お前に言われとないわ。前から言おう思ててんけど」
振り返って、玄関が開いてないことを確認する。ぽんたらの声が聞こえたら、一巻の終わりや。
「自分で勝手に結論出して、人と距離とるのやめえや」
「あなたに言われたくありません。イラクでの事……夕佳さんに、言うつもりですか?」
「……」
「必要あるんですか?」
「巻き込むのはちょっとな。人殺しやし、俺」
九城は、言ってしまってから、激しく後悔した。
「まったくです。特に楽しんで、人を殺すようなクズの妹や仲間になんてね」
電話の向こうで、十崎は虚ろに笑った。
「わかってもらえて嬉しいですよ、アミーゴ」
「美夜子ちゃん、悲しむで」
「鏡に向かって、言えばどうです?」
九城は、イライラした気持ちを排気するように、ため息をついた。
「……わかった。わからんでもない。おれもアメリカに行こ思ってるしな。一緒に行くか?」
「アジアの方が、性にあってるんでね。といいながら、ロシアに行こうと思ってます。司馬遼太郎いうところの、最後の外国ですよ」
「ひよこちゃんには言わんのか?」
「とんでもない。今日発つつもりですし」
悪い予感が当たった。
「おい。早すぎるやろ」
「早いほうがいいんです」
「見送りくらいさせろや」
「あと二時間弱で、ボーディングタイムだから無理ですね。九城、今まで楽しかったですよ。礼を言います」
「……ん」
「それでは、Someday、somewhere(いつか、どこかで)」
「……チャオ」
九城は携帯を切ると、急いで部屋に戻った。
「あかん、美夜子ちゃん空港いくで……俺では、力不足」
九城は、言葉を失った。
他所行きを着た、ぽんたの手をウルが握っている。すっかり打ち解けたらしい。
睦美をだっこ紐で装着し、すっかり戦闘準備の整った美夜子は、眼に強い光を湛えて言った。
「いつでも」
「ひよこちゃん……出番やで。自分が最後の切り札や」
こんばんわ。いよいよ終盤。次回またまたクライマックス。美夜子のスフィンクスゲームです。よろしくお付き合いください。