第7話 ストーカー男と転校生
どこかで見覚えのある公園の風景。
目の前では一人の小さな女の子が俺を見つめて立っている。
透き通るような白髪のショートボブに、雪の結晶を思わせる白いフサフサのまつ毛。
その奥に見える色の薄い瞳は澄んでいて、引き込まれそうになる。
その女の子は何かを俺に語りかけると、目に涙を浮かべながら愛おしそうにニコっと微笑んだ。
――ハッと目を覚ます。
(……なんだ、夢か)
今日も、無駄に早く目が覚めてしまった。
開けた窓の隙間から、チッチッと爽やかな鳥のさえずりが飛び込んでくる。
相変わらず体は重く、気分は憂鬱。
今日は木曜日だ。
火曜の朝に保健室へ逃げ込んで早退し、昨日はそのまま学校を休んだ。丸二日、現実から逃避したことになる。
(……なんか行きにくいな)
欠席後のあるあるなのだが、一度休むと登校のハードルが跳ね上がる。
今日まで休んでしまえば、明日は金曜日。
いよいよ取り返しのつかない気がして俺は重い腰を上げた。
憂鬱な気分のまま入浴と歯磨きを済ませ、重い足取りでリビングへと向かう。
「あ、おはよー」
「おはよ。……今日も早いね」
「うん、毎日がんばることにしたから」
キッチンに立ちパタパタと料理をする茜の姿があった。
どうやら、これから毎日朝ごはんを作るらしい。
急激な成長を遂げた妹に感嘆するくらいにはメンタルが落ち着いている。
というわけで、今日も茜が作った朝食を美味しくいただいた。
朝の忙しい時間帯だから手の込んだ料理ではないけれど、この優しい出汁の効いたお味噌汁は毎日胃袋に流し込みたい。
「ごちそうさま」
「あ、兄さん待って」
食べ終えた食器を片付けようと席を立った瞬間、茜に呼び止められた。
「はいこれ、お弁当」
「……俺に? あ、ありがとう」
可愛らしい巾着袋に包まれた、温かい手作り弁当を差し出された。
……え、本当に茜だよな?
変わりすぎじゃね?
俺が寝ている間に世界線が改変されて、実は長年連れ添った俺の嫁だったりしないよな?
茜は弁当を受け取った俺を見てニコっと笑っている。
(オーマイガー。天使だ……)
そんなこんなで身支度を整えた俺と茜は、一緒に家を出た。
「じゃ、茜はこっちだから。……兄さん、あんまり無理しないでね。帰りは迎えに行くから」
「あ、うん。行ってらっしゃい……って、え? 帰りも!?」
手を振りながら中学校への道を歩いていく茜の背中を、俺はぽかんとした表情で見送る。
いくら情けない姿を見せたからって、いくらなんでも過保護すぎやしないか……?
自分の不甲斐なさを棚に上げて妹の優しさにほっこりしながら、俺は自分の通学路へと足を向けた。
あ、そうそう。 今日は伊藤さんと合流しないことになった。
今日はなんとなく一人で学校行きたい的な?
まあ、昨日情けない姿を見せたから少し気まずいというのもある。
ということで、俺はそのまま一人で学校へ向かった。
◇
学校に到着した俺は、下駄箱でローファーからスリッパに履き替えた。
(はぁ……やっぱり二日ぶりだと緊張するな)
廊下を行き交う生徒たちの目を心なしか避けるように、俯き加減で教室へと向かう。
ガラガラと音を立てて教室のドアを開けた瞬間──周囲の視線が一斉に俺へと集まり、会話の波がぴたりと途切れた。
水を打ったような静寂。
ほんの一瞬の出来事だったが、次の瞬間には何事もなかったかのようにガヤガヤとした喧騒が戻ってくる。
(まだ高校に入って二ヶ月ちょっとだぞ……先が思いやられるな、まじで)
心の中で深々とため息をつき、逃げるように自分の席へと滑り込む。
すると、すぐ隣から小さく控えめな声がかけられた。
「……左条くん、おはよう」
声の主は、隣の席の伊藤さんだった。
そっか、彼女と顔を合わせるのも二日ぶりか。
かなり心配をかけてしまったはずだ。
軽くでも謝っておこう──
「伊藤さんおはよう。その、心配かけてごめんね?」
伊藤さんに軽く謝った。
俺が小さく頭を下げると、彼女はどこか拍子抜けしたように目を丸くする。
「あっ、私のことは全然大丈夫だよ! むしろ私の方こそごめんね……」
「え? あ、いいよ全然……」
思わず『いいよ全然』なんて言ったけど、なんで伊藤さんが謝ってるんだろう?
