悪役令息?いらないなら私がもらいます 〜顔と身体が好みだっただけです〜
私はこれまで、自分は恋愛に向いていない人間なのだと思って生きてきた。
正確に言えば、男に興味を持ったことがなかった。
イルマ・ヴァイデンフェルト。
王都でも指折りの権力を持つヴァイデンフェルト公爵家の長女として生まれ、幼い頃から剣と学問と礼儀作法に囲まれて育った。
学園に入ってからも成績は上位。訓練場では男子生徒をねじ伏せ、夜会では壁際で料理を食べる。
周囲の令嬢たちはよく言う。
「ロイド様って、素敵よね」
「私はルース様が……」
「お二人とも将来有望だし、顔もいいし」
そんな話を聞くたびに、私は曖昧に頷いてきた。
顔がいい? そうかもしれない。
背が高い? 確かに。
将来有望? 知らない。
彼らを見ても心が動いたことは一度もなかった。そんな話題に馴染めない自分にも、薄々気付いていた。
だから私は思っていたのだ。
自分はきっと、そういう感情が薄い人間なのだと。
――その考えが、いかに浅はかだったか。
王立学園の中庭で、私は知ることになる。
ある日の昼休み。
風の通る中庭の片隅で、少しだけ人だかりができていた。
中心にいたのは、一人の男。
背が高い。
無駄のない体躯。
立っているだけで、空気が引き締まる。
そして、顔。
冷たい印象の切れ長の目。
すっと通った鼻筋。
感情が読めない、不機嫌そうな口元。
――あ。
その瞬間、胸の奥がどくん、と鳴った。
……え?
意味がわからなかった。
心臓が早く打つ。
視線が外せない。
思考が、止まる。
なに、これ……なにが起きてるの。
私の視界の中心には、ただその男だけがいた。
後で知ったが、彼の名はアクサル・ライゾック。
名門侯爵家の令息で、成績優秀、剣技も一流。
そして――性格が最悪だと噂されている人物。
ちょうどその「最悪」な部分を、彼は披露していた。
「……君は本当に要領が悪いな」
低く、よく通る声。
彼の前に立っているのは、金色の髪をした少女だった。
華奢で可憐で、学園でも目立つ存在。
アクサルの婚約者――ヒロエナ・リイン。
ヒロエナは唇を噛みしめ、俯いた。
「……申し訳ありません。私、努力します」
声が、わずかに震えている。
周囲の生徒たちがざわめいた。
「ひどい……」
「さすがライゾック卿……」
「可哀想だ」
「ヒロエナ嬢はいつも彼の前だと悲しそうな顔をする」
「他の人の前では、とても素敵な笑顔なのに」
非難の視線が、アクサルに向けられる。
――普通なら。
普通なら、私はここで立ち去っていただろう。誰かの婚約事情に首を突っ込む趣味はない。
だが。
私は、目を逸らせなかった。
視線は勝手にアクサルを追う。
制服の上からでもわかる肩の厚み。
腕の筋が、わずかに動くのが見えた。
……待って。なんで、こんなに。
胸が、うるさい。
この人の顔も、身体も――
めちゃくちゃ好みなんだが!
その認識が、雷のように落ちた。
青天の霹靂、とはこのことだ。
私は人生で初めて理解した。
これが「恋」なのかはわからない。
でも、確実に言える。
――欲しい。
この顔と、この身体。
絶対、手に入れてやる。
気づいた時には、私は歩き出していた。
人だかりを割って、二人の前に立つ。周囲の視線が一斉に集まるのを感じるが、気にならない。
アクサル・ライゾックはヒロエナの手首を強く握っていた。
私は思わず、彼の手をヒロエナの手首からはらいのける。
パシン、と乾いた音が広がった。
ヒロエナは一瞬、救われたような表情をしたが、私の顔を見て困惑した。
まあ、そんなことはどうでもいい。
私は逆に、アクサルの手首を強く握る。
うん。しっかりしていて、いい腕だ。
身長は思った以上に大きい。
視線が合った瞬間、彼がわずかに目を見開いた。
私の口からは素直な言葉が溢れ落ちていた。
「ねぇ」
場違いなほど、明るい声だった。
「この人、いらないの?」
中庭の空気が、ぴたりと止まった。
ヒロエナは目を見開き、驚愕の表情を浮かべる。
アクサルは明らかに戸惑って手を引こうとしたが、私は離すつもりはない。
私は続けた。
「いらないなら、私がもらっていい?」
そして、今の自分の気持ちを正直に言った。
「顔と身体が、すごく好みなんだけど」
ヒロエナが慌てて声を上げる。
「えっ!? ち、ちょっと待ってください!
