第3章:英雄の車椅子、裏切りの信管(前編)
1.泥水の味
ピアニストが自らの手を砕いた夜から、数日後。
東京はまだ、しつこい梅雨の只中にあった。
新宿、歌舞伎町の路地裏。
工藤剛志は、逃走していた薬物密売人をアスファルトに押さえつけていた。
「確保。……おい笹原、手錠だ」
工藤が呼ぶ。だが、返事がない。
振り返ると、相棒の笹原健一が、別の男――密売人の仲間と思われるチンピラを、執拗に蹴り上げているところだった。
「どこに隠した! 言え! 言わねえと指へし折るぞ!」
ドカッ、バキッ。
革靴が腹にめり込む音。チンピラは既に白目を剥いて泡を吹いている。
「おい、やめろ笹原!」
工藤は密売人を放り出し、笹原の肩を掴んで引き剥がした。
「抵抗不能だろ! これ以上やったら過剰防衛だ!」
笹原が振り向く。
その目は充血し、獣のようにギラついていた。
「……何ですか、工藤さん。犯罪者に人権なんてあるんですか?」
「お前、最近おかしいぞ。先週の取り調べでも容疑者に怪我をさせたそうじゃないか」
「結果が出ればいいんでしょう、結果が」
笹原は乱れた髪をかき上げ、地面に唾を吐いた。
「俺たちは掃除屋だ。ゴミを片付けるのに、いちいち箒の使い心地なんて気にしてられるか」
そう言い捨てて歩き出す相棒の背中を、工藤は呆然と見送った。
変わってしまった。
三年前、あんなに正義感に燃え、真っ直ぐな瞳をしていた青年は、今や暴力と成果に飢えた「野良犬」に成り下がっている。
なぜだ。
俺がお前を助けたからか?
俺が、あの倉庫でお前を「守りきってしまった」からなのか?
雨が強くなる。
工藤の五体満足な足が、泥水を踏む。
痛みはない。だが、その足取りは、鉛を引きずっているように重かった。
2.カツ丼と迷子
時間は、三年前に遡る。
まだ、世界が書き換えられる前のことだ。
その日、工藤と新人の笹原は、連続爆破テロ事件の容疑者を追って、古いアパートの張り込みをしていた。
狭い車内。カップラーメンの匂い。
「工藤さん、またサボりですか? 報告書溜まってますよ」
「うっせえな。デカの仕事は足で稼ぐんだよ。……ほら、食え」
工藤はコンビニ袋から、温かい肉まんを取り出して笹原に投げた。
「うわ、あちっ! ……ありがとうございます」
笹原が嬉しそうに頬張る。この頃の彼は、よく笑う愛すべき後輩だった。
その時、アパートの駐輪場に、一人の少年が現れた。
灰色のパーカーを着て、周囲を警戒しながら、鍵のかかっていない自転車を探しているようだ。
カケルだ。
当時十八歳。家出同然で街を彷徨っていた彼は、このアパートに潜伏しているテロリスト――実の兄を頼って来ていたのだ。
「あいつ、兄貴に会いに行く気か」
工藤は舌打ちをして車を降りた。
ターゲットの部屋に入る直前、工藤は少年の首根っこを掴んだ。
「おっと、そこまでだ坊主」
「……離せよ! 俺は兄ちゃんに!」
「兄ちゃんは今、忙しいんだよ。爆弾作るのにな」
工藤は暴れるカケルを引きずり、近くの定食屋へ連れ込んだ。
カツ丼を注文する。
「食え。腹減ってんだろ」
「……警察の世話にはなんねーよ」
「警察じゃねえ、俺の奢りだ。ガリガリじゃねえか」
湯気の立つカツ丼を前に、カケルは喉を鳴らした。空腹には勝てない。彼は猛烈な勢いでかっこみ始めた。
それを横目に見ながら、工藤は煙草に火をつけた。
「いいか、坊主。兄貴はもう戻れねえところまで行っちまった。だが、お前はまだ間に合う」
「……俺には、兄ちゃんしかいないんだ」
「違げえよ。家族ってのは、血が繋がってるからなるもんじゃねえ。お前を大事にしてくれる奴が家族になるんだ。……こっち側に来い。俺が更生させてやる」
工藤の言葉は、ただの説教ではなかった。本気だった。
カケルは箸を止め、涙をこらえるように俯いた。
「……ごちそうさん」
完食したどんぶり。それが、カケルが見せた最初で最後の「素直さ」だった。
この時、工藤は決めていた。
この事件が終わったら、本気でこの少年の面倒を見てやろう、と。
だが、その誓いが果たされることはなかった。
3.車椅子の英雄(元の世界)
張り込みから数日後。
タレコミがあり、工藤と笹原は廃工場へ急行した。
応援を待つ時間はない。犯人グループが逃走を図っていたからだ。
「行くぞ笹原。背中は任せた」
「はい!」
二人は暗闇の中へ突入した。
だが、それは罠だった。
工場の奥深く、犯人を追い詰めたと思った瞬間、センサーが作動した。
プラスチック爆弾の赤いランプが点滅する。
場所は、笹原の足元だ。
「笹原ッ!!」
工藤は迷わず飛び込んだ。
相棒を突き飛ばし、自らの体で爆風の盾となる。
ドォォォォン!!