……まあ伊藤さん優しいしな、何でも自分のせいにしてそうだし。
深く考えないことにした。
まだどこか気まずい空気のまま会話を交わしていると、ガラッと教室のドアが開く音とともに、あの明るい声が響き渡った。
「おはよう~! あ、千夏ちゃんおはよ!」
船山千夏──凛がいつもつるんでいる陽キャグループの一人だ。
「凛おはよ~! 拓海もおはよ!」
俺の心臓がドクンと跳ね上がり、激しい不快感が喉元まで込み上げてくる。
ぎゅっと目を瞑り、深呼吸を繰り返した。凛の存在を意識の外へ弾き飛ばすことで必死に平静を保とうとする。
「おい」
目を瞑る俺の耳に、すぐ近くから低い声が届いた。
……神宮寺だ。
あの場で凛と一緒にいたこいつの声を聞くだけでも、あの嫌な発作の予兆が込み上げてくる。
(頼むから俺の近くじゃなくて、もっと遠くで話してくれ……)
もう一度深呼吸をして落ち着く。
「おいって!」
「ちょ、拓海君!?」
がしっと力任せに肩を掴まれ、耳元で怒鳴られる。
反射的に体がビクッと跳ね上がり、目を開いた先にあった男の顔を見て──俺の呼吸は一段と荒くなった。
「何シカトしてんの? てか……え、震えてんの? ハハハ、なんだよ」
ぶるぶると震えて呼吸が荒くなった俺を見て嘲笑し、ここぞとばかりに煽り立ててくる神宮寺。
だが、吐き気と過呼吸の手前にある絶望的な気分の悪さのせいで、言い返す余裕がない。
「おい聞いてんの? 凛がお前のせいで落ち込んでんだぞ? しつこいお前が悪いのにさぁ、『自分があんなこと言ったから学校休んだのかも』ってよ」
「拓海くんもういいよ……」
神宮寺の罵倒は止まらない。
今気づいたが、凛は一応神宮寺を止めているらしい。
(……一番見たくないのは、お前の顔なんだけどな)
脳裏にあの日の光景がフラッシュバックし始める。
息が上手く吸えない。
「凛に謝れよ、ストーカー野郎」
「………………ッ」
「もう良いってば……拓海くん!」
ああ、やばいかも……
「聞いてんのかよ。なんとか言えよ、おい!」
その瞬間、俺の中で何かがぷつりと切れた。
「うるせええんだよ!! だまれよおおッ!」
他クラスまで届くほどの悲鳴に似た大声が、教室中に響き渡る。
怒りが爆発したからではない。
生存本能のようなものだと思う。
これ以上こいつの声で凛の話をされ続ければ、自我が完全に壊れてしまう──そう本能が叫んだのだ。
静まり返る教室。
廊下からは騒ぎを聞きつけた他クラスの生徒たちが覗き込んでくる気配がする。
神宮寺は呆気に取られ「チッ、きも」と吐き捨てて教室を出て行った。
「左条くん……」
隣で伊藤さんが俺の名前を呼んだ気がしたが、それを気にかける余力すら残っていなかった。
俺は数回、荒い深呼吸を繰り返して崩れ落ちるように机に突っ伏すと、すべての意識を遮断するように固く目を閉じた。
――その時、夏野凛は後悔と焦りをごちゃまぜにしたような複雑な表情で、机に突っ伏した蒼を見つめていた。
◇
あの日を境に、校内では悪い噂が瞬く間に広まっていった。
『神宮寺が、左条にストーカーされていた凛を助けた』という噂である。
こうして左条蒼は入学早々『ストーカー男』というレッテルを貼られ、学校全体の腫れ物となった。
対する神宮寺拓海は、美少女を救った『正義の王子様』としての地位を確立し、周囲は二人をくっつけようと大盛り上がりだ。
生徒達は学校内で左条蒼を見かけると、ひそひそと噂話を始め、誰も目すら合わせようとはしない。
そんな中、伊藤葉月だけは勇気を出して左条蒼に話しかけたのだが、当の本人は彼女に対して明確に線を引くようになっており、以前のような関係ではなくなった。
左条蒼は、学校ではほとんど誰とも話さずに一人で過ごし、昼休みも屋外の非常階段で一人寂しく昼食を取り、放課後になると通学路の途中で待っている妹の茜と一緒に帰る。
そんな日常が当たり前になっていた。
◇
蒼が孤立してから二週間が経ち、季節は七月を迎えていた。
朝の教室、一番後ろのスペースには新しい机がひとつ増えており、生徒たちは『なにこれ? 転校生でも来るのかな』などと朝からそわそわ騒ぎ合っている。
一方で、蒼に関する噂は落ち着きを見せていたが、学年内では『彼に関わってはいけない』という暗黙の了解ができていた。
……蒼もまた、周囲に対して壁を作って誰も寄せ付けなくなっており、葉月も凛も声をかけることすらできずにいた。
キーンコーン、カーンコーン──。
チャイムが響き、担任の兼松千絵先生が教室に現れる。
いつもと同じ流れなのだが、今日は教室内がそわそわしている。
朝のホームルームが始まった。
先生は出席を取り終えると、パンと手を叩いて口を開く。
「ええと、今日は大事な知らせがあるの。──今日からこのクラスに転校生が入ることになったから、みんなよろしくね」
そう言って先生はガラリと教室のドアを開け、外で待っていた人物へ手招きする。
入ってきた転校生のその姿に、クラス全体が一瞬で息を呑んだ。
教卓に立ったその少女はスーッと小さく息を吸い込むと、天使のような笑みを浮かべて可憐に言った。
「本日からお世話になります、水無瀬茉莉です♪ よろしくお願いします♪」
妖精のような透き通った声音。
その瞬間、教室内にいたほぼすべての生徒が彼女の圧倒的な容姿に見惚れ、呆然と固まっていた。
──ただ一人、虚ろな瞳で窓の外を眺め続ける左条蒼を除いて。
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