第十七章 僕の好きな人
第17章です。
朝一番に研究室にやって来て、論文を打っていた黒田は、ドアの開く音に顔をあげた。
チェックのスカートに、長袖のシャツといういでたちの七海を見た黒田は、待ち人に声をかけようとした。
「おはようございます」
俯いたままぼそぼそと呟き、早足で机に向かう彼女を見て、黒田はただならぬ気配を感じた。
「おはよう……昨日どうなったんだ?」
「おかげさまでうまくいきました」
七海は平坦な声でいいながら、机の中の整理を始めた。
「そうか」
「多分、また来るとおもいます、あの人たち」
持ってきた手提げに、乱暴な手つきで本を詰めると続けた。
「ですから、私は退部します。三回生になったらお会いしましょう」
「おい」
「……短い間でしたが、お世話になりました。じゃあ」
「まてまて」
黒田が慌てて駆け寄り、両肩に手を掛ける。
「何があったかは知らないが、さぞかし大変で苦労したろう。なんとなく分かる」
七海は、俯いたままだった。
「だが、あれを見ろ」
黒田が、キラッとデコとメガネを光らせ、言った。
黒田が指差す方向に、仏頂面をむけると……
十崎がいつも使っているノートパソコンが、粗末な机の上に置かれてあった。
「今朝、鍵がかかった研究室の前に置いてあった。多分織河宛にだ……っておい」
すたすたと、早足で出口に向かう七海の前に、あわてて回りこむ。
「とりあえず開いてみろ」
「嫌です」
「謝罪文が入ってるかも知れないじゃないか」
「嫌ったら、嫌です。そこにかざってある、もじゃもじゃした縄文土器をスケッチさせられるくらい嫌です」
「もじゃもじゃって……」
黒田は、研究室内のガラスケースに陳列されている、飛び切りサイケデリックな装飾が施されている、縄文時代中期の壷に目を向けた。
「火焔土器の事か? それと、せめて実測って言え」
顔をしかめて、黒田がぼやくのを、七海は見もしなかった。
「とにかく、立ち上げてみよう。な?」
七海は、むすっとして立っている。とりあえず、足止めできたことにほっとしながら、 黒田は中古で買ったらしい、ノートパソコンを起動した。
ファンの回る音、OSの立ち上がる音に続いて、自動で演奏がかかった。
「ん?……何の曲だ」
ラーメンマン
ラーメンマアン
「なんだ、ずいぶんなつかしいな……なにしてんだ、オイ!」
不穏な気配に振り返ると、実測の為においてある弥生時代の巨大な壷を、振りかぶった七海が眼に飛び込んできた。
「やめろ、復元すんのに、どれだけ時間がかったと思ってるんだ!」
画鋲を踏んだ、ミックジャガーのような形相で、ノートパソコンに完成品のパズルを叩きつけようとしている七海を、必死で止める。
「……土器ぐらい、なんです……私なんか、顔も心も修復する間がなかったのに」
食いしばった歯からもらす呪詛に、首を傾げつつも、黒田はある事に気づいた。
「とにかく、落ち着け……なんで顔が、局部的に赤いんだ?」
額と頬と鼻の下が、しもやけのように真っ赤なのを気づかれた七海は、急いで後頭部を見せた。
油性マジックだから、なかなか落ちなかったのだ。
「……色々あったんだな」
壷をそっと元に戻した、七海の後ろ姿が、細かく震えだす。
程なくしゃくりあげる声が、朝の研究室に響く。
「……大変だったな」
しんみり呟く黒田に七海は、
「……簡単にいわないでください」
ぷるぷる震えながら言葉を漏らす。
やおら振り向くと、眼に涙をいっぱい溜めたまま、堪えていた気持ちを爆発させた。
黒田さんに、ラーメンマンにされた私の気持ちが、分かるんですか!?
