「お前の代わりなど、いくらでもいる」と仰いましたので、代わりの方への引き継ぎ書を置いて出ていきます ~三日で読めます。三日目は一頁です~
「お前の代わりなど、いくらでもいる」
朝食の卓で、旦那様はそう仰った。
卵を割る手を止めて、私は顔を上げた。
「承知いたしました」
「……ずいぶん素直だな」
「離縁のお話でございましょう? 春先から、王都のご様子は伺っておりましたので」
王都の男爵令嬢、リュシー様。可憐で、素直で、旦那様のお話に二時間でも頷いていられるお方だそうだ。
(二時間。それは私にはできない)
一時間が限度である。
「話が早くて助かる。書類は明日にでも」
「かしこまりました。ただ、ひとつだけ」
「なんだ」
「今は十月でございます。冬支度が半分残っております」
「それが?」
「私が抜けたあと、どなたがなさいますか」
旦那様はパンをちぎりながら続けた。
「だから言っている。お前の代わりなど、いくらでもいる。リュシーでもいいし、家令にやらせてもいい。あんなもの、誰にでもできる」
「…………」
(あら)
誰にでもできる。
それなら、誰にでもできるように書いておけばよい。
「では、代わりの方への引き継ぎ書をご用意いたします」
「勝手にしろ。三日で出ていけ」
「三日で読める厚さにいたします」
旦那様は鼻を鳴らして、新聞を広げた。
私は卵を割った。
黄身が二つ入っていた。今日は良い日らしい。
◆
私の名前はマルグリット・ローデン。旧姓はヴェルネ。
南の商業都市に領地を持つ伯爵家の末娘で、二年前、北のローデン伯爵家に嫁いだ。
理由は簡単で、ローデン家に女主人がいなかったからだ。
先代の奥様は五年前に亡くなり、先代当主――お義父様は足を悪くして隠居。旦那様のハロルド様は王都がお好きで、領地には冬しか帰っていらっしゃらない。
北の領地の冬は、女主人がいないと回らない。
薪、塩漬け肉、使用人の防寒着、雪で道が閉じる前に済ませる支払い、雪で道が閉じたあとに来る領民の嘆願。
それを、私がやった。
恋はしていない。旦那様も、していない。
その点だけは、夫婦の意見が一致していた。
ついでに言えば、実家の父は代々の商いで領地より商会を大きくした人で、母は商人の娘だ。私は帳面より先に値切り方を教わって育った。北の冬に、それが役に立った。
「奥様、本当に出ていかれるのですか」
侍女頭のハンナが、机に紙の束を置きながら訊く。
「ええ。三日後に」
「その三日で、これを全部お書きに?」
「一日目の分はもう書けたわ」
私は表紙を見せた。
――『一日目 冬のこと』
「薪は隣領のアルダン伯爵家と共同で買っていること。今年の分は二百束で申し込み済み。値段は支払いの前に手紙で決まる。支払いは十一月の頭。塩漬け肉は谷向こうの精肉屋で、去年は樽が二つ足りなかったから今年は十四樽。屋根の雪下ろしは村の若い衆に一日銀貨二枚。それから――」
「奥様。読み手が泣きます」
「泣かない厚さにしているわ」
二日目の分は『人のこと』。
使用人二十二名の給金日と、それぞれの家の事情。お義父様の薬の時間と、碁の相手は負けすぎても勝ちすぎてもいけないこと。教会への寄付は聖夜の前に。村長は朝に来ると話が長く、昼に来ると話が早い。
そして三日目の分。
――『三日目 旦那様のこと』
これは一頁で済んだ。
「一頁ですか」
「一頁で足りるのよ」
ハンナは何か言いたそうな顔をして、結局何も言わなかった。
もう一つ、二日目に書き添えたことがある。
薪の共同購入の相手、隣領のアルダン伯爵ユーグ様のこと。薪は一日目の話だが、伯爵は人なので、二日目に入る。
薪はアルダン家がまとめて買い付けて、うちが半分を引き取る。値段を決めるのは伯爵で、毎年十月の末、支払いの前に手紙のやり取りになる。私が一割値切ると、伯爵は二割負けてくださる。それで調子に乗って値切りすぎると、翌年の手紙が倍長くなる。
今年の手紙は、まだ書いていない。書く前に、三日が来た。
――『薪の交渉は、少しだけ値切ること。値切ると伯爵が楽しそうになさるので、値切らないと、かえって寂しがられる』
書いてから、少し考えて、その行はそのまま残した。
引き継ぎ書には、正確なことを書くべきだからだ。
二日目の分を書いている途中で、ハンナが戻ってきた。
「奥様、村長が」
「朝に?」
「朝に」
「昼にもう一度いらしてくださいと伝えて。お茶は出さないで」
