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第2章:神に愛された指、悪魔に食われた魂(前編)

1.雨音の観客

 一ノ瀬ミナの世界は、カビ臭い四畳半の部屋と、一台のアップライトピアノだけで構成されていた。

 壁は薄く、隣の部屋からはテレビの音が、上の階からは夫婦喧嘩の声が漏れてくる。ここは、夢に破れた人間たちが吹き溜まる、安アパートの掃き溜めだ。

 ザアアアア……。

 外は激しい雨が降っていた。雨樋あまどいが壊れているのか、窓の外で水が滝のように落ちる音がする。

 ミナは左手をさすった。雨の日は、傷が疼く。

 五年前、コンクールに向かう途中の路地裏で暴漢に襲われた時に負った、神経断裂の古傷。リハビリのおかげで日常動作には支障がないが、ピアニストとして求められる繊細な動きは、もう二度とできない。

「……はあ」

 ため息をつき、ミナはピアノに向かった。

 蓋を開ける。黄ばんだ鍵盤。調律も狂っている。

 それでも、彼女は弾き始めた。ショパンの『雨だれ』。

 左手は動かない音を補うように、右手だけで旋律を紡ぐ。つたない演奏だ。かつて「天才少女」と呼ばれた頃の輝きは見る影もない。

 ふと、視線を感じて手を止めた。

 一階にあるこの部屋の窓は、通りに面している。すりガラスの向こうに、小さな影が映っていた。

 雨の中、傘もささずにじっと立っている影。

 ミナは窓を開けた。

 湿った風と共に、雨の匂いが部屋に流れ込む。

 そこにいたのは、ズブ濡れの少年だった。十歳くらいだろうか。グレーのパーカーのフードを目深に被り、震えている。

 顔色は悪く、目元には濃いクマがあった。

「……何してるの? 風邪ひくわよ」

 ミナが声をかけると、少年はビクッとして逃げ出そうとした。

「あ、待って! 怒らないから」

 少年は足を止めた。警戒した獣のような目でミナを見る。

「……ピアノ」

 少年がポツリと言った。

「え?」

「ピアノの音……きれいだったから」

 ミナは目を見開いた。

 綺麗? 私の演奏が? こんな、指の動かない、落ちぶれた女のピアノが?

