第十五章 愛される資格 ~いつの日も汝の上に~
第十五章です。
第十五章 愛される資格 ~いつの日も汝の上に~
「やめろ! 阿呆どもが!」
ウルが姿勢を崩さないまま怒鳴った。その手に握られているのは、物部が放置したままだった、コルトパイソン。
先輩。
ウルはかつて自分を救ってくれた、憧れの男の子の笑顔を思い浮かべた。
ダメな私には、子供達の笑顔を守る事ができませんでした。
けれど、今。
たった今、私にもひとつの命を、護る事が出来るかもしれない。
ウルは自分を突き動かす、神の意思を唐突に理解した。
アラーよ、この日この時まで、私の命を繋いで頂いたことに、感謝の言葉もありません。
どうか、広大な慈悲の心で以って……
私が使命を果たすまで、もうしばしのご加護を。
アラーは偉大なり。
正義は、今こそ我にあり。
「銃を捨てろ!」
「どこに、銃をむけて言ってるんです?」
十崎が、もう片方の手に握ったニューナンブで、ウルを牽制しながらあきれたように言った。
ウルは、躊躇いなくパイソンを、自分のこめかみに当てた。
焼けた銃口が、髪の毛と皮膚を焼き、嫌な音と匂いを発したが、気にしなかった。
「ウル!」
アラディンが、抜いた銃を十崎に向けるのも忘れ、狼狽した。
ウルはそのまま、ゆっくりとアラディンにむけて歩き出した。
赤外線の向こうで、戸惑ったままの九城の前を通り過ぎ、険しい顔をしたままの物部の前を通り過ぎる。
「ねえさん……」
うつ伏せで、手を頭の後ろに組んだままの幸が、目だけ向けて呟いた。
「撃ちたければ、好きなところを撃て、アウルディー。望むところだよ」
ウルは言った。
パイソンを、己が頭に向けたまま。
歩みを止めず、目も向けず。
十崎は醒めた目で、成り行きを見ているだけだ。
とうとうウルは、中腰でバネをたわめているアラディンと、十崎との間に入る形で、少年の前に立ちはだかった。
「アラディン」
「ウル……」
ウルは静かに呟き、アラディンは戸惑ったように応えた。
ウルは大きく息を吸い込み、次の瞬間。
「誰がそんなものを、振り回していいと言った!!!」
アラディンが、小気味いいまでに吹っ飛んだ。
「立てい!」
パイソンを適当に投げ捨てると、アラディンを張り飛ばした右手で、胸倉を掴んで引き上げた。
完全に度肝を抜かれたアラディンは、痛みよりも、驚きで目を丸くしたままウルを見つめる。
「ウル、でも」
「言い訳するなっ!」
アラビア語で叫び、足をかけると、背中から床に叩きつける。
「私がお前たちに、銃を取るような教育をしたか。言ってみろ!」
「……してない」
咳き込みながら、ようようアラディンは答える。
「してない、だと? 先生に対して、その口の聞き方はなんだ」
「してません……でも、銃がなきゃ、ウルを助けられないよ」
「この、ロバ頭が……いつまで寝ている! 立て!」
アラディンが、恐る恐る立ち上がる。
「気を付け!」
アラディンが、反射的に姿勢を正す。ウルは滅多に、子供をぶったりしなかったが、子供たちが卑怯なことをしたり、危ないことをしたときは、容赦がなかった。
「サダム!」
ウルが、唖然としている大男に向かって吼えた。
場が凍結するほどの、威厳と迫力だ。
「子供に銃を撃たせて、自分は物陰か。貴様、今日という今日は許さん。後で覚悟しておけ」
サダムは、顔をそらして苦々しげに呟いた。
「そいつは、勘弁してくれ」
ウルは、アラディンに眼を戻した。
「アラディン。お前たち子供の命と、私たち大人の命。どっちが重い」
「僕よりかは、ウルの命」
即答したアラディンは、さっきよりも派手に吹っ飛んだ。
「貴様は一年間、私から何を学んだんだ!」
アラディンの前に跪くと、襟をつかんで揺する。
「大人から先に死ぬものと、相場は決っているんだ。貴様らに、銃で護って貰うくらいなら、私は死を選ぶ」
ウルは立ち上がると、呆れたように事の成り行きを眺めていた、十崎に向き直った。
「アウルディー」
ウルは、アラディンに立ち上がるよう、促した。
「先に銃を向けたのは、私の生徒だ。どうか、許して欲しい」
深々と、頭を下げた。
横で呆然としている、アラディンの尻を思い切りはたくと、アラディンは慌てたように、ウルに倣った。
「よい、先生ぶりですね……興ざめです」
十崎は白けたように、横を向いた。
「どうぞ、ご勝手に」
「ありがとう。恩に着る」
