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第十六章 それぞれの夜

第十六章です。

 

 七海が、気掛かりな夢から目を覚ますと、自分が正義超人になる前の、ラーメンマンに変身している事に気がついた。

 

「!?」

 慌てて上半身を起こすと、そこは大型四駆の後部座席だった。

 三列シートの一番後ろで寝かされていたのだ。

「気がついたか、ミズ・織河」

 真ん中の列の、運転席側に座っているウルは、少しだけ振り向いて言った。

 助手席の少女と、運転席の物部が、ミラーでこちらを確認している。

 窓から外を見ると、七海が乗った車はオレンジ色の街灯が照らす、交通量も途絶えた産業道路を走っていた。

「よっ、気がついたアルか?」

 幸の一言で一気に記憶がよみがえり、七海は音速で仰向けにもどると顔を覆った。

「おい、刺激するな」

 物部が幸をとがめる。

「んだよ、さっきから、妙にこの学生さんに気ぃ使うな。ラブなん?」

「おまえは何もわかっちゃいない。世界には、触れちゃならんものがあるんだ。とにかくよせ」

「物部さん」

 掌で覆われた隙間から漏れる、くぐもった声で、七海がいった。

 不自然な間。

 えっ、俺? なんで俺? みたいな。

 物部は、おずおずと答えた。

「何ですか」

「あの野郎はどこです? それと原付を置いたままです」

「置いたままの原付は、あの野郎が乗って帰りました」

「そうですか……。折りいってお願いがあるんですが」

「奴が、どこへ消えたか分かりませんし、銃は貸しませんよ」

「ガリモヤシは、原付を返しに三条に向かっているでしょう。別に、鉄砲なんか要りません。カカシのような後ろ姿を見かけたら、ちょっぴり、アクセルとブレーキを踏み間違えてくれるだけで、私はかなり、幸せな気分になれます」

