最終章:僕たちの雨上がり
1.十字架を背負う少年
スクランブル交差点の中央。
時間が凍りついたかのような静寂の中、激しい雨音だけが響いている。
四人の大人たち――医師、ピアニスト、元刑事、主婦――は、呆然と中心に立つ少年を見つめていた。
天野カケル。二十一歳。
彼の手にある拳銃は、震えることなく四人の誰かを狙っていた。いや、世界そのものを狙っているようだった。
「……思い出さないか?」
カケルの声は、雨音に負けないほど鋭く、彼らの鼓膜を揺らした。
「あんたたちが『不幸な過去』を捨てて、この世界を選んだ瞬間から、俺の人生の灯は一つずつ消えていったんだ」
カケルは銃口を堂島亮介に向けた。
「あんたが奥さんの手術から逃げて、愛に溺れたせいで。小児病棟への寄付は打ち切られた。俺の心臓の手術費は消えた。俺は退院できず、学校にも戻れず、未来を閉ざされた」
次に、一ノ瀬ミナへ。
「あんたが路地裏を避けて、栄光のピアニストになったせいで。あのアパートの窓辺で俺が聴いていた、唯一の『魔法』は消えた。俺の心は乾ききって、美しいものを信じられなくなった」
そして、工藤剛志へ。
「あんたが自分の足惜しさに、兄貴の組織を放置したせいで。俺は兄貴に引きずり込まれた。あのカツ丼の味も、あんたが教えてくれた『更生』の道も、全部嘘になった」
最後に、佐伯美代子へ。
「あんたが死ぬはずの息子を生き返らせて、あの家に閉じこもったせいで。子ども食堂は潰れた。俺が飢えと寒さを凌げる場所はなくなった。あのおにぎりの温かさが消えて、俺は盗みを働くしかなくなったんだ!」
カケルは叫んだ。
その目から流れているのは、雨なのか涙なのかわからなかった。
「あんたたちの『幸せ』は、俺の『席』を奪って成り立ってるんだよ! 返せよ……俺の、最低でもマシだったあの人生を返せよ!」
2.代償の重さ
四人は言葉を失った。
自分たちの不幸は、ただの不幸ではなかった。
誰かの傘になり、誰かの糧になり、誰かの命を支えていたのだ。
「神様は不公平だ」と嘆いていた彼らの苦しみ(ドラマ)は、巡り巡って、この孤独な少年の命綱になっていた。
堂島が膝をついた。
「……俺は、知らなかった。俺の手が、君を……」
ミナが顔を覆った。
「私の音が……あなたを支えていたなんて……」
工藤が歯を食いしばった。
「俺は自分の足と引き換えに、未来あるガキを悪党にしちまったのか……」
美代子が包丁を落とした。カラン、と乾いた音がアスファルトに響く。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
その時、信号機の上に座っていた黄色いレインコートの少年――レイが飛び降りた。
水しぶきと共に、彼はカケルの横に立った。
「さあ、どうする?」
レイは四人に向かって、四つの砂時計を差し出した。
その砂は、残りわずかだ。
「このままこの世界を続ければ、君たちは生きていける。ただし、カケルくんはここで警官隊に射殺され、君たちの地獄も続く」
レイは砂時計を振った。
「でも、これを壊せば元通り。君たちは、あの『悲劇の日』に戻る。
堂島は妻を殺し、ミナは手を砕かれ、工藤は足を失い、美代子は息子を失う」
レイは残酷な笑みを浮かべた。
「その代わり、カケルくんの運命も元に戻る。彼は苦労するだろうけど、テロリストにはならない。手術を受け、音楽に励まされ、カツ丼を食い、おにぎりを貰って生き延びる」
「選んで。自分の幸せか、この少年の未来か」
3.砕かれるガラス
迷いはなかった。
彼らはもう、十分に味わったのだ。
「自分本位の幸せ」が、どれほど空虚で、腐敗した臭いを放つかを。
堂島亮介が立ち上がった。
「妻は言っていた。『自分を責めないで』と。……俺はあいつの死を受け入れ、その悲しみを背負って、多くの命を救うべきだったんだ」
彼は手を伸ばし、砂時計を掴んだ。
一ノ瀬ミナが包帯を解いた。
「完璧な演奏なんていらない。ミスタッチだらけでも、誰かの心に届くなら……私はその手で生きていく」
彼女も砂時計を握った。
工藤剛志が松葉杖を捨てた。
「足なんざくれてやる。それで相棒が一人前の刑事になれて、お前がまともな大人になれるなら、安いもんだ」
彼も続いた。
そして――。
車のドアが乱暴に開き、巨体が雨の中に転がり出てきた。
「おいババア! いつまで待たせんだよ! ハンバーグ食わせろっつってんだろ!」
達也だ。
彼はカケルが突きつけている拳銃も、周囲の異様な雰囲気も目に入っていない。ただ食欲と不快感だけを訴え、地団駄を踏んで水しぶきを上げている。
三十五歳の体を持った、五歳の子供。
それが、美代子が三十年かけて作り上げた「愛の結晶」の姿だった。
「……達也」
美代子は歩み寄り、ずぶ濡れの息子を見上げた。
腐臭と雨の匂い。
美代子は、泥だらけの息子の手を握った。その手は温かい。あの日、トラックの前で握りしめた小さな手と同じ温度だ。
けれど、この温もりが、他の誰かの未来を凍えさせていたのだ。
「飯だ飯だ飯だァ!!」
喚き散らす達也。
美代子は、震える腕でその太い腰に抱きついた。
「ごめんね、達也。……怪物にしてしまって、ごめんね」
美代子の涙が、達也の汚れたTシャツを濡らす。
その必死の抱擁に、達也の暴れる手がふと止まった。濁った瞳が一瞬だけ揺らぎ、彼は幼子のような顔で母親を見下ろした。
「……ママ?」
「悪い夢はもうおしまい。向こうの世界で、ずっと愛しているわ」
美代子は達也から離れ、最後の砂時計を手に取った。
四人の視線が合う。
そして、カケルを見た。
彼はもう銃を下ろしていた。憑き物が落ちたような、不思議な表情で彼らを見つめている。
「ありがとう、少年」
堂島が言った。
「君が、俺たちを人間に戻してくれた」
四人は同時に、砂時計を地面に叩きつけた。
パリーン!