ウルは、下げていた頭をあげると、アラディンに向き直った。
「アラディン……銃をもったのは、今日が初めてではないな?」
ぞっとするような、恐ろしい目で睨むと、アラディンの顔がこわばり、脂汗がにじみでた。
黙っていると、ウルが続けた。
「いままでに、何人撃った?」
しばらくの沈黙の後、アラディンは、ウルにしか聞こえない声で、ぼそりとある数を呟いた。
彼を縛る、呪われた数字を。
目を見開いたウルは、次の瞬間、三度、アラディンを張り倒した。
サダムは銃を放り出し、覆いかぶさるようにしてアラディンの頬を叩き続けるウルに駆け寄り、羽交い絞めにして引き剥がした。
「離せ! この子が犯した過ち分私が殴ってやる! ……私に触るな!」
サダムは暴れるウルを離さなかった。
「あの時は済まなかった。必要だったんだ。それに私はホモだよ」
ぴたりと、ウルの動きが止んだ。
「……なんだと」
話の内容と、今までの粗暴さの欠片もない、理知的な語り口に、ウルはあっけにとられた。
「君を脅すように、君の母親に頼まれたんだ。それで、アメリカに逃げ帰るようなら、そのほうがいいってね」
「まさか……」
「そう、あの夜君を襲ったのは、ハシムとアラディン、私の三人で仕組んだ芝居だ」
ウルは全身の力が抜け……ずるずると座り込んだ。
「なにもかも……母の掌の上か」
ウルは虚ろに。
虚脱感に支配された頭で、虚ろに呟いた。
「知らなかったのは、私だけか……間抜けな話だ」
「自分を、悪く言うのはやめろ。ウル、きみはよくやった」
サダムが、労わるように言った。
「帰る場所を……無くしたよ。もう、何もかもどうでもいい」
サダムは暫く黙っていたが、意を決したように言った。
「ウル、戻ってくるか? ハシム師には私から話をしてもいい」
ウルは、力なく首を振った。
「私のせいで、子供たちに危険が及ぶ……あってはならないことだよ。それに……」
ウルは、消え入りそうな声で言った。
「もう、何を信じていいかわからない。だまされて、踊らされるのはもうごめんだ」
サダムが、悲しそうに黙り込んだ。
乾いた音が、室内に響き渡った。
頬を打たれたウルは、呆然と加害者を見た。
「今のは、許せない」
手を振りぬいた姿勢のまま、アラディンは言った。
アラディンのぶたれつづけ、真っ赤を通り越し、紫になりつつある頬より、彼がウルを見つめるその眼差しのほうが、遥かに痛々しかった。
「みんながどんな気持ちで、ウルを日本に帰そうとしたと思ってるの? みんながどんなに、ウルと離れたくないか知ってるの? 子供たちが泣いていたのまで、嘘だと思ってるの?」
アラディンは俯いてから、意を決したように顔をあげた。
「ウル、ソーリーレターって知ってる?」
「……アメリカ軍が誤爆や誤射なんかで、現地のイラク人を殺したときに、配る手紙だろう?」
「そう。姉の結婚式で、一族ごと吹っ飛ばされた後に、僕はもらったことがある」
ウルは言葉を失い、アラディンを凝視した。
「僕の家族を奪ったのは、アメリカの民兵、民間軍事会社だった。偽情報を鵜呑みにして、式をめちゃめちゃにしたんだ。信じられるかい? すべてを奪っておいて、文字通りごめんだけなんだよ? 法律であるんだ、同盟国のために働いている要員は、イラク当局に訴追されることはないってね」
ウルは言葉もなかった。一四歳の少年の、話す内容ではなかった。
「誰も何もしてくれないのなら、自分でやるまでだ。最初は、自爆兵に志願しようと思った。でも、同胞を巻き込む可能性が高い。それに、出来るだけ長く生きて、一人でも多くのアメリカ人を、殺してやりたい」
それを聞いたウルは、鋭く胸を、抉られるような思いだった。
「勘違いしないで……ウルはウルだ。何人でも関係ない。僕は狙撃兵になった。目がよかったし、じっと動かないのが得意だったからね」
アラディンは、黙然とウルの後ろに立っている、サダムに目をやった。
「そのとき出会ったのがサダムさ。彼もまた、居場所がなくて流れ歩いてたんだ。インテリだけど、ホモセクシュアルだからね。フセイン時代のイラクならともかく、イスラムの世界では、ばれたら生きていけない……僕らは二人で組んで、片端からアメリカ兵を撃ちまくった。高い場所から撃ち、その後サダムの待機する地上に飛び降り、姿を消す。ウルがさっき見た通りさ。何の証拠も残さないから、正体はばれない」
