第十二章 スフィンクスゲーム
こんばんわ。第十二章です。
七海はピンポン玉大もある、髪留めのぽっちを左手で抜き、頭を振った。
一房だけを、頭の横っちょでとめていたそれがなくなると、片目をくせの付いたウェーブヘアが覆う。
見えているのは、仏像のような醒めた半眼、表情の消えた口元。
普段なら、思わず突っつきたくなる、柔らかそうな頬は血の気が失せ、蝋のような質感を、蛍光灯の下に晒している。
いつもの、少女少女した雰囲気は、冥府から現れた案内人のような陰気さに取って代わられ、事態の進展についていけない、九城の心胆を寒からしめた。
片や、冥府からの声と呼ばれた、闇の戦士。
片や、頭が良いとはいえ、二十歳前の女子大生。
お話にならないはずだった。
だが、今の七海を見ていると、心の中ですら、そう断じる事が躊躇されるのだ。
十崎から感じる、底の知れなさ。
それを上回る、得体の知れなさ。
只ぽっちを握って立っているだけの、七海から感じるのだ。
冥府からの声と、無敵の妖魔を知恵だけで屠った勇者。
九城の見たことの無い類の戦いが、今、幕を開けようとしていた。
恋患いに冒された様な眼で、メタモルフォーゼを遂げた、彼女を見つめる十崎の笑顔が深くなる。
「ほんとに、退屈させない人だ」
「私には退屈なゲームです……が、ひまつぶしに、相手をしてあげましょう。始めましょうか」
七海の姿をした別人は、感情を感じさせない平坦な声で返した。
「最高です……それでは先攻はどうします?」
「先攻?」
七海が、表情を変えずに問い返した。
「問題を出す側ですよ」
「ああ……あなたは勘違いしてますね」
ごりりっ
七海の左手のなかで、2つのぽっちがこすりあわされ、耳障りな音を奏でる。
「スフィンクスゲームの名前の由来はね……謎掛けをするところにあるんじゃない」
ごりっごりっ
「負けたほうが、自殺したくなるところにあるんですよ。恥ずかしくてね……だから」
九城は、ことの成り行きについていけず、ただ呆然と見守るだけ、物部も今は、十崎たちのほうに向き直って、醒めた目をむけている。
「ルールから先に決めましょう。私が負けたら、その動画を好きにすればいい」
「まさしく、自殺したくなるほど、恥ずかしいですね。ぼくが負けたら?」
「私の言うことを、何でも一つ聞く、ってのはどうです?」
「二つでもいいですよ……で、勝負の方法は?」
「そこの二人を、解放できたら私の勝ち。野蛮な方法は使わないでですよ……もしくはあなたに負けを認めさせるか、逆上して私に危害を加えても、あなたの負け。こちらの問いかけには、嘘はつかない。嘘がバレた時点で私の勝ち。私の問いかけに対するパスはOKで無制限。制限時間は十分」
十崎は、七海に視線を固定したままだ。
さまざまな方向から、七海の提案を分析しているようだ。
そして。
「OKです」
「そうですか」
ごりっ
七海の手の中で、ぽっちが不快な音をたてる。それは、大蛇の威嚇を連想させた。
「あなたはすでに死んでいます……十崎さん、勝負ってのはね、やる前についてるんですよ」
「ぞくぞくしますよ」
十崎の笑顔が輝き、七海の表情は変わらないままだった。
「では確認から。そこのお二方は、何で脅されているのですか?」
「彼ら二人の背後に、赤外線が見えるでしょ? それに触れるか、僕の携帯で決められたナンバーを押すと、部屋の隅に設置された、対人性指向地雷と呼ばれる爆弾が、二人を穴だらけにします」
十崎は、七海と自分を隔ててある赤外線を、指して言った。
「これに触れると、あなたの真上にある爆弾が爆発します」
七海は、そちらを見もせず続けた。
「それらの操作をするのは、あなたのもっている携帯からですね?」
「イエス」
「今持っている、携帯は何台?」
「四台です」
「どの携帯が。どれにつながってるんですか?」
「さあ?」
「その中には、ダミーも存在する?」
「イエス」
「ダミーは何台?」
「……一台」
「……十分です」
ごりごりごり
七海は、ひとしきりぽっちをこすり合わせてから、床に置かれた大き目のザックに、手を突っ込んだ。
「取引をしましょうか」
七海は薄いコピーの束を取り出し、十崎の前に掲げた。何かの漫画のようだ。
「なんですか、それは?」
十崎の怪訝そうな顔
「わかりませんか? 実物を見るのは初めてなんですね」
「……それは!」
十崎の顔が、まごう事無き驚愕に彩られた。
「そう、あなたがさがしていた、子供向けの本、『カブトムシの飼い方』 の中に収められた漫画、オオクワガタ飼育バカ一代です」
十崎の手が、興奮でぶるぶると震える。