この方は、私の婚約者で……!」
婚約者。
なるほど。
私は首を傾げた。
「え、でも」
ヒロエナの目を見て、率直に言う。
「さっき、嫌そうだったよね?」
「……え?」
「泣きそうだったし。
彼に話しかけられるたびに震えてたじゃない。
普通に嫌なんじゃないの?」
ヒロエナの表情が、一瞬だけ固まった。
アクサルからも動揺が伝わってくる。
アクサルが口を開いた。
「俺は……」
だが、その言葉は遮られた。
「い、いえ! 家の都合もありますし……!」
家の都合。なるほど。
それにしても、さっきまで震えていたのが嘘みたいに勢いがいい。
「ああ、そういうことね」
ぽん、と手を叩く。
「じゃあ大丈夫!」
二人が同時にこちらを見る。
「うちの父、公爵なんだけど。
王様ともかなり仲いいし、そっちから話してもらうよ」
「「……え?」」
声が、綺麗に重なった。
私は満足した。
うんうん。これで問題解決だよね。
ヒロエナが何か叫んでいる。聞き取れたのは「それだと――」までだったけれど、正直よくわからないので流した。
私は、アクサル・ライゾックの腕を改めて掴んだ。
表面は硬そうだが、触れると軟らかさが伝わる。
内心で小さく頷く。
うん、とっても良い。いい筋肉だ。
こうして私は、人生で初めて恋をして、人生で初めて誰かを奪ったのだった。
その日、私はそのままアクサル・ライゾックを連れて帰った。
攫ったわけではない。
拉致でもない。
話し合いのための“同行”である。
「……なぜ俺は、お前の屋敷に向かっている」
馬車の中で、アクサルが低い声で言った。窓の外を見ているが、落ち着きがない。
「話し合うって言ったでしょ」
「誰が同意した」
「私」
即答すると、アクサルは黙った。
納得していない顔だ。でも、拒否もしていない。
意外と素直だな。
そんなことを考えながら、私は彼を観察していた。
正面から見ると、やはり完成度が高い。顔立ちも骨格も体格も。
――性格は、まあ。
「さっきの件だが」
アクサルが、少し硬い声で言う。
「俺は、ああいう言い方しかできないだけで……」
「うん」
「……嫌っているわけではない」
「うん」
私は素直に頷いた。
アクサルは拍子抜けしたようにこちらを見る。
「……信じるのか」
「うん。だって」
私は首を傾げる。
「態度はあれだけど、目が優しかったし。
彼女の手を掴む手も、思ったより乱暴じゃなかった」
アクサルは言葉を失った。
「……」
「それに」
私は続ける。
「彼女が泣きそうな顔をした時、むしろ君のほうが泣き出すのかと思ったよ」
彼は驚きに目を見開いた。
強い立場にいる人間は、弱い立場の感情を軽視しやすい。私はそれを良くないと思っている。
でも、彼は態度はあれでも、節々に彼女への思いが滲んでいる気がした。態度はあれだけど。
アクサルは、しばらく沈黙した後、ぽつりと言った。
「……あいつは」
「うん?」
「俺を、必要としていないように見える」
その言葉は思ったより静かだった。
怒りでも苛立ちでもなく、諦めに近い声音。
私の胸の奥が、少しだけざわついた。
それは、結構きついな。
「いつも、俺を通して他の誰かを見ている。
……だから、婚約を解消するのも悪くないのかもしれない」
きっとこれは、ずっと抱え続けてきた気持ちの吐露だ。
私は、少し安心した。
無理矢理連れてきた自覚はあるが、思いのほか前向きだな。
「ところで、聞きたいことがある」
私は足を組み直し、彼に向き直った。改まった態度に、彼も少し背筋を伸ばす。
「君の、名前は?」
鳩が豆鉄砲を食らうって、こんな表情のことかな。
公爵邸に着くと、話は驚くほど早く進んだ。
父は事情を聞くなり、少しだけ眉を上げただけで、深くは聞かなかった。
「……なるほど。本人たちの意思が噛み合っていない婚約か。まあ、正直よくある話だが」
落ち着いた声で、そう言う。
「王家にも話を通そう。無理に続ける理由はない」
父は一瞬だけ、私の顔を見て、にやりとした。
「それに何より、イルマが望んでるんだもんな」
嫌な予感がした。
「イルマのためにもパパ頑張る!
でも、パパと結婚するって言ってたのはどうなったのかな!?