「黒田さんに、ラーメンマンの気持ちが、分かるんですかっ!?」
その言葉は、ほとんど物理的なパンチ力でもって、黒田を仰け反らせた。
黒田は、数秒間天井にぶら下がっている妖怪でも見つけたような顔で、七海を見つめ、横を向いた。
だらだら汗をかきながら、何事かぶつぶつ呟く。
七海は、俺製の呪文をとなえている黒田を、大きな眼で理不尽に睨みつけていた。
黒田は眼鏡を中指でずりあげ、咳払いをしてから、七海の肩に手を掛けると俯いたまま言った。
「なるほど……織河の言うとおり、俺には少しばかり判りかねる。いや、知ったような口をきいてしまった。怒るのも無理はない、すまん」
七海は、大声を出して少し気持ちが治まったのか、眼を逸らして、いいえと呟いた。
「とにかく、座ってくれないか」
七海は下唇を突き出して、不満を表明しながらも、言われたとおりにした。
黒田は、七海に前に甘さ控えめの、缶コーヒーを置いた。
「まあ、これでも飲め。九城からだ」
「……なんで、九城さんからなんですか?」
「今朝電話があってな、立て替えとくように頼まれた」
九城に、別段恨みはない。
毒が抜けた表情で、頂きますと疲れたように呟き、背中を丸めてコーヒーをすすり始めた。
「これを聞いているということは、パソコンは無事だということですね」
べふっ
突然聞こえた、にっくきカタキの声に、思わず七海はコーヒーを噴出した。
「大丈夫か?」
黒田はあわてて立ち上がって、七海の背中を叩いた。
「……大丈夫です……ちいっくしょぉぉぉぉ」
七海は、相棒を殺されたデカのような形相で、動画を自動再生し始めたパソコンに振り向いた。
「どこまでも、どこまでもいまいましいぃぃぃぃ」
「待て、待てって」
黒田は情けない顔で、七海を羽交い絞めにする。
「離してください、黒田さん! せめて、画面の上だけでも、黒焦げのドラえもんにさせてください!」
「やめとけって、本物が来たら、直に落書きしてやろう」
黒田が、諭すように言った。
「俺と桃井も、手伝うから」
「……黒田さんて」
ぽつり、と七海が呟いた。
「ほんとにいい人ですよね」
黒田が返事に困っていると、
「そろそろ、落ち着いた頃ですか」
まるで、どこかから観察でもしているかのように、画面の十崎が言った。
ぎろり、と昨日の姿そのままで、映っている十崎を睨む。
いや、自室らしい室内をバックに少し無精髭が伸びて、疲れた表情。
ダルイ感じがやだ、カッコイイ……
「ちがう!」
七海は、セルフ突っ込みを入れた.
「昨日はお見事でした。僕の負けです……ぞくぞくするほど、不愉快なゲームでした」
七海は怪訝な顔をした。
「もう二度と、やりたいとは思いませんよ」
疲れたように笑う、十崎に向かって、平坦な声で毒づく。
「なに言ってるんでしょ、このごぼう男」
「まさか、美夜子を抱きこむとはね。ほんとに、どうやって嗅ぎつけたんだか」
黒田が、顔を顰めた。
「……ばれませんように」
「お気づきのように、彼女は僕の、本当の妹ではありません」
やっぱり。
表札が、樫田になっていたから、まさかと思ったが。
「……おれは、聞かないほうがよさそうだな」
黒田は立ち上がり、扉に向かった。
「あのっ黒田さん!」
我に返った七海は、あわてて声を掛けた。
「すみませんでした」
黒田は振り返らずに、片手をあげると、無言で消えた。
「……が一〇歳のときに、施設から引き取られました。彼女が四歳の頃です。彼女の両親は、とてもお人よしな人たちでね」
十崎は、力なく笑うと続けた。
「おかげで、凄く居心地が悪かった……毎日父親に、気晴らしで殴られていたぼくとしてはね。で、成人してからすぐに籍を抜きました。 美夜子の家族には、猛反対されましたけど」
「……ぼくの家族、とは言えないんですか」
蒼白な顔で、七海はポツリと呟いた。
「特に……美夜子には泣かれましてね。それはもうワンワンと」
その時を思い出したのか、十崎は苦笑した。
「月に何回かは、樫田家で食事するという、約束をさせられました。そうこうしているうちに、美夜子に、弟と妹が出来ました。美夜子を生んでから、なかなか子供ができないから、ぼくがもらわれたんですが……ぼくはほっとしました。これでぼくの役目は終わったなと」
「馬鹿じゃないの……役目とかなんとか」
「でもそうじゃなかった。子守に託けて、美夜子からしょっちゅう、呼び出しをくらう。タダで、あんな重労働をさせられるなんて……冗談じゃない。でもほんとに冗談じゃなかったのは、彼女の父の言葉でした。どんな形でもいい、美夜子を傍で見守ってくれないかと。あの子は表面上は友達が多いけど、凄く臆病だから、親以外にはお前にしか心をひらかないと」
「……」
「僕は、すぐに日本を出ました……元父親じゃなかったら、締め落としていたところです」
口を半開きにして、固まっている七海の前で、十崎は画面越しに俯いたまま、唇を歪めて笑った。
「大切な娘を、僕のようなクズに預けるですって? 僕の父くらいの外道じゃないですか」
「なんで……」
七海は、震える声で呟いた。
「なんでそんな風に、自分を卑下するんですか」
「いなけりゃいいんです。僕がいなけりゃいいんです」