アラディンは、ここで目を逸らして呟いた。
「僕らは、アメリカ兵に『煙』って呼ばれてた」
黙って聞いていた、十崎の表情が変わった。
「この子が……九城」
十崎は薄く笑うと、九城に顔を向けた。
「なんや」
アラビア語の会話を、ぼんやり聞いていた九城は、めんどくさそうに答えた。
九城は、アラビア語をほとんど理解できない。
「指名手配されていた、テロリストの『煙』をおぼえてますか」
九城は、顔を顰めた。
「バグダッドに一年おって、忘れられるわけないやろ? おれもヤバかったっちゅーの。そいつに会ったら、言いたい事が山ほどあるわ」
「それは重畳。彼らが『煙』だそうです」
九城のあごが、カクンと落ちた。
九城たちの会話を他所に、アラディンは続ける。
「サダムは、ハシム師の親戚だっていったよね? それは本当さ。ハシム師に、ウルの警護を頼まれたんだ。ほとぼりを冷ますのに、ちょうどいいかと思って、僕らは引き受けた。兵隊以外のアメリカ人にも、興味はあったしね」
「じゃあ、私の傍にいつもいたのも」
アラディンは、微笑んだ。
「最初は、ハシム師の頼みだったから。でも、途中からは違う。いつの間にか、死んだお姉ちゃんに重ねていたんだ。次こそは、護ってみせるってね」
ウルの瞳から、透明な雫が流れた。
「でも、平和な時間が一年近くも続くと、いままで自分がやってきたことに、疑問を感じ始めた。それは、人間として大事なことなんだろうけど、僕には地獄の責め苦だった……ぼくが殺していたのは、アメリカ兵である前に、人間だったんだ。僕にできるのは、アラーに許しを乞う事だけだった」
ウルは歪んだ視界の中で、アラディンの礼拝の時間が、人より長い理由を理解した。アラディンの声が低くなった。
「僕は二度とバグダッドに戻らないし、アメリカ兵を狙撃することはないと思った。もう、これ以上祈りの時間が長くなるのはごめんだった」
一瞬つまってから、震える声で言った。
「さっき、何も信じられないって言ったよね? ぼくがどんな気持ちで、二度と触れたくもないと思っていた銃を握ったかわからないの?」
「わからない」
ウルの全く迷いのない答えに、アラディンは言葉を失った。
「ぬくぬくと育ってきた私に、理不尽な死を迎えた家族を持つ、お前の気持ちがわかると言ったら、最低のうそつきだ。だがな」
ウルは、涙にぬれながらも、揺ぎ無い光を湛えた瞳を、アラディンに向けて言った。
「一つだけわかっている事がある。この世に居ない人間の為に、お前の命を危険に晒すのは、絶対に許容できない。どうしても、銃を取らねばならないのなら……」
ウルは、静かに続けた。
「私が代わりにやってやる。そのためになら、クルドに戻ってもいい」
アラディンは、驚いて言った。
「冗談じゃない、僕なんかのために、ウルを危険に……」
アラディンは、言葉を失い。
「そうか……そういうことか」
独り言のように呟いた。
「お前たち」
サダムが歩み寄り、言った。
「許せないでも、分からないでもない……よく分かるけど許せない、の間違いだろ?」
互いの、わざとはしょった会話は、噛み合わないままお互いの心に届き、その役割を果たした。
互いに背中で、かばいあう必要などなかっのだ。
必要だったのは……
「愛されるということは」
サダムが、静かに言った。
「自分が傷つけば、悲しむ人がいることを自覚して、自分を大切にすることだ……愛する人のためにな」
アラディンは、祈るかのように片膝をついた。
サダムは導師のように、厳かに続ける。
「二人とも……互いに愛される覚悟はあるか」
「……アラディン」
ウルは座り込んだまま、抱擁を乞う赤子のように、両手を伸ばした。
アラディンは、ウルの埃だらけの頭を、薄い胸に抱いた。
「一年もの間」
ウルは瞬きもせずに、涙の止まることのない瞳を虚空に据えたまま、アラディンの慟哭に震える声を聞いていた。
「僕らを護ってくれてありがとう。いつか、クルドの地に、本当の平和が訪れたら戻って来てほしい……みんな待ってるから」
ウルは、両手を伸ばしたまま、アラディンを抱き締められずにいた。
先輩、私……うまく出来ましたか?
あの日のあなたの様に、なれたでしょうか?
「僕らを……愛してくれてありがとう。いつの日も、汝の上に平安がありますように」
ここまでおつきあいくださり、ありがとうございます。