パパまだ期待してていいのかな!?」
「うん。さすが父様、頼りになるね。頼んだよ。
ちなみに父様とは結婚しない」
その日のうちに王家の使者が動き、翌日には侯爵家にも正式な連絡が行った。
――婚約は、円満に解消された。
あまりにも、あっさり。
私は紅茶を飲みながら、満足げに息をつく。
「……さすが父様、仕事が早い」
「うんうん。父様頑張ったから、週末イルマちゃんとお出かけしたいな」
父はニコニコしている。
ちなみに父は「国の番人」「王の懐刀」「魔王」などと言われ、国の重鎮からも恐れられている。
「うん。行かない」
私は父の提案を却下した。
アクサルは応接室の端で、落ち着かない様子だった。
そりゃ、見ちゃいけないものを見た気分だよね。
事が終わり、使者たちが去った後、彼は私の方を見て低く言った。
「……何で、俺なんだ?」
その問いに、私は少し考える。
理由は、ひとつだ。
「顔と身体が好みだったから」
アクサルは完全に固まった。
「……それだけか」
「うん」
即答。
「それだけで、婚約を壊すのか」
「壊したっていうより」
私は首を傾げる。
「合わないものを外しただけでしょ?」
アクサルは何も言えなくなった。
彼もどこかで、この婚約を続けて良いのか悩んでいたのだろう。話していて、それはなんとなく伝わってきた。
「それに」
私は少しだけ声を落とす。
「人生で初めてなんだ。
人を見て、“欲しい”って思ったの」
彼の視線がこちらに向く。
困惑と警戒と、ほんの少しの動揺。
「……変な女だな」
「よく言われる」
私は笑った。
その頃。王立学園の一室で。
「……違う」
ヒロエナ・リインは、机を強く握りしめていた。
「違う違う違う……今じゃない……!」
婚約解消。
断罪イベント消失。
物語の導線、全崩壊。
悪役令息が必要なの。彼がいないと、私は守られる側になれない!
まだ、まだ始まってもいないのに……!
彼女の中で“知っているはずの物語”が、音を立てて崩れていく。
あの女! あの女が!
……もしかして、あの女も同類なの?
だが、その原因となった女――イルマ・ヴァイデンフェルトは、そんなことを知る由もなかった。
彼女はただ、人生で初めて手に入れた「気になる男」を、どう扱えばいいのかひたすら考えていた。
婚約が解消されてから、アクサル・ライゾックはしばらく公爵邸に滞在することになった。
別に幽閉しているわけではない。本人が「……一旦、頭を整理したい」と言ったからだ。
私はそれを、考えるならうちでもできるし、うちでいいよね、と解釈した。
結果、私とアクサルの距離は急速に縮まった。
――物理的に。
「……なぜ、そんなに近い」
朝、廊下ですれ違っただけなのに、アクサルが眉をひそめる。
「近い?」
私は不思議そうに首を傾げた。
「普通じゃない?」
「近い」
そう言って一歩下がるが、私は一歩詰める。
別に意味はない。近くで見ると顔がいいからだ。
「やっぱり近くで見ると完成度高いね」
「……何の話だ」
「骨格」
私は真顔で言った。
「肩の位置もいいし、首も長い。
剣を振るための身体って感じ」
アクサルが言葉に詰まる。
「……お前は、いつもそうだな」
「そう?」
「人の外見を、平然と褒める」
「事実だから」
私はあっさり言った。
「顔もいいし、身体もいいし。
隠す理由ある?」
アクサルは、わずかに耳を赤くした。
「もし、俺の顔が醜くなったらどうする」
「別に。骨格も好きだから」
「なら、俺の身体が衰えたらどうする」
「別に。声も好きだから」
そう答えてから、彼は深く問いただしてこなくなった。
それからの日々は、だいたいそんな感じだった。
「今日の訓練、動き良かったね」
「……見ていたのか」
「うん。背中が綺麗だった」
「……背中?」
「筋の入り方がいい」
――沈黙。
「……お前は、褒め方というものを知らないのか」
「えっ? 褒めてるよ。めっちゃ褒めてる」
「そういう問題じゃない……」
アクサルは頭を抱えた。
どうやら、彼は“褒められる”という行為に慣れていないらしい。
周囲からは恐れられ、距離を置かれ、評価されるときは成績や成果ばかり。
外見を、しかも真顔で毎日褒められる経験などなかったのだろう。
――それが、積み重なった結果。
「……お前」
ある日の夕方、訓練場の壁際で、アクサルが低い声で言った。
「そんなに俺のことが好きなら……」
私は反射的に姿勢を正した。
「なら、こういうのはどうだ」
次の瞬間、背中に衝撃。
壁だ。
アクサルの腕が、私の横に突き出される。
――壁ドン。
なるほど。噂には聞いていたが、これがそうか。
距離が一気に縮まる。彼の体温。視線の近さ。
アクサルは少しだけ勝ち誇ったように言った。
「毎日好き勝手に褒めて……
覚悟はあるんだろうな?」
私は瞬きをした。
「……え?」
覚悟? なにの?
