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第4章:腐った食卓と、二階の怪物(前編)

1.塩むすびの温もり

 佐伯美代子さえき みよこの人生は、三十年前に止まった時計のようなものだった。

 一人息子を交通事故で亡くして以来、彼女の時間は「余生」でしかなかった。

 そんな彼女が唯一、息ができる場所。

 それが、週に一度公民館で開く「こども食堂・ひまわり」だった。

 外は梅雨の長雨が続いている。

 湿った空気の中、カレーの匂いが漂う。

「おばちゃん、おかわり!」

「はいはい、たくさん食べなさいね」

 子供たちの喧騒。それが美代子にとっての鎮魂歌だった。

 閉館間際、引き戸がガラリと開いた。

 雨の吹き込む入り口に、一人の少年が立っていた。

 カケルだ。

 当時十五歳。家出をして、もう三日も何も食べていない。濡れた犬のように震え、目は虚ろだった。

 年齢制限ギリギリだが、美代子は何も聞かずに手招きした。

「いらっしゃい。ちょうど、ご飯が余ってたのよ」

 カレーはもう鍋底に残っているだけだった。美代子は急いで大きなおにぎりを握った。具なんてない。ただの塩むすびだ。でも、愛情だけは込めた。

 テーブルに置かれたそれを、カケルはむさぼり食った。

 一つ、二つ、三つ。

 喉に詰まらせそうになりながら、涙と鼻水を流しながら食べた。

「……うめぇ……」

 カケルが絞り出した声。

「あったけぇよ……」

 美代子は、少年の痩せた背中をさすった。

 その背骨の感触が、亡き息子・達也たつやと重なった。

 生きていれば、これくらいの年頃だっただろうか。

「また来なさい。お腹が空いたら、いつでもおいで」

 美代子は帰り際、息子が着ていた古いウィンドブレーカーを持たせた。

「風邪ひかないでね」

 カケルは深々と頭を下げて、雨の中へ消えていった。

 この「塩むすび」と「古着」がなければ、彼はその夜の寒さを越せなかったかもしれない。そして何より、「大人は敵だけじゃない」という小さな希望が、彼を犯罪の淵で踏みとどまらせていたのだ。

2.母の日の奇跡

 だが、そんな小さな善意の積み重ねも、巨大な喪失感の前では無力だった。

 息子の命日。

 美代子は仏壇の前で泣き崩れていた。

 三十年経っても、悲しみは癒えない。あの日、手を離さなければ。あの日、買い物に行かなければ。

 後悔が、呪いのように彼女を蝕む。

「お母さん」

 背後から声がした。

 振り返ると、黄色いレインコートを着た少年が、座布団の上に座っていた。

「そんなに泣かないで。雨が止まないよ」

 レイだ。

 彼は仏壇の遺影――笑顔の達也(五歳)の写真を見つめ、言った。

「いい子そうだね。……ねえお母さん、もう一度やり直したくない?」

「え……?」

「その子が大人になる姿、見たくない? 制服を着て、恋をして、結婚して……そんな当たり前の未来を」

 美代子の喉が鳴った。

 見たい。死ぬほど見たい。

 自分の命と引き換えにしてでも。

「でも、代償がいるよ」

 レイは冷ややかに告げる。

「君のその『溢れる愛情』を、すべてその子一人に注ぐことになる。他の誰にも分け与えられなくなる。それでもいい?」

 子ども食堂の子供たちの顔が浮かんだ。あの雨の日の少年の顔も。

 でも、即答した。

「構わないわ。達也さえ……達也さえ生きていてくれれば、私は他に何もいらない!」

 レイは砂時計を渡した。

 美代子は震える手でそれを受け取った。

 母のエゴが、世界を書き換える。

3.育ちすぎた赤ん坊

 目が覚めると、そこは三十年前の交差点だった。

 トラックが迫ってくる。

 美代子は叫びながら達也の手を引き、歩道へ転がり込んだ。

 トラックが轟音を立てて通り過ぎる。

「……ママ? 痛いよ」

 腕の中で、達也が泣いていた。

 温かい。生きている。

 美代子は達也を抱きしめ、狂ったように笑い泣きした。

「よかった……よかった……! ママが、一生守ってあげるからね! 絶対に離さないから!」

 ――それから、三十年。

 現在。

 佐伯家は、つたに覆われた古びた洋館のような姿になっていた。

 近所の住人は、この家の前を通るのを避けている。

 いつも雨戸が閉め切られ、中から時折、何かを叩きつけるような音や、野太い怒鳴り声が聞こえてくるからだ。

 家の中は、腐ったような臭いが充満していた。

 カップラーメンの空き容器、ビールの空き缶、カビの生えた雑誌。ゴミが床を埋め尽くしている。

 美代子は、六十代半ばになり、腰が曲がり、髪は白髪だらけになっていた。

 彼女は台所で、震える手でカツ丼を作っていた。

 子ども食堂なんてやっていない。そんな余裕はない。

 彼女の全ての時間と金は、二階にいる「ある生き物」に吸い取られていた。

 ドスン! ドスン!

 天井が軋む。二階からの足音。

 それは子供の足音ではない。体重百キロを超える、巨人の足音だ。

「ババア!! 飯まだかよ!!」

 怒声が響く。

 三十五歳になった息子・達也だ。

 彼はあの事故以来、美代子の過剰な保護の下で育った。

 「危ないから外に出なくていい」「ママが全部やってあげる」「お前は特別なんだから」

 その歪んだ愛を肥料にして育った結果、彼は学校にも行かず、働かず、気に入らないことがあると暴力を振るう「引きこもりの怪物」へと成長したのだ。

「い、今持っていくから……!」

 美代子は盆を持って階段を上がる。

 階段の一段一段が、処刑台へのステップのように重い。

 これが、私が望んだ未来?

 あの日、トラックから守った命の成れの果て?

 二階のドアの前。

 中からは、ゲームの電子音と、ブツブツと独り言を呟く声が聞こえる。

 美代子の左頬には、昨日殴られた青痣あおあざが残っていた。

 

 かつて、あの雨の日の少年に「塩むすび」を食べさせた優しい手は、今、怪物の餌を運ぶためだけに使われている。

 そして皮肉なことに、この世界では「子ども食堂」が存在しないため、カケルは誰にも救われず、空腹のまま盗みを働き、やがてテロリストの兄の元へと走ってしまったのだ。

 美代子は深呼吸をして、震える手でドアノブを回した。

 そこには、地獄わがこが待っていた。

(第4章 前編・完)

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