 七海の感情の消えた声に、何か恐怖めいたものを感じているのか、物部は言葉を選びながら答えた。

「今、あなたの自宅に向かっています。住所はアウル……十崎から聞いています。とりあえず、今日はお開きということで」

「……とっつぁん、なんかびびってる?」

 物部は、幸の呆れたような言葉に答えず続けた。

「なにせ、みんな疲れてますから」

 チッ

 七海の舌打ちが音高く響き、むっとした幸が振り返ろうとするのを、物部はジェスチャーでとめた。

 ウルは、何も言わずに窓の外を眺めている。

「どのみち……」

 物部は続けた。

「もう彼と会うこともないでしょう」

 七海は、目を見開いた。

 走行音だけが、車内の静寂をかき消す。

 小さく。

 小さく嗚咽が始まり……。

 振り返ったウルの目に、涙をボロボロ流す、七海の落書きだらけの顔が映った。

「学生さん……」

 幸は同情を込めて呟いた。

「私……明日来てくれるって……信じてたのに」

「いや……記憶にあるかぎり、彼は返事も、約束もしてなかったんじゃ……」

 言いにくそうに、物部がつぶやき、幸がしたり顔で続ける。

「よくあるよなー。私、私あなたの事信じてるッ……そうして、相手の返事は聞きたくないから、耳を塞いで走り去るのであった。まる」

 今まで、黙っていたウルが、口を開いた。

「サイヤーラ、さっきからどうした? なんだか、別人みたいだな」

「説明しよう。とっつあんは仕事が片付くと、いつもの弱気で、声の小さい営業モードに戻ってしまうのだ! その速度は、僅か〇・五秒、ではそのプロセスを、もう一度……」

 幸が、どこかで聞いたような解説を、ノリノリでまくし立てる。

「ふたりとも、よせ」

 ウルが遮った。

「じゃあ、私は明日」

 七海は、震える声で割って入る。

「家の文化包丁で……誰のどてっ腹を、抉ればいいんですか?」

 物部と幸は、ちょっと気まずそうに、視線を彷徨わせた。

「織河もよせ。背中を押してやりたい気持ちはあるが、それはよせ」

 ウルは、横たわったまま、大粒の涙を流す七海を、シート越しに見下ろした。

「すわりなさい。もう誰も、笑ったりしない」

 お嬢さん、そいつはどうかな、ニヒルに嘯く幸を無視しつつ、ウルは七海の手を引いて起こす。

 七海は、上目遣いにウルをみた。

 死んだふりをする際、物部に殴られたのだろうか。ウルの左頬は腫れていたし、泣きはらした目も真っ赤だったが、瞳の色は穏やかで優しげだった。

「私が、着けていたもので済まないが」

 自分の頭部に、ゆるく巻きつけていたスカーフを解くと、俯いている七海に被せ、軽く顎の下で結んでやる。

「似合うな。ロシア娘か、マッチ売りの少女みたいでかわいい」

 ウルが、極めて珍しく軽口を叩く。

 だが、それを見逃す幸ではなかった。

 シート越しに、眼だけを覗かせ裏声で囁く。

「家路を急ぐ人たちの溢れる白い街角で、彼女は声を嗄らして叫びました……ギョーザ、ギョーザ買ってください! 一〇個で、八〇〇万ジンバブエドル!」

 ごほっ、げほごほ

 物部とウルは急いで俯くと、同時に咳き込み、その姿勢のまま物部は幸の頭をはたいた。

 ってえな、とか言いながらも、満足そうな幸。

「風邪ですか。大事にしてください」

 副音声のボタンを押したら、裏切り者、と聞こえてきそうな口調で、七海が言った。

「……いや、なんでもない。しかし、隠そうと思ったらこれでは無理か……チャドルがあればな」

 真剣に呟くウルに、誰も突っ込まなかった。

「仕方ない」

 ウルは、目を半月形にして虚空を睨んでいる七海の頭部に、くるくると手際よくスカーフを巻きつけ始めた。

 ……。

「よし。多少目立つかもしれんが、落書きをみられるよりましだろう……大丈夫、イラクで働く人たちはみんなこうしてる」

 ウルは、満足そうに笑った。

 ルームミラーで、ちらりとその様子を見た、幸と物部の時間が止まった。

 赤信号を突っ切りそうになり、物部はあわててブレーキを踏む。

「……なあ、姐さん」

「なんだ?」

「他人を貶めて笑いをとるのは、お笑いの手法としては最低なんだぜ?」

 己の事は棚に上げ、幸は静かに言った。

「……? そうだな、私もそう思うが……急にどうした?」

「……なんでもない。悪かったよ」

「そうか。織河、近所まで送ってもらったら、自宅まで走るといい」

「……そんなことしたら、学生さんちに武装勢力が、突入してるようにしか見えねえっつうの」

 アルジャジーラに、送りつけられてくる犯行声明ビデオなどで、旗の前に立ち、がんばって武器を構える農民風にされた七海は、微動だにしなかった。

「ナスがママ、キューリがパパだな、学生さん。姐さんまったく悪気がなさそうだから、はっきり言った方がいいぞ」

 幸が、しみじみいうと、

「いいんです」

 七海が、ぼそぼそと呟いた。

「図らずも、これでガリモヤシんちを強襲する準備ができました。みなさんつきあってくれますよね?」

 そっと下を向いた三人に、追い討ちを掛けるように七海は言った。

「私、信じてる」

 

 街頭が照らす通りに、人影は無い。

 すっかり寝静まった住宅街まで、原付を走らせてきた十崎は、目的の家のかなり手前でエンジンを切り、惰性だけでディオを進ませた。

 寒い。防寒用のドライビンググローブ越しに、侵入してくる冷気に、指先の感覚がない。今宵は本当に、四月の下旬なのか。

 フルフェイスを外し、周りより少し広めの、見慣れた一戸建てを見上げる。

 二階の電気が消えているのを見て、軽く安堵すると、そっと、門を開く。

 錆付いた金属の軋みに舌打ちしそうになったが、原付を中に駐め、忌々しいかっぱ入りのザックをステップに置いたまま、鍵を車体の下に置くと、冷え切った指先の血行を戻すため、手を開閉しながら、そそくさと門を出た。よく避難場所に使う、ネットカフェの方角に、歩き始めたところで……