自明の真理を語るかのように、一人頷いて言った。
「そもそも、インドで死んでいたはずでした」
「なんで……」
「死ななかった。まあ、代わりに何人か死にましたが」
「なんで死ぬとか……」
「最後に流れ着いたのがイラクです。ここで死ぬはずでした……やっぱり死ななかった」
「いいかげんにしろ、この死にたがり!」
七海は、とうとう立ち上がって叫んだ。
「そんなに死にたきゃ、身投げでもすればいいでしょ!」
「そこでやっぱり、かわりに死んだ人達がいました。あなたが首にぶらさげてくれているのが、死んだイラク人の子供にもらったものです」
唐突に自分に話がむけられ、頭がからっぽになった。
今は、首に掛けていない。ネットで大よその値段を知ってしまい、仰天したのだ。真偽の怪しいものでも一〇万以上する。気軽に貰うには、高価過ぎるので返そうと思っていたのだ。
七海がウルに、『円筒印章は除外するとして』と言った理由は、『これ一個しかない』と言っていた、十崎の言葉を素直に信じていたからだ。
「話が遠回りしましたね。僕はふざけすぎたから、すこしばかり退屈な話をしないと、耳を傾けてもらえないと思ったから……ぼくが言いたかったのは……」
十崎は画面の中で、奇妙な表情を浮かべた。それは、いつもの飄々とした表情からは、想像出来ないような……
自信なさげな顔だった。
「その子の名前はバクルといいました。屑どもの娯楽で殺されたんです。死ぬ間際に、言われたんですよ。約束させられたんです」
次の言葉で、七海は崩れ落ちた。
「そのシリンダーシールは、僕の好きな人にあげろって」
「……信じません」
床の上に座り込んだまま、七海はうわごとのように呟いた。
「あなたみたいな、ウソツキの告白を誰が……」
「ぼくはね」
画面の十崎が、困ったように続ける。
「人を好きになった事がないんですよ。そもそも、その感情がよくわからない。だから、敵意に触れると凄くほっとするんです。子供の頃に戻ったようなね」
「馬鹿……」
「バクルの言葉を思い出した時、正直なところ、あなたしか思い浮かばなかったってだけなんです。別に、一〇万ドルやそこらの遺物になんか、興味はありませんから、二つとも九城に渡しましたが……あなたに渡したヤツは、一応、バクルとの約束だったから」
ホントに馬鹿。大馬鹿。一〇〇〇万円近くのお宝より、二〇万円弱で売れるかどうかの遺物と、約束の方を選ぶなんて。
今、わかった。
『これ一個しかない』と言っていた意味。
二つともいずれ、九城さんに渡すつもりだったんだ。
「長くなりました。ぼくが言いたいのは、ぼくは唾を掛けられて当然な人間ですが……そのシリンダーシールだけは、大事にしてあげてもらえませんか」
十崎は、笑って言った。
「最後のお願いです」
七海の頬を、光に照らされた銀色の朝露が伝った。
「……そっか」
七海はいままで、必死でごまかしていた気持ちを、素直に認めた。
私はこの馬鹿に、三週間足らずで、心を丸ごと奪われていたんだ。
学校にいる間、ずっと傍にいた、掴みどころのない背中に夢中だったんだ。
過去に縛られたまま生きている、不器用で優しくて、どうしようもない笑顔に本気で恋してたんだ。
そして多分……実った。
なのに。
なのになんでかな。ちっとも喜べないや。
たぶん、次に彼が言うことが、判っているからだ。
十崎は、眠気を追い払うかのように、ゆっくりと両手で顔を擦り終えると、いつもの……
七海が見てきた、いつもの笑顔に戻った。
「さて、昨日約束した、学食三年間おごるってはなしですが、守れそうにありません。どこか他所の国へ行こうと思っています。それでは、いつかどこかで、また」
動画が、唐突に終わる。
「ふざっけんなあ!!」
七海は泣きながら駆け寄ると、ノーパソの画面を掴んだ。
ひとしきり、不明瞭な罵声を上げる。
そして。
「……一方的に、言いたいことだけ言って! 私まだ」
画面を、がんがん揺さぶり続ける
「私まだ、十崎さんの下の名前も知らない……」
俯いて、力尽きたようにすすり泣く。
……
七海は携帯を取り出すと、緩慢な動作で掛電した。
お客様がおかけになった電話番号は、電波の……
ぴーっ
「だれだか」
七海は、震える声で言った。
「だれだかわかりますよね? パソコン見ました……私」
七海は、息を大きく吸うと。
絶叫した。
「私、十崎さんなんて。だいっきらい!!」
息もつかずに。しゃべり続ける。
「うそつきで、ふざけてて、がりがりで、失礼で、趣味も変で、馬鹿で自己評価が低くてデリカシーがなくて」
七海は続ける。
「最低で、平気で死ぬとかいうし、危なっかしいし、悪乗りするし」
七海は続ける。
「鈍感なくせに、妙に気が付くし、変に優しいし、無駄におせっかいで、私は助けられたし」
七海は続ける。
「女の子に冷たくて、美夜子さんを傷つけるし……人の気持ちに疎くて」
七海は続ける。顔中を、涙と鼻水で濡らして。
「私の……気持ちも……知らないで。キライ。大嫌い……だから」
七海は……言った。
「お願い、早く戻ってきて」
ここまでお付き合いくださりありがとうございます。
投稿時間の20時にアクセスが増えているという事は、待ってくださってる方いるんだなあ・・・感動です。