九城が眼を凝らすと、どう見てみてもつのだじろうが書いたとしか思えないタッチで、昔斜め読みした空手バカ一代に出てたシンジくんや有明省吾が、オオクワガタを眺めているコマがあった。
「なんで……どうやっても見つからなかったのに」
十崎が、うわごとの様に呟く。
「子供の夏休み向けに発売された本に、こんなクオリティの高い一品が掲載されているとは、だーれも思いませんよね」
七海が、わざと間延びしたような声でいった。
「……読んだんですか?」
「……軽く。『梶原○騎先生の亡霊に悩まされる、津野田せんせいに励ましのお便りを!』 なんて欄外のコメントは、ちびっ子向けにはもったいなさすぎます……携帯二台と交換です」
「……一台なら」
「そうですか」
七海はため息もつかず、クリップで留めてあるそれを一息で真っ二つに裂いた。
「うわああっ!」
十崎が本物の悲鳴をあげる中、くしゃくしゃに丸めて鼻をぶびびっと噛むと、後ろも見ずに、背後に投げ捨てた。
「あなたなんて事を……取引する気があるんですか?」
十崎の眉間に、縦皺が一本刻まれていた。怒ったらああなるらしい。
「は?」
七海は怪訝そうに言った。
「あなたがいらないって言うんだから、仕方ないでしょ? 頭大丈夫ですか、十崎さん」
「言ってませんよ」
「駆け引きをしてくれると思ったんですか? これだから」
フゥ。
七海はわざとらしく、無表情にため息をつき肩をすくめた。
「ゆとり世代の、相手は嫌なんです」
「それは、もっと前でしょう」
「まあ、安心してください。実際のとこもう一部……」
七海がザックからもう一部、コピーを引っ張り出すのを見て、十崎は安堵の表情を浮かべた。
「……ありません。かわりといっては何ですが、私があわてて書いた、パラパラ漫画を……」
「……ふざけないでください。原本はどうしたんです!」
「あなたこそよく見て!」
七海は赤外線越しに、初めて見るこわばった十崎に向かい、コピーの束を突きつけると、パラパラめくった。
「この絵心の、まったく感じられないイラストを。主人公の、凌駕院獅子丸は、下読みの人がげんなりすること請け合いの、左右で目の色が違うラノベ的設定を、恥ずかしげもなく取り入れています。三分で書き上げた、高千穂遥も裸足で逃げ出すスペースオペラ……」
九城の、鷹の並みの視力がその内容をとらえた。スペースオペラも何も、丸に線だけのヒトが、端から歩いてきて、コケるだけだ。目なんか、どこにも書かれていない。
「普通の人なら、書くのに四分はかかります」
「……なるほど、逆上したら負けですか」
十崎が表情を険しくしたまま、無理やり笑った。
「うまく考えられた、ゲームです」
「うまく考えられた、ゲームでぷぷー」
七海は下唇を突き出して、十崎の口調を憎ったらしく真似した。
「……続きを。時間がないですよ」
「んじゃ、次」
七海はザックから、緑色の大型枕ほどの大きさの、縫いぐるみを取り出した。
「……? それは!!」
十崎の表情が、再びの戦慄に彩られる。
その場の張り詰めた空気を、台無しにできるほど平和な顔をした河童を、十崎の眼の前にかざすと七海は言った。
「そう。あなたの妹さんの大切なお友達、枕型かっぱくんL。非常に希少でオークションにかければ五万は行きます」
物部は、あきれた顔で小さく首をふっている。
「なにが、スフィンクスゲームだ。バカバカしい。なんだか、このまま帰って良さそうな気がしてきましたよ」
一方、九城は別の意見を持っていた。
「……すげえ」
あのイラクで、冥府からの声と呼ばれたフェイカーを、一女子大生が良いように手玉に取っているのだ。
世界は広い。
「……! やっぱり。何で美夜子のことを、あなたが知っているんです? 九城ですか?」
「知らんて。ホンマに」
ちらり、と不穏な眼で見られた九城が、あわてて手を振った。
「おいす。おいらかぱぞう」
七海が、河童の短い前足をもって、平坦な声で挨拶した。
「おいらをたすけておくれよ、囚われの身なのさ。携帯二台と交換だ」
「朗らかに、お断りします」
十崎が、明るい顔で言った。
「私には、全く用がありませんから。サンドバッグにもなりません」
河童は背中を丸めて、本当に悲しそうに見えた。
「そっか。まあ、お兄ちゃんはそういうとおもったよ」
七海は、黄色の携帯を取り出し、外側のサブディスプレイに眼を走らすと、河童に持たせた。
「何です? 警察に電話する、とかじゃないですよね?」
「だれが、勝ちの決まったゲームを投了するのさ。おにいちゃん・・・・・・・本当にバカなんだね。自殺しなよ、自殺」
好き放題毒を吐いた後、送信できたことを確認して河童が続ける。
「それじゃ、そろそろだね。三・二・一……」