 はははは……人がごみのようだ

 聞きなれた携帯の着信音が、十崎を凍りつかせた。

 カーテンの開く音がして、さっきまで見あげていた窓から、強烈な海中電灯の光が十崎を照らす。

 マグライトの照射に手をかざしつつ、十崎は諦めて携帯に出た。

「怪我は?」

 美夜子の第一声はそれだった。声に感情が無いのは、相当怒っている証拠だ。樫田家に養子としてもらわれてから、一〇年以上の付き合いで分かっている。

「別に」

 そっけなく答える。

 逆光で表情はみえない。パジャマを着ているのに、まだ髪を二つに括った角が、シルエットになって見えているのは、いつでも飛び出せるようにだろうか。

「明日も学校だろう。なんでまだ起きてんのさ」

 十崎は、不機嫌さを隠さず言った。

「いつ、訃報が届くかも分らんから」

 淡々とした痛烈なイヤミに、私は全てお見通し、というメッセージが込められていた。

「それと、織河さんからさっき私に電話があった。バイク返しにいけなくて、ごめんなさいとか」

「……ん」

「お兄ちゃん、なんで左袖、濡れてんの?」

 きらり、と美夜子の銀縁眼鏡が光った気がして、十崎は急いで美夜子に背中を向けた。コートの弾痕でも見られたら、非常にめんどくさいことになる。

「なんで隠すんよ?」

「隠してない。まぶしいから、そっち向いてられないんだよ」

「ふーん……」

「それから、明日は自分で起きろ」

「……何、それ?」

 織河に余計なことをいっただろう、という言葉を飲み込んだ。今、一戦交える体力は残っていない。

「明日、起きれそうにないんだよ」

「夜型のくせに……まあ、ええわ。足も二本付いとるみたいやし。そのかわり」

 美夜子は、語気を強めて言った。

「起きたらちゃんと連絡して。絶対やで?」

 辛うじて、涙をこらえた震える声に、十崎は返事をすることが出来なかった。

 

 

 日付が変わる時間帯を過ぎても、それなりに交通量のある大通の交差点で、九城はバイクを止めた。

 平日の夜なので、走っているのは、トラックや貨物車ばかりだ。

 ゴーグルをあげた九城は、後方にそっと停車した、ロードスターに近づく。

 パワーウィンドーを下げた運転手に向かい、英語でいった。

「そこを右折して、二つ目の信号を曲がったらコンビニ……コーナーストアがあるわ。そこで、銀色の軽に乗って待ってるってよ」

「ありがとう。世話になった」

 運転席のサダムが、にっこりと笑っていった。

「七海ちゃんを、運んでもらう代わりとはいえ、無免許の車、先導するなんてな……」

 九城が、苦々しそうに言った。

「随分まじめなんだな」

「それで二回、ガキの頃に、捕まった事があるから言うてんねや。……まあええわ。傷どうよ?」

「かすめただけだからな。しかし、あの男……腰だめで撃って、よくもあれだけ器用に急所を外せたものだ」

「まあ……あいつは普通やないからな、色々と」

「そういう君の方こそ、目の上の傷はどうなんだ?」

「まあ、大した事ないわ。接着剤で固めといたし、抗生物質飲んだからな」

 サダムは呆れたように首を振った。

「雑もいいとこだ……しかし、ミスターK。よく我々の前を走るのを承知したな? 後ろから撃たれるかも、とか考えなかったのか?」

 サダムが、不思議そうに尋ねると、九城は無表情に言った。

「お前ら見てたら、なんとなくそれはない思たしな……ところで、ぼうず」

 九城は、助手席でずっと俯いたままの、アラディンに言った。

「去年バグダッドのグリーンゾーンで、俺が所属していたPMCの一人が、カナース(スナイパー)に撃たれた……俺の目の前でな」

 なおも顔を上げないアラディンに、構わず続ける。

「普通、安全区域の入り口で、部外者は止められるんやけど、ザルもいいとこな警備体制やから、誰でも入れた。犯人は、その頃名前を売り出し始めたテロリスト、『煙』の仕業って噂がたった」