「かしこまりました」
昼に来た村長は、話が早かった。
「谷の橋の杭が、だいぶ傷んでおりまして」
「今年の雪は越えられそう?」
「越えられると思います。春には替えませんと」
「では春に。杭の数と値段を、ノーマンに」
「はい。……奥様は、春には」
「いないわ。でも本に書いておくから」
村長は帽子を脱いで、それきり何も言わずに帰った。
私は二日目の本を開いて、一行足した。
――『谷の橋の杭は、春に替える。それまでに落ちたら、村の若い衆に仮橋を頼む。一日銀貨二枚。三日で架かる。放っておくと精肉屋が来られなくなる』
書き終えて、ふと思った。
私がいなくても回るように書くというのは、私がいたことを消す作業に似ている。
それでいいのだ。
引き継ぎ書とは、そういうものである。
◆
出立の朝、お義父様の部屋に寄った。
碁盤が出ていた。毎朝そうなのだ。
「出ていくそうだな」
「はい」
「ハロルドは何と言った」
「代わりはいくらでもいる、と」
お義父様は石を置いた。
「あれの母親も、同じことを言われた」
「…………」
「言ったのは私だ」
(あら)
「若い頃の話だ。妻が実家に帰ると言うので、代わりはいくらでもいると言った」
「それで、奥様は」
「帰らなかった。私が謝ったからな。三日かかった」
お義父様は盤を見たまま続けた。
「五年前に亡くなって、それきりだ。代わりはいなかった。今もいない」
私は石を置いた。
「本を書いたそうだな。ハンナから聞いた」
「三冊です」
「三冊目は」
「一頁です」
「そんなものか」
「そんなものです」
その日の碁は、負けすぎず、勝ちすぎずに終えた。
「今日くらい、勝ってもよかったのだぞ」
「引き継ぎ書に、そう書いてございませんので」
お義父様は笑って、碁笥の蓋を閉じた。
「春に手紙を書く。宛先を残していけ」
「はい」
あの方が笑うのを見たのは、これで二度目だった。
玄関ホールには旦那様と、旦那様の腕に絡みついたリュシー様がいらした。
噂どおり可憐なお方だった。ふわふわとした金の髪、大きな目、頷くたびに揺れる耳飾り。
「あなたがマルグリット様? お噂は伺っておりますわ。冬のお仕事、大変なんでしょう?」
「いいえ。誰にでもできますので」
私は三冊の引き継ぎ書を差し出した。
「一日目、二日目、三日目でございます。一日一冊、三日で読めます。三日目は一頁です」
「まあ、ご丁寧に」
リュシー様が手を伸ばしかけて、旦那様がそれを遮った。
「読む必要はない。ノーマンに渡しておけ」
家令のノーマンが、無言で受け取った。
「では、これで」
私は淑女の礼をした。
「旦那様、リュシー様。良い冬をお過ごしください」
「ああ。長い二年だった」
「左様でございますね」
馬車に乗るとき、ハンナが毛布を何枚も押しつけてきた。
「南は暖かいのに」
「奥様、北の馬車の中は北なんです」
それはそうである。
窓の外で、屋敷が小さくなっていく。
引き継ぎ書は書いた。渡した。読むかどうかは、あちらの自由だ。
私はもう、あの家の女主人ではない。
――ただ、三日目の一頁だけは、誰かが読んでくれればいいと思っていた。
◆
――リュシー・ベルナールの、それからの話をしよう。
最初の一週間は、楽しかった。
広い屋敷、大勢の使用人、暖かい暖炉。ハロルド様は毎晩お酒を召し上がって、リュシーの話に頷いてくださった。
二週目に、雪が降った。
道が閉じた。
ハロルド様は年末の社交に一度王都へ戻るおつもりだった。戻れなくなって、機嫌が悪くなった。
月が変わる頃、家令のノーマンが執務室の扉を叩いた。
「旦那様。薪の支払いの件で」
「払えばいいだろう」
「隣領との共同契約でございます。署名がローデン伯爵夫人となっておりまして、奥様の署名がございませんと」
「……リュシーはまだ夫人ではない」
「では、旦那様の署名で」
「あんなもの、お前がやれ」
「私の署名では、隣領の伯爵が受け付けてくださいません」
ハロルド様は舌打ちして、それきり黙った。
(……なんだか、思っていたのと違う)
リュシーはその夜、退屈だった。
ハロルド様は書斎に籠もり、使用人は雪かきで疲れて早く寝る。
暖炉の前で、リュシーはふと、ノーマンが棚に置いた三冊のことを思い出した。前の奥様の引き継ぎ書――屋敷の者はただ「本」と呼んでいた。
一日目の分は、暖炉の前で一晩かかった。
薪の束の数、肉の樽の数、雪下ろしの賃金、支払いの日付。