 胸の奥が、じわりと熱くなった。

「……雨宿りしていきなさい。もっと聴かせてあげる」

 ミナは窓を全開にした。

 少年――カケルは、躊躇いながらも窓枠の下にうずくまった。

 ミナは再び鍵盤に指を走らせた。今度はシューマンの『トロイメライ』。

 技術はない。ミスタッチもある。けれど、そこには「誰かに聴いてほしい」という切実な祈りが込められていた。

 弾き終えると、パチ、パチ、と小さな音がした。

 カケルが、濡れた手で拍手をしていたのだ。

「すごいや。……魔法みたいだ」

 その言葉は、どんな批評家の賛辞よりも、ミナの渇いた心に染み渡った。

 ――この時、ミナは知らなかった。

 この雨宿りの時間が、孤独な少年にとって唯一の安らぎであり、彼の荒んだ心をつなぎ止める命綱になっていたことを。

 そして、彼女自身もまた、この少年という「たった一人の観客」によって、音楽家としての魂を救われていたことを。

2.悪魔の契約

 だが、貧困という現実は、そんな温かな感傷を容易く踏みにじる。

 翌日、ミナの元に届いたのは、家賃滞納の督促状と、アルバイト先のコンビニからの解雇通知だった。

「才能があっても、金がなきゃゴミね」

 ミナは督促状を握り潰した。

 もし、あの手が動けば。あのコンクールで優勝していれば。今頃はスポットライトを浴びて、こんな惨めな生活とは無縁だったはずなのに。

「かわいそうに」

 部屋の隅から声がした。

 いつの間にか、黄色いレインコートを着た少年が、ピアノの上に座っていた。鍵盤を足で踏みつけ、不協和音を鳴らしている。

「君の指は、まだショパンを弾きたがっているね」

 レイだ。

 ミナは恐怖よりも、彼が醸し出す「非日常」の空気に惹きつけられた。

「……あんた、誰?」

「僕はレイ。君の『もしも』を叶えるバイヤーさ」

 レイは、逆さまに砂が落ちる砂時計を差し出した。

「あの日の路地裏に行かずに、大通りを走るだけでいい。そうすれば、君の手は守られる。栄光が手に入る」

 カケルの顔が一瞬、脳裏をよぎった。あの雨宿りの少年。

 でも、すぐに打ち消した。

 そんなもので腹は膨れない。私はピアニストになりたいの。あんな薄汚いガキの拍手なんかじゃ足りない。世界中からの喝采が欲しいのよ!

「やるわ」

 ミナは砂時計をひったくった。

「私の人生を返して!」

 砂時計が砕ける。世界が反転する。

 窓の外の雨音が遠ざかり、代わりに聞こえてきたのは、五年前のコンクール会場のざわめきだった。

3.空虚な喝采

 人生は、あまりにも簡単に書き換えられた。

 あの日、ミナは路地裏を避け、無傷で会場に到着した。

 五体満足な指。溢れる情熱。

 演奏は完璧だった。審査員は涙を流し、観客は総立ちになった。

 優勝。

 それは、ミナが夢見ていた通りの、輝かしい未来の幕開けだった。

 それから三年。

 一ノ瀬ミナの名は、クラシック界の寵児ちょうじとなっていた。

 パリ、ロンドン、ニューヨーク。世界中を飛び回り、一流のオケと共演する日々。

 住まいは港区の高級タワーマンション。部屋にはスタインウェイのグランドピアノ。

 だが、ミナは毎晩、悪夢にうなされていた。

「ミナ、次のレコーディング曲決めた?」

 マネージャーを気取る母親が、シャンパングラス片手にリビングに入ってくる。

 派手なブランド服に身を包み、娘の稼ぎで整形を繰り返している母。

「まだよ。……ねえママ、私の演奏、どうだった?」

「最高だったわよ! チケットも即完売。またギャラが上がるわね」

 母は演奏の話などしていない。金の話だ。

 そして、それは批評家たちも同じだった。

『一ノ瀬ミナの指は、コンピュータのように正確だ』

『ミスがない。それが彼女の最大の個性だ』

 最初は褒め言葉だと思っていた。

 だが、次第に気づき始めた。

 誰も「感動した」とは言わない。「正確だ」「上手い」と言うだけだ。

 そこには熱がない。魂がない。

 ある夜、ミナは自分のライブ録音を聴き返してみた。

 超絶技巧のリスト。一音の狂いもない。

 けれど、聴いているうちに、強烈な吐き気が込み上げてきた。

「……つまらない」

 ミナはトイレに駆け込み、胃の中身をぶちまけた。

 空っぽだ。

 私のピアノには、中身がない。

 元の世界での、あの拙い『雨だれ』の方が、よっぽど心に響いた。

 なぜ? 私は完璧なはずなのに。怪我さえなければ天才なはずなのに。

 違う。

 私は、怪我をしていたからこそ「悲劇の天才」でいられたのだ。

 万全の状態になった今、露呈したのは**「ただ指が動くだけの凡人」**という残酷な事実リアルだった。

 その事実に気づいた瞬間から、世界は色を失った。

 華やかなステージの照明が、取り調べ室のライトのように眩しく、ミナを責め立てる。

『お前には何もない』

『偽物だ』

『中身のない人形だ』

 拍手の音が、ノイズに変わっていく。

 ザアアアア……。

 それはまるで、あのアパートで聞いていた雨音のようだった。

 でも、ここには雨宿りに来る少年はいない。

 孤独だ。

 何万人に囲まれていても、私はあの四畳半の時よりもずっと、凍えるほどに孤独だった。

(第2章 前編・完)

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