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第4章:腐った食卓と、二階の怪物(後編)

4.豚の餌

 美代子が盆を持って部屋に入ると、腐臭が鼻をついた。

 コンビニ弁当の空き容器、ティッシュの山、飲みかけのペットボトル。それらが地層のように床を埋め尽くしている。

 部屋の中央、カーテンを閉め切った暗闇の中で、達也は青白いモニターの光を浴びていた。

「……ご飯よ、達也」

 美代子は小声で言い、盆を机の端に置こうとした。

 その時だった。

 ガシャーン!

 達也が腕を振り回し、盆を払いのけた。

 カツ丼が宙を舞い、床のゴミの上にぶちまけられる。卵とじの黄色が、汚れたカーペットに染み込んでいく。

「おせぇんだよババア!」

 達也が振り返った。

 脂ぎった髪、無精髭、そして充血した目。

 かつて美代子が命がけで守った愛らしい瞳は、いまや憎悪と欲望だけを映す濁ったレンズになっていた。

「腹減ってイライラしてんだよ! もっと早く持ってこい!」

「ご、ごめんなさい……でも、揚げ物をするには時間が……」

「言い訳すんな!」

 ドカッ。

 達也の蹴りが、美代子の腹に入った。

 老婆のように小さくなった体が、ゴミの山に吹き飛ばされる。

「うっ……」

 激痛。呼吸ができない。

 だが、体の痛みよりも、心の痛みが美代子を引き裂いた。

 達也は床に散らばったカツを拾い上げ、口に放り込んだ。

 咀嚼そしゃく音。クチャクチャと、汚らしい音を立てて食べる。

 まるで家畜だ。

 私が育てたのは、人間じゃない。ただ飯を食い、排泄し、暴力を振るうだけの肉の塊だ。

 ふと、美代子の脳裏に、あの雨の日の記憶が蘇った。

 『うめぇ……あったけぇよ……』

 ただの塩むすびを、涙を流して食べた少年・カケル。

 彼は礼儀正しかった。感謝を知っていた。生きることの痛みを知っていた。

 どうして。

 どうして私は、あの子を切り捨てて、こっち(怪物)を選んでしまったのだろう。

「おい、水!」

 達也が叫ぶ。

 美代子はよろよろと立ち上がった。

 その目からは、もう涙も枯れ果てていた。

5.雨漏りと子守唄

 一階の台所。

 美代子はシンクに手をついて震えていた。

 外は相変わらずの豪雨だ。

 古い家は悲鳴を上げている。天井の染みから、ポタン、ポタンと雨漏りがしていた。

 床に置いたバケツに、水滴が落ちる。

 そのリズムが、奇妙なメロディに聞こえてきた。

 昔、達也によく歌ってあげた子守唄だ。

 ねんねん、ころりよ、おころりよ……

 幻聴だ。

 美代子は包丁立てを見つめた。

 鋭く研がれた出刃包丁。

 

 (私が、終わらせなきゃ)

 囁くような声が頭の中で響く。

 この怪物を生み出したのは私だ。私が彼から「自立」を奪い、「挫折」を奪い、「成長」を奪った。

 過保護という名の虐待。

 三十年間、私は彼を殺し続けてきたのと同じだ。

 ならば、せめて肉体も滅ぼしてやることが、母親としての最後の責任おとしまえではないか?

 美代子の手が、包丁の柄を握った。

 冷たい感触が、熱を持った手に心地よい。

 カツカツカツ……。

 二階から、また達也が暴れる音がする。

 美代子は包丁を抜き放った。

 殺そう。

 そして私も死のう。

 それが、この呪われた家から解放される唯一の方法だ。

6.終わりの場所へ

 美代子が階段に足をかけた時だった。

 玄関のチャイムも鳴らさず、濡れたレインコートの少年が廊下に立っていた。

「お料理中?」

 レイは、美代子の手にある包丁を見ても動じない。

「でも、ここでやっちゃダメだよ。血の掃除が大変だからね」

「……めないで」

 美代子は虚ろな目で言った。

「私は間違っていたの。あの子を助けた時、私はあの子の『人生』を助けたつもりだった。でも違った。私はあの子を『私の所有物』にしてしまっただけだった」

「その通りだね」

 レイはクスクスと笑った。

「君の愛は重すぎた。砂糖を入れすぎたケーキみたいに、彼を腐らせてしまった」

 レイは外を指差した。

「連れて行こうよ。ここじゃない、もっと広い場所へ。三十年前に、君が運命をねじ曲げた『あの交差点』へ」

 美代子はハッとした。

 交差点。すべての始まりの場所。

 あそこで達也を突き飛ばせば、あるいは刺し違えれば、元の歴史に戻るのだろうか。

 いや、戻らなくていい。ただ、終わらせたい。

「……そうね」

 美代子は二階を見上げた。

「達也! 達也、ちょっと来なさい!」

 美代子の声には、今までにない凄味すごみがあった。

 二階のドアが開き、不機嫌そうな達也が顔を出した。

「あぁ? なんだよクソババア」

「……ドライブに行きましょう。あんたの好きな、ハンバーグを食べに行こう」

「はあ? こんな雨の中かよ」

 達也は舌打ちしたが、食い意地には勝てなかったのだろう。ドスドスと階段を降りてきた。

 その巨体が美代子の横を通り過ぎる時、彼女は背中に隠した包丁を強く握りしめた。

7.四つの絶望が集う

 車の中は無言だった。

 達也は助手席でスマホをいじり、美代子は無表情でハンドルを握る。

 ワイパーが激しく動く。

 行き先は、レストランではない。

 都心にある、あの巨大なスクランブル交差点だ。

 (ごめんね、達也。ごめんね、カケルくん)

 美代子は心の中で謝罪した。

 私が達也を生かしたせいで、カケルくんは居場所を失った。子ども食堂がなくなったせいで、彼は路頭に迷い、犯罪に手を染めたと風の噂で聞いた。

 私のエゴが、二人の少年の未来を食い潰したのだ。

 前方に、交差点の信号が見えてきた。

 赤信号。

 だが、美代子はブレーキを踏むつもりはなかった。

 このまま突っ込めば、すべてが終わる。

 しかし、その時。

 交差点の四方から、奇妙な引力に導かれるように、それぞれの人影が現れた。

 喪服を着て、虚空を見つめる外科医・堂島亮介。

 包帯で砕けた手を隠し、ふらふらと歩く元ピアニスト・一ノ瀬ミナ。

 全身に包帯を巻き、松葉杖をついて現れた焼けただれた元刑事・工藤剛志。

 そして、美代子の車の前に立ちはだかるように現れたのは、

 レイの導きではなく、自らの意志でそこに立った、

 拳銃を手にしたテロリスト――天野カケルだった。

 キキキーーーーーッ!!

 美代子は反射的にブレーキを踏んだ。

 車はスピンし、交差点の中央で停止した。

 雨が全てを包み込む中、四人の「改変者」と、一人の「被害者」が対峙する。

 最後の審判の時が来たのだ。

(第4章 完)

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