「そう」

 アラディンがポツリと呟いた。

「勘違いすんなよ。礼を言いたくてな」

 アラディンが、ゆっくりと面を上げた。

 何の光も映さない眼差しで、お互いの深淵を覗き込み合う。

「お前が殺らんかったら、俺がやられてた……なんでや?」

 ほとんど動かさない、九城の唇からもれる問いは、囁きに近かった。

「なんで俺も殺さんかってん?」

「ツイントリガー社所属、K・クジョー……CQ(近接戦闘)のエキスパートで、米軍遺物捜査班リーダー、マシュー・ボグダノス大佐のお気に入り……」

 アラディンの独り言に、九城の目つきが険しくなった。

「通り名は、マッド・ドッグ・ジェイソン。バグダッドの隊が借り上げしているフラットで、同僚の隊員及び上官、あわせて六人殺害」

「やめえや」

 九城の獰猛な唸り声に、サダムの表情が変わる。

「アラディン、よせ」

「聞いてきたのは彼だよ、サダム……勘違いしないで、ジェイソン。僕もお礼を言いたかったんだ」

 九城を見つめるアラディンの眼に、初めて表情らしきものが現れた。

「ハニーンの代わりにね」

 九城の眼が、驚愕に彩られた。

「おまえ……」

「彼女、しゃべれるようになった。あなたのおかげだよ、ジェイソン」

「マジか! ……あの娘……」

 九城は、屑どものおもちゃにされていた、十七歳の少女を思い出し、言葉を詰まらせた。

「あなたに助けられた時は、ひどい状態だったもんね。いつか自分でお礼を言いたいってのが、彼女の口癖だよ」

「……お前も、ザイナブの仲間なんか?」

 アラディンは薄く笑った。

「『預言者の剣』とは交流が深かったよ。狭い世界だからね。それが、あなたの質問の答えさ」

 一六歳の少女を頭に頂く、自衛集団の名前を聞いた九城は言葉を失い、ゆっくりと安堵の笑顔を浮かべた。

「あっちにいい思い出なんか、全然ないんやけど……今夜は、最後にええ話きかせてもろたで」

 アラディンは、暫く九城をじっと見てからいった。

「今度は僕が聞きたい。なぜ?」

 アラディンの瞳はまっすぐで、九城は眼を逸らせそうになかった。

「なんでアメリカ側のあなたが、イラク人の為に命を懸けたの? 六人も仲間を殺したら普通、間違いなく銃殺刑だ」

「復讐や」

 九城は即答した。

「あいつら、どさくさにまぎれて、後ろから俺を撃ちやがった……口封じにな」

「わかってるよ。でもそもそも消されかけたのは、あいつらが女の子達のパスポートを買い集めて、慰み物にする為に監禁しているのを、告発しようとしたからだろう? 順序が違うよ」

 九城は俯いた。

「六人と対峙して、ほとんど銃を使わずに斃した……考えられないよ、相手は武装してたのに」

「銃に、自信がなかっただけや」

「それは嘘だね」

 アラディンは断言した。

「一人の顔の真ん中を、クイックドロウ(抜き撃ち)で撃ち抜いてる……そんなことはいいさ。なぜ?」

「普通やろ」

 九城は、俯いたまま言った。

「抵抗できんガキ集めて、やりたい放題……普通ムカついて、あたりまえやろが。同じ空気吸うてるだけで反吐がでるわ」

「……そっか」

 アラディンは、得心したように呟いた。

「でも、殺してしもたんは成り行きや。俺は自分の為に、アイツらを地獄に叩き込んだ……お前らの為や思われるんだけはカンベンやで」

「オーライ、わかったよ。でも、あなたのお陰で、何人もの同胞が死なずにすんだ。あんなゴミ共の為に、苦しむのはやめてよ」

「俺と、おんなじ眼えした奴に言われたないな。お前も、リスペリドンか、セレクサ飲んでるやろ……それともアンビエンか?」

 九城は、精神にダメージを抱えた、イラクからの帰還兵が世話になる、薬の名前を口にした。

 アラディンは、照れたように笑った。

「それ、イラクじゃ手に入んないよ。それにみつかったらウルに殺されてる」

 アラディンは、真顔になっていった。

「僕の薬はコーラン。でも僕がお祈りする十六人の中に、アイツは入ってない」

 九城は眼を見開いた。

「アラディン、もういいだろう。マスード司令官をお待たせするわけにはいかない」

 サダムが優しく言った。彼らは、ハシムに言われて、マスードに会いに行くのだ。そして、明日には機上の人となる。

「ミスターK。私からも、イラク人を代表してお礼を言わせてくれ」

 サダムが、サイドブレーキを外しながら言った。

「コーランで思い出した。これみんなから、ウルに」

 アラディンが紙で包まれた、掌大の四角い紙包みを、九城に差し出す。

「お守りのコーラン。渡すの忘れてた。頼めるかな」

「……連絡つくかな。まあ、なんとかしてみるわ」

「ありがとう……いつでもクルディスタンに来て。みんなに紹介するよ、バグダッドの英雄」

 アラディンが、微笑んで言った。

「やめろ」

 九城は、苦虫を噛み潰したような顔でぼやいた。

「ぼうず、お前こそ、はよ一人前になって、ウルマを迎えにきたれや」

 アラディンが、きょとんとした後、笑って言った。

「それはありえないよ。彼女は僕にとってアラーの御遣いで、僕の手は汚れきっている」

 車が走り出した。

「アラーのご加護を」

「ボン・ボヤージュ」

 走り去るユーノスを見送ってから、九城はバイクに向かって歩き出した。

 額の傷が、かぴかぴして突っ張る。

「僕の手は汚れきっている……か。耳が痛いわ」

 九城は、物憂げに呟いた。


ここまでお付き合い下さり、ホントにありがとうございます。

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