読んでいるうちに、リュシーは気がついた。
ノーマンが「奥様の署名が」と言ったあの契約は、一日目の本のはじめのほうに綴じてあった。
今年の薪は二百束で申し込み済み。支払いは十一月の頭。
今日は十一月の二日だった。
「……ノーマン」
翌朝、リュシーは家令を呼び止めた。
「薪の支払い、まだなのよね」
「はい」
「隣領には、なんと?」
「まだ何も。旦那様のご指示がございませんので」
「……この本のとおりにしたら、どうなるの」
ノーマンは、初めてリュシーの顔をまっすぐ見た。
「そのとおりにすれば、この冬は回ります。奥様は、そう書き残されました」
「署名は?」
「支払いの書式が本に綴じてございます。旦那様のご署名で、私が持ってまいります」
リュシーは書式を書斎に持っていった。
ハロルド様は中身を見ずに署名した。
(読まないのね、本当に)
ノーマンは翌日、雪の中を隣領へ行って、伯爵の言い値を満額置いて帰ってきた。
伯爵には少しだけ値切ること――その一行は二日目の本にあって、リュシーはまだ、そこまで読んでいなかった。
二日目の分は、二晩かかった。
使用人の名前を、リュシーは初めて全部覚えた。ハンナの母親が病気なこと。厩番の息子が春に結婚すること。お義父様になるはずの方の、薬の時間。
給金の日、リュシーはノーマンの横に立った。
本には、給金袋を渡す順番まで書いてあった。厩番から始めて、厨房で終わる。侍女頭の名は、列の中にない。
列が終わってから、リュシーは呼んだ。
「ハンナ」
「はい」
「お母様のお薬代は、給金とは別に、ここから出すと書いてあったわ。……合っている?」
ハンナは袋を受け取らずに、リュシーの手元の本を見た。
「奥様がお書きになったのですか」
「二日目の本に」
「…………合っております」
「それから、あなたのお給金は他の人より五日早いって。……お薬のため?」
「はい。母の薬を、月の頭に買いに行きますので」
「今月は、五日遅れたのね」
「…………」
「ごめんなさい。読むのが遅かったの」
リュシーは袋を渡した。
「来月からは、本のとおり五日早くします」
ハンナは袋を受け取って、それから、リュシーに頭を下げた。
(今のは、わたくしに向けてお辞儀をされたのだわ)
王都でも、この屋敷でも、リュシーはずっと頷く側だった。
頷く以外のことをして、頭を下げられたのは、初めてだった。
その数日後、谷の橋が落ちた。
雪の重みで杭が折れたのだと、朝一番に村長が来た。
朝に来た村長は、話が長かった。
ハロルド様は途中で立ち上がった。
「春にやれ。冬に橋など架けられるか」
「ですが旦那様、精肉屋の樽が」
「知らん」
書斎の扉が閉まった。
村長は帽子を握ったまま、玄関ホールに立ち尽くしていた。
リュシーは二日目の本を開いた。
橋のことは、最後の頁にあった。
――『それまでに落ちたら、村の若い衆に仮橋を頼む。一日銀貨二枚。三日で架かる。放っておくと精肉屋が来られなくなる』
「村長」
「……はい」
「若い衆は、何人集まる?」
「六人は」
「一日銀貨二枚。三日で架けてちょうだい。お金はノーマンが払います」
村長がリュシーを見た。ノーマンもリュシーを見た。
二人とも、しばらく何も言わなかった。
「……奥様の本ですか」
「二日目の本よ」
「三日で架かると」
「そう書いてあるわ」
「架けます」
村長は帽子をかぶって、走って帰った。
仮橋は三日で架かった。
精肉屋の樽は、十四樽届いた。
その夜、書斎から呼び出された。
「勝手なことをしたそうだな」
「本のとおりにいたしました」
「あんな本、読む必要はないと言ったはずだ」
「ええ。ですから、ハロルド様はお読みにならなくて結構ですわ」
リュシーは、自分の声が震えていないことに驚いた。
「わたくしが読んで、わたくしがやりました。何かご不都合が?」
ハロルド様は、答えなかった。
その日から、リュシーは相槌の数を減らした。
三日目の分は、一頁だった。
一頁だからと、後回しにしていた。
――『三日目 旦那様のこと』
――『旦那様は冬しか領地にいらっしゃらない。冬の間はご機嫌が悪い。「お前の代わりなど、いくらでもいる」と仰ることがあるが、口癖である。頷いておけばよい。ただし、本気にしないこと。本気にすると、辞めたくなる』
――『ここまで読んだあなたへ。あなたはもう、この屋敷の冬を知っている。それでも辞めたければ、辞めてよい。私は本気にしたので、そうした』