ガラスが砕ける音。
その瞬間、世界中の雨粒が空中で静止した。
「ママーーーッ!!」
達也の絶叫が響く。
だが、その声は徐々に高く、幼いものへと変わっていき――景色と共に渦の中へ消えていった。
逆再生が始まる。
交差点が消え、炎が消え、傷が消え――。
4.エピローグ:雨上がりのカノン
――ピッ、ピッ、ピッ。
心電図の音が響く。
「ご臨終です」
堂島亮介は、手術台の冷たくなった妻の手を握りしめていた。
涙が止まらない。喪失感で体が引き裂かれそうだ。
だが、不思議と心は澄んでいた。
(生きよう。お前の分まで。そして、救える命をすべて救う)
彼はその日、小児心臓血管外科への多額の寄付を申し出た。
――路地裏の激痛。
一ノ瀬ミナは、砕かれた左手を抱えてうずくまっていた。
ピアニストの夢は絶たれた。
だが、病院のベッドで彼女は思った。
(ピアノ教室でも開こうかな。……近所の子供たちに、音楽の楽しさを教えるような)
窓の外の雨音は、もう怖くなかった。
――爆炎と熱風。
工藤剛志は両足の感覚を失い、担架で運ばれていた。
横では、煤だらけの笹原が泣きながら彼の手を握っている。
「工藤さん! 工藤さん!」
(泣くなバカ野郎。……あとは任せたぞ)
工藤は薄れゆく意識の中で、安堵の笑みを浮かべた。
――蝉時雨の交差点。
佐伯美代子は、小さな骨壺を抱いていた。
悲しみは消えない。一生消えないだろう。
けれど、家に帰れば「子ども食堂」の準備が待っている。
(お腹を空かせた子がいる。……あの子たちの中に、達也の面影を見つけよう)
***
そして、数年後。
ある晴れた日の午後。
街角の小さな公園で、フリーマーケットが開かれていた。
片足を引きずりながら、楽しそうにピアノ教室のチラシを配る女性。
車椅子に乗り、立派になった部下の刑事と談笑する男(工藤)。
手作りの弁当を広げ、子供たちに振る舞う老婆(美代子)。
そして、通りがかった白衣の医師(堂島)が、足を止めてその光景を眺めている。
彼らに「あの雨の日」の記憶はない。
自分たちが一度人生をやり直し、そして捨てたことなど覚えていない。
だが、彼らの視線の先には、一人の青年がいた。
天野カケル。
彼は建設作業員の作業着を着て、汗を拭いながら歩いていた。
胸には心臓手術の痕があり、その顔には生きる逞しさが宿っている。
彼は美代子の店先で足を止め、おにぎりを一つ買った。
「いただきます!」
大きな口で頬張る。
その笑顔を見た瞬間、四人の胸に、理由のわからない温かい電流が走った。
懐かしいような、切ないような、そして誇らしいような気持ち。
空を見上げると、大きな虹がかかっていた。
ビルの屋上の給水塔には、黄色いレインコートの少年が座り、満足そうに足をぶらつかせている。
彼はもう、砂時計を持っていない。
「いい雨上がりだね」
レイの呟きは風に溶け、誰の耳にも届くことなく、青空へと吸い込まれていった。
(全編完)
これにて、『雨降らしの少年と、神様の悪戯』全5章の物語が完結いたしました。
【物語の軌跡】
1. 堂島亮介: 愛のためにメスを置いたが、愛に見放された医師。
2. 一ノ瀬ミナ: 栄光を手に入れたが、魂の音を失ったピアニスト。
3. 工藤剛志: 足を取り戻したが、相棒と少年を失った刑事。
4. 佐伯美代子: 息子を生かしたが、怪物を育ててしまった母。
5. 天野カケル: 彼らの「犠牲」によって生かされていた少年。
それぞれの「If」を描きながら、最終的には**「現在の痛みや苦しみにも、誰かを救う意味があるかもしれない」**というテーマに着地させることができました。
ドラマチックな展開と、伏線の回収、そして情景描写(特に雨)を楽しんでいただけたなら幸いです。
長編の執筆にお付き合いいただき、本当にありがとうございました!
また何か別の物語を紡ぐ際は、いつでもお声がけください。




