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第2章:神に愛された指、悪魔に食われた魂(後編)

4.黒い雨の幻聴

 サントリーホールのリサイタル。満席の二千人。

 ミナはステージの中央で、スタインウェイに向かっていた。

 演目はラフマニノフ『ピアノ協奏曲第2番』。

 難曲だ。だが、今のミナの指は、それを嘲笑うかのように軽々と鍵盤を駆け抜ける。

 (完璧。今日も完璧よ)

 自分に言い聞かせる。しかし、耳元で何かが囁く。

 『それがどうした?』

 背筋が凍った。

 客席を見る。暗闇の中に浮かぶ無数の白い顔。それらが全て、のっぺらぼうの仮面に見えた。彼らは音楽を聴いているのではない。私の「ミス」を待ち構えている審判団だ。

 第2楽章。甘美な旋律。

 ミナは感情を込めようとした。あの雨の日のアパートで、少年に聴かせた時のような、切ない祈りを。

 だが、出てきた音は、無機質で乾いていた。

 

 (違う、こんな音じゃない……!)

 焦れば焦るほど、指は機械的に、正確無比に動いてしまう。心と体が分離していく感覚。

 その時、客席のざわめきが聞こえた気がした。

 『つまらない』『眠くなる』『下手くそ』

 幻聴だとはわかっている。だが、その声は母親の声に似ていて、批評家の声に似ていて、そして何より――ミナ自身の内なる声そのものだった。

 ザアアアアア……。

 拍手が始まった。演奏はまだ終わっていないのに。

 いや、違う。これは雨音だ。

 どす黒い雨が、天井から降り注ぎ、私を溺れさせようとしている。

 ミナは呼吸困難に陥りながら、最後の和音を叩きつけた。

 ジャン!

 静寂。そして、割れんばかりの喝采。

 「ブラボー!」「素晴らしい!」

 その歓声が、ミナにはこう聞こえた。

 『よくできました、お人形さん』

5.黄金の鳥籠、不在の少年

 楽屋に戻ると、そこは花束の海だった。

 百合、薔薇、胡蝶蘭。むせ返るような香りが、死化粧の匂いを連想させる。

「ミナ! 今日の演奏も最高だったわ!」

 母親が興奮した様子で入ってきた。その手には電卓が握られているようだった。

「次のワールドツアーのスポンサーが決まったわよ。これでまた、タワマンのローンも繰り上げ返済ね」

 ミナは鏡の前に座り込んだ。

 鏡の中の自分は、厚化粧の下で死人のように青ざめている。

「……ママ」

「なあに?」

「私、もう弾きたくない」

 母親の動きがピタリと止まった。

 氷のような冷たい目が、鏡越しにミナを射抜く。

「何言ってるの? 冗談はやめてちょうだい。どれだけのお金が動いてると思ってるの」

「心が……空っぽなの。これ以上弾いたら、私が私じゃなくなる」

「心?」

 母親は鼻で笑った。

「そんなもの、客は求めてないわよ。あんたは『一ノ瀬ミナ』というブランドを演じていればいいの。黙って座って、指を動かしなさい」

 母親は、娘を見ていなかった。彼女が見ているのは「金の生る木」だけだ。

 ミナはふらりと立ち上がり、窓辺へ向かった。

 雨が降っている。

 高層階の窓から見下ろす街の灯りは、宝石のように美しい。

 だが、地上は遥か遠く、ここには誰も雨宿りに来ない。

 (あの少年は、どこへ行ったの?)

 名前も知らない、あの子。

 彼だけが、私の中身を見てくれた。

 でも、もう彼はいない。私が「成功」を選んだせいで、彼との接点は消滅したのだ。

 この世界には、私の音を愛してくれる人間は一人もいない。

 逃げ場はない。

 明日も、明後日も、私はこの完璧な指で、空虚な音を紡ぎ続けなければならない。死ぬまで「天才のフリ」を続けなければならない。

 (……なら、壊してしまえばいい)

 ふと、恐ろしいほど冴えた論理が脳裏を閃いた。

 私が苦しいのは、この「指」があるからだ。

 この指が動く限り、私は比較され、消費され続ける。

 でも、もし指がなければ?

 「怪我さえなければ最高だったのに」という、あの甘美な“言い訳”の世界に帰れるのではないか?