熱風。激痛。
意識が飛ぶ寸前、工藤が見たのは、無傷で吹き飛ばされた笹原が、泣き叫びながらこちらに這い寄ってくる姿だった。
――そして、工藤は「英雄」になった。
両足を失い、車椅子生活。現場復帰は絶望的。
だが、笹原は生きた。彼は工藤の犠牲を胸に刻み、兄の逮捕に執念を燃やし、結果として弟のカケルをテロ組織から切り離すことに成功したのだ。
元の世界では、工藤の「痛み」が、多くの未来を守っていた。
4.悪魔の囁き
……はずだった。
だが、病院のベッドで目覚めた工藤の心は、美談では満たされなかった。
激痛。幻肢痛。
失ったはずの足が燃えるように熱い。
窓の外は雨。
見舞いに来た笹原は、やつれ果てていた。
「すみません……俺のせいで……俺が代わりに……」
メソメソと泣く相棒を見るたびに、工藤の中にどす黒い感情が芽生えた。
(なんで俺なんだ)
(俺の方が腕が立つ。俺の方が経験がある。なのに、なんで俺が一生車椅子で、お前が五体満足なんだ)
その心の隙間に、黄色いレインコートの少年が入り込んだ。
病室の窓枠に座り、レイは砂時計を回していた。
「正義の味方は損な役回りだね」
レイは、工藤の動かない足を指差した。
「君が犠牲になる必要なんてなかった。君なら、もっとうまくやれたはずだ」
「……誰だ」
「過去をやり直したいと願う客の、しがない相談相手さ」
レイは工藤の耳元で囁く。
「戻りなよ。あの廃工場へ。今度は君の経験と技術をフルに使って、誰も傷つかない『完全な解決』をするんだ。そうすれば、君の足も戻る。相棒も泣かせずに済む」
「完全な……解決」
甘美な響きだった。
誰も不幸にならない世界。そんなものがあるなら。
工藤は砂時計に手を伸ばした。
カケルにカツ丼を奢った時の「あいつを救う」という誓いなど、自分の足を取り戻したいという渇望の前では、あまりにも脆く崩れ去った。
5.完全すぎた解決
時間が巻き戻る。
再び、廃工場の突入直前。
工藤の頭脳には、爆弾の位置、犯人の配置、すべての情報が入っていた。
「待て笹原」
工藤は冷静に指示を出した。
「あそこのドラム缶の裏にブービートラップがある。お前は裏口へ回れ。正面は俺が制圧する」
「えっ? でも一人じゃ……」
「いいから行け! 足手まといだ!」
工藤は一人で突入した。
正確無比な射撃で犯人の肩を撃ち抜き、起爆装置を押させる隙も与えず確保。
爆発なし。怪我人なし。
完璧な制圧だった。
数分後、遅れて入ってきた笹原は、手錠をかけられた犯人と、涼しい顔をして煙草を吸う工藤を見た。
「す、すごい……さすが工藤さん……」
笹原の声は震えていた。
それは尊敬ではない。
圧倒的な実力差を見せつけられ、自分の存在意義を否定された男の、惨めな敗北感だった。
「お前は外で見張りでもしてろ」
工藤は何気なく言った。
その言葉が、笹原のプライドを粉々に砕いたことに気づきもしないで。
――こうして歴史は変わった。
工藤は足を失わなかった。
だがその代わり、彼は「相棒の成長」と「少年の更生」という二つの未来を殺してしまった。
無能扱いされた笹原は、歪んだ功名心に憑りつかれ、過激な暴力刑事へと変貌していく。
そして、兄が逮捕されなかったことで、カケルはそのままテロ組織へと吸収されていった。あのカツ丼の味も忘れて。
工藤剛志は、自分の足を取り戻した代償に、二人の怪物を野に放ったのだ。
(第3章 前編・完)