リュシーは一頁を三度読んだ。
それから本を閉じて、書斎の扉を叩いた。
「ハロルド様」
「なんだ」
「わたくし、王都に帰ります」
ハロルド様が顔を上げた。
「……道は閉じている」
「春になったら帰ります。それまでは、この本のとおりにお屋敷を回します。ハンナのお給金を五日早く渡すのも、来月はわたくしがいたします」
「何を言っている」
「代わりは、いくらでもいらっしゃるのでしょう? でしたら、わたくしでなくてもよろしいはずですわ」
ハロルド様は、何か言いかけて、やめた。
その顔を見て、リュシーは思った。
(この方、わたくしの話に頷いていたのではなくて、聞いていなかっただけなのだわ)
二時間頷いていられた令嬢は、頷かずに言い切った。
――春。
道が開いて、リュシーは王都に帰った。
三冊の引き継ぎ書は、ノーマンの机に置いていった。
屋敷は回った。回らなかったのは、ハロルド様の縁談だけだった。
リュシーが王都で「あのお屋敷には、三日で読める本がありますのよ」と話して回ったからだ。
ローデン伯爵に嫁ぐことは、その三冊を読むことだと、王都中の令嬢が知った。
三日目の一頁は、リュシーが暗記していた。
そして聞いた令嬢は、その一頁で必ず、同じ結論に達した。
◆
――さて、私の話に戻ろう。
春、私は南の実家にいた。
末娘が出戻っても、父は「働き手が増えた」と喜ぶ人である。
その父が、ある朝、手紙を二通持って私の部屋に来た。
「北から、お前宛だ」
一通目は、お義父様からだった。
短かった。
――『冬は回った。碁の相手がいない』
それだけだ。
私は返事に「秋に、一局」と書いた。南から北への長旅は、秋がいちばん楽だ。
二通目の差出人は、アルダン伯爵。
薪の相手である。
こちらは倍長かった。
要約すると、こうだ。
十一月の支払いに、ローデン家の家令が来たこと。例年なら支払いの前に届く値切りの手紙が、今年は来なかったこと。家令は満額を置いていったので、二割負けられなかったこと。それはたいへん寂しかったこと。
その家令から、女主人が三冊の本を残して去ったこと、三冊目が一頁であることを聞いたこと。
そして最後に、一枚の紙が同封されていた。
――『アルダン伯爵家 女主人の仕事について』
――『冬のこと:私がやります』
――『人のこと:私がやります』
――『私のこと:一頁で済みます。薪の値段を、毎年少しだけ値切ってください。それだけです』
「…………」
(この方、伯爵のくせに)
引き継ぎ書に、条件を書いてはいけない。
私はそう返事を書いた。
それから、少し考えて、書き足した。
――『薪は、二割ではなく三割負けていただきます』
封をする前に、父が覗き込んだ。
「三割か」
「三割です」
「うちなら四割は取る」
「相手は薪です、お父様」
「相手は伯爵だろう」
父は商人の顔で笑って、封蝋を押した。
「値切られて喜ぶ客は、逃がすな。二度と来ない」
「存じております。北で二年、確かめてまいりました」
返事は五日で来た。
――『負けます。ただし、毎年です』
――『毎年は長うございます』
――『長い分だけ、手紙は短くなります。隣にいれば、書かずに済みますので』
――『引き継ぎ書には、期限も書くものです』
――『期限:なし。私が死ぬまで。それ以後のことは、あなたが書いてください』
その手紙は、初めて一枚で来た。
倍の長さの手紙を書く人が、一枚で済ませたのだ。
(……この方、本気で寂しかったのね)
夏になって、お義父様から二通目が来た。
こちらも短かった。
――『親族会議。屋敷は回っている、と私が言った。回っていないのはお前一人だ、とも言った。ハロルドは黙っていた』
――『私が三日かけて謝った話を、あれは初めて聞いた。碁の相手は、まだいない』
私は返事に「十月に」と書いた。
――お前の代わりなど、いくらでもいる。
そう仰った方がいた。
代わりは、いくらでもいたのだと思う。あの三冊を読めば、誰にでもできる仕事だったのだから。
ただ、私に値切られたがる人は、一人しかいなかった。
この十月には、私は北にいる。
薪の値段を、少しだけ値切るために。
そして、その前に一局。
お義父様には、今度は勝ちにまいります。
(了)
最後まで読んでいただきありがとうございます。
評価とブックマークで応援いただけると執筆の励みになります!