6.クリスタルの断罪

 ミナの視線が、テーブルの上の物体に吸い寄せられた。

 今日のコンクールの記念品。重厚なクリスタルガラスのトロフィー。

 鋭角的なデザインが、照明を反射してギラリと光った。

「……ミナ? 聞いてるの?」

 母親が背後で何か喚いている。

 ミナは静かにトロフィーを手に取った。ずしりと重い。まるで、自分の罪の重さのようだ。

 彼女は、まるで次の曲の打鍵を確認するように、丁寧に、愛おしげに、左手を大理石のテーブルの上に置いた。

 震えはなかった。

 これは発作ではない。これは、彼女に残された唯一の、自尊心を守るための「解決策ソリューション」だった。

「これで、やっと自由になれる」

 ミナは微笑んだ。その笑顔は、かつて雨の日少年に見せたものと同じくらい、純粋で美しかった。

 彼女は高くトロフィーを振り上げた。

「やめっ――!」

 母親の悲鳴。

 ゴシャッ。

 鈍く、湿った音が響いた。

 激痛が脳天を突き抜ける。

 だが、ミナは止まらなかった。中途半端ではいけない。二度と、ピアノなど弾けないように。二度と、誰からも期待されないように。

 ゴッ! グシャッ! バキン!

 

 二度、三度。

 骨が砕け、肉が潰れる感触が手に伝わる。

 白いドレスに、赤い花が咲き乱れるように血飛沫が飛んだ。

「いやああああああ! 私の商品が! 私の人生が!!」

 母親が駆け寄り、ミナを突き飛ばした。

 彼女が抱きかかえたのは、娘の体ではなく、潰れた左手の方だった。

「なんてこと……これじゃもう、商品価値がないじゃない!」

 床に転がったミナは、天井を見上げた。

 痛みで視界が霞む。

 だが、不思議と心は晴れやかだった。

 耳鳴りが消えた。幻聴が消えた。

 静寂。

 ああ、やっと静かになった。

 薄れゆく意識の隅で、部屋の角に黄色いレインコートの少年が見えた気がした。

 彼は満足そうに頷き、音のない拍手を送っていた。

 ありがとう。これで私は、ただの「かわいそうな女の子」に戻れる。

7.刑事の見た地獄

 通報を受けて現場に到着した時、楽屋はすでに血の海だった。

 所轄の刑事が規制線を張っている中、本庁から派遣された男が、重い足取りで中に入った。

 工藤剛志くどう つよし

 無精髭にトレンチコート。その目は、長年の捜査でよどんでいるが、奥底には鋭い光が宿っている。

「……ひでぇな」

 工藤は顔をしかめた。

 部屋には鉄錆てつさびのような血の匂いと、高級な香水の匂いが混ざり合い、強烈な不快感を醸し出している。

 被害者――一ノ瀬ミナは、すでに救急車で搬送された後だ。

 だが、現場には「加害者」が残っていた。

「どうして……どうしてよ……あの子は私の最高傑作だったのに……」

 血まみれのドレスの裾を掴み、放心状態で呟いている母親。

 彼女は娘の安否を心配する素振りすら見せず、壊れたおもちゃを嘆くように、床の血痕を見つめていた。

「おい、状況は」

 工藤が所轄の警官に尋ねる。

「はっ。被害者による自傷行為と思われます。凶器はあちらのトロフィー。母親の証言では、突発的に自分の手を……」

「自分の手を、か」

 工藤は、テーブルの上に残された、砕けたトロフィーを見た。

 そこには、迷い傷がなかった。

 一撃で、確実に、自分の才能を粉砕する意思。

 

 人間は、ここまで追い詰められるものなのか。

 栄光の頂点で、自ら翼をもぐ鳥のように。

「……世の中、狂ってやがる」

 工藤はポケットからタバコを取り出そうとして、ここが禁煙のホールだったことを思い出して舌打ちした。

 最近、こういう「理解不能な事件」が増えている気がする。

 人が、人の心を持ったまま、怪物になっていくような。

 ふと、工藤の背中を冷たい風が撫でた。

 振り返るが、そこには開けっ放しの窓があるだけだ。

 窓の外は土砂降りの雨。

 工藤は雨が好きではなかった。

 三年前のあの日――相棒の笹原を失いかけた、あの爆破事件の日も、こんな雨だったからだ。

「行くぞ。こんな胸糞悪い現場、長居は無用だ」

 工藤は部下に声をかけ、きびすを返した。

 彼もまた、過去の亡霊に囚われた男だった。

 そして彼も知らない。

 この事件が、彼自身の運命の歯車を狂わせる「終わりの始まり」であることを。

(第2章 完)

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