十崎の携帯の一台から、どこかで聞いたせりふが流れ出す。
『はははは……みたまえ、人がゴミのようだ!』
「……美夜子に!?」
「ははははは。十崎はザコのようだ……でたらどうです?」
「でませんよ。取り込み中です」
保留ボタンを押したのか、台詞がやんだ。
「……美夜子を、抱きこんだところで無駄です。さあ時間が」
『ははははは。人がゴミのようだははははは、人が』
再び、携帯が囀りだした。
「電源を切ればいいのに……」
ごりごりっ
十崎が、いやいや耳に当てた。
「……もしもし、後にしろ。切るぞ」
しかし、十崎の台詞が終わらないうちに、携帯が怒涛の言葉を、あふれ出させた。
七海たちには、会話の内容はわからないが。
「……今忙し……え? 何言ってんだ。……お前」
長い沈黙。
十崎の携帯から漏れる、小さな絶叫だけが、ふわふわと辺りに漂っていた。
「……わかった」
ピッ。
「携帯二台と交換です」
忌々しげに、十崎が吐き捨てた。
「ダミーは含んじゃだめだよ」
「調子に……」
「うわあっ、おいらの足がちぎれるっ!」
七海が、かっぱの前足をひっぱって十崎をみた。
不思議とかっぱの目が、本当に怯えて見える。
十崎は、歯噛みをしながら二台を捨てた。
「ああ、おいら、これで無事におうちに帰れるよ」
ごりりっ
「その音、耳障りです」
七海は薄く、ほんとに薄く、唇の端を吊り上げ……歯の隙間から、クスクスと声を漏らした。
「負けが込んでくると、みぃんなそういい始めるんです。背中が煤けてますよ」
クスクス。
残り四分。
「じゃ、時間もないことだし、さっさと終わらせましょう。残り二台のうち、今、美夜子さんと話してた、電源を切ることができなかった携帯が、リアルということになります。電源を切ってください」
「なんで?」
「おいらと、おにいちゃんの仲じゃないか」
河童が、前足を動かして訴える。
「阿呆ですか。あと四分弱……」
「冷たいこというなよ、大臣」
「ぐぅッ!!」
十崎が、喉の奥から声を絞りだした。
「大臣、ご苦労だよな、もう何年も何年も……」
「やめろっ! 首をへし折るぞ!」
「うえーん、おにいちゃんがこわいよう」
おーよしよし、と言いながら河童をなでる七海の口元には、はっきりと邪悪な笑いが刻まれていた。
「ぐすん。わかったよ、大臣。大臣が、黒い携帯を捨ててくれたら、おいらもだまるよ、大臣」
かっぱが前足を、忙しく動かしながら、真摯な目で続けた。
「そんでもって、研究室のみんなと銀河系に、その心温まるエピソードを、無差別にメールで送信するのを、思いとどまってもいいかな」
「貴様……」
十崎の眉間に、二本縦皺が刻まれているのを、九城は呆然と見つめた。
河童が続ける。
「毎朝六時……」
十崎が、黒の携帯を床に叩きつけた。
硬質な音を立てた、プラスチックの破片が飛び散り、一気に緊張が走る。
「やったー。かっぱかっぱ」
だが、河童はのんきに、前足をぽんぽんうち合わせただけだった。
「ここまで私を追い込むとは、大したものです……でもね」
十崎は、九城が聞いたこともない硬い声で言った。
「これで赤外線も解けませんよ。つまりあなたの負けです。勝ちが決まった以上私は決して、逆上しない」
十崎が、やっといつもの笑顔を、取り戻した。
「残念でしたね。動画は、ようつべと2ちゃんを駆使して、祭りにしてあげますよ」
残り二分。
「河童、いきまーす」
七海は、河童を頭に乗せると、邪悪な笑顔を貼り付けたまま言った。
「何を……」
「今からこの赤外線の網をくぐりまーす。大丈夫、爆弾なんておいらのお皿が防いでやるよ」
「馬鹿馬鹿し……」
「カウントだうーん……じゅー」
九城は確信した。彼女ならやる。
「なつみんやめろ!」
「待ちなさい、織河さん」
「ろーく、ごー」
十崎が叫んだ。
「死にたいのかッ!」
「にー、いーち……どん!」
七海が、一歩を踏み出そうと足を上げ。
……。
あっさりと、十崎の前に立った。
蒼白の十崎の前で、七海は河童を頭に乗せたまま言った。
「赤外線を解除できなければ、あなたも袋のねずみ。退路がなければ……どちらかの赤外線が、フェイクじゃなければ携帯を壊すとは思えない」
七海はまっすぐに、十崎の目を見て言った。
「どちらの赤外線に触れても、爆発する――嘘をつきましたね? あなたの負けです。十崎さん」
こんばんわ。
震災のニュースを見るたび、気持ちが暗くなっていたのですが、今朝、「粉ミルクとオムツ等が不足している」と聞いて、本当にショックを受けました。
物凄く、堪える・・・。
この作品が、被災者の方のちょっとした暇つぶしにでもなれば、望外の喜びです。