「……いいの?」
素直な疑問だった。
アクサルは一瞬、言葉に詰まった。
「なにが」
「キス」
私は率直に言う。
「いいの?
しちゃったら、逃がす気なくなるよ」
アクサルの目が揺れた。
――あれ?
「逃がす気、あったのか?」
彼の口から、どこか寂しそうな問いが漏れた。
え、可愛い。逃がしてほしくなかったの?
私は軽く体を捻り、アクサルの腕を外し、そのまま壁に押し付けた。
――逆壁ドン。
「え」
今度はアクサルの方が壁に背をつける。
私は一歩詰めて、彼を見上げた。
「逃がす気ない。全然ない」
静かに言う。
「だって、顔と身体が好みだし。
最近は貴方の発言も表情も、とっても可愛く見えて、たまんない」
逃げ道はない。
距離もない。
私はそのまま――唇に触れた。
一瞬。
ほんの一瞬、触れただけ。
それなのに、アクサルの身体がはっきりと震えた。
彼の目が大きく見開かれる。
「……っ」
息を呑む音。
私は彼の首に手を回し、耳元で問いかける。
「……嫌だった?」
そう聞くと、アクサルは信じられないものを見るような目で私を見た。
「……お前は」
声が掠れている。
「……危険だ」
「そう?」
「自覚がないのが、一番危険だ」
そして、ゆっくり視線を逸らす。
「……責任を、取らせるぞ」
心臓がどくん、と鳴った。
責任? うん。いくらでも。
自然と口元が笑う。
私は先ほどより少し長い口づけを、アクサルに贈った。
その夜。別の場所で。
「なんでよ!」
誰も庇ってくれない。
誰も口説いてこない。
好感度が上がる気配もない。
原因は、はっきりしていた。
アクサル・ライゾックが、いない。
――断罪役が消えた。
――物語の起点が消えた。
ヒロエナ・リインは机に突っ伏していた。
「断罪もない……
好感度イベントも発生しない……」
彼女の知っている“物語”は、もう、どこにもなかった。
親に「こんな婚約破棄はひどい!」と訴えても、
――あなた、アクサルさんのことを怖がってたじゃない。喜びなさい。
そう返されて終わった。
違うの。あの人が断罪されないと、私は……!
心の中で叫んでも、誰にも届かない。
ヒロエナは先の見えない暗闇の中、一人取り残された。
この頃私は、人生で初めて「誰かに恋をされる」という事態に直面していた。
――顔と身体が好みなだけ、だったはずなのに。
それからのことを、私は「自然な流れ」だと思っている。
アクサル・ライゾックは公爵邸を出ることなく、しばらく滞在を続けた。
一度帰らなくて良いのかと聞くと、
「……責任を取ると言っただろ」
と真顔で返された。
うんうん。取る。責任くらい、いくらでも取る。
朝は一緒に食事をして、
昼はそれぞれ訓練や仕事をして、
夕方には同じ場所で剣を振る。
私は相変わらず、思ったことをそのまま口にした。
「今日も顔がいいね」
「……言うな」
「筋肉もいい」
「だから言うな」
「声も低くて落ち着く」
「……やめろ」
そう言いながら、アクサルは逃げない。
それが答えなのだと思った。
正式に「恋人」だとか「婚約」だとか、そういう言葉は使っていない。
けれど、距離は自然と近くなった。
ある日、父に呼ばれた。
「……アクサル・ライゾックについてだが」
私は姿勢を正す。
「私、責任取らなきゃだから」
父は少しだけ目を細めた。
「そうか」
……あれ? 父様、泣いてる?
それ以上、父は何も言わなかった。
夕暮れの庭で、アクサルと並んで椅子に腰掛ける。
「なぁ、イルマ」
彼が珍しく真面目な声で言った。
「俺は……お前に選ばれたのが、初めてだ」
私は少し考えてから答えた。
「私も初めてだ」
「なにがだ」
「だれかに夢中になるの」
率直に言う。
「今まで、なかったから」
アクサルはしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐いた。
「……なら、光栄だな」
彼は私の手を取る。
指が絡む。温かい。
「今度は、俺が選ぶ番だ」
そして、静かに微笑った。
――初めて見る表情だった。
私は思った。
格好つけようと頑張る彼は、特に可愛い。
そして、
悪役令息は断罪されず、
前世持ちヒロインは攻略に失敗し、
何も知らないイルマは満足した。
――ハッピーエンドである。




