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第1章:メスの重さ(後編)

6.書き換えられたシナリオ

 めまいが収まると、そこは再び、手術直前の医局だった。

 カレンダーの日付は、あの日と同じ。

 看護師長がコーヒーを持ってくるところまで同じだ。

「先生、奥様の手術、いよいよですね」

 亮介は震える手で、ポケットの中を確認した。レイから受け取った砂時計はない。だが、記憶は鮮明にある。

 あのモニターの電子音。手の中で冷たくなっていく妻の感触。

 あんな地獄は、二度と御免だ。

「……師長」

 亮介は、喉に詰まった鉛を吐き出すように言った。

「執刀医を変更したい」

「えっ? ですが堂島先生、これは先生にしか……」

大山おおやま教授に頼んでくれ。俺には無理だ。……妻の頭を開くなんて、正気でいられる自信がない」

 プライドも、名声も、かなぐり捨てた。

 周囲の医師たちが驚き、あるいは軽蔑の視線を向けてくるのがわかった。「神の手も、身内となれば臆病風に吹かれるか」と。

 だが、構わなかった。今日子が生き残る確率が1%でも上がるなら、俺は臆病者でいい。

 数時間後。

 大山教授による手術は、完璧な成功を収めた。

 ICU(集中治療室)のガラス越しに、規則正しく波打つ心電図を見て、亮介は膝から崩れ落ちて泣いた。

 変えられた。

 俺は、運命に勝ったんだ。

 ――しかし、亮介は気づいていなかった。

 彼が捨てたのはプライドだけではなかった。妻にとっての「ヒーロー」の座も、彼は自ら手放してしまったのだということに。

7.砂糖のないコーヒー

 退院から三ヶ月。

 季節は夏から秋へと変わろうとしていた。

 今日子の回復は順調だった。麻痺もなく、以前と同じように家事をこなせるようになった。

 亮介は幸せだった。家に帰れば、「おかえりなさい」という声が返ってくる。それだけで十分だった。

 だが、小さな違和感が、平穏な日常に黒いインクのように滲み始めていた。

「今日子、コーヒー淹れてくれないか」

 休日の午後。リビングで亮介が頼むと、今日子はキッチンからマグカップを持ってきた。

 一口飲む。苦い。

「……あれ? 砂糖が入ってないな」

 亮介が言うと、今日子はハッとしたように口元を押さえた。

「ごめんなさい。私、最近ブラックが好きになって……つい、あなたの分も同じにしちゃった」

 以前の彼女は、甘いものが好きだったはずだ。

 それに、亮介の好み(ブラック)に合わせて淹れることはあっても、自分の好みを押し付けて間違えるような人ではなかった。

 

 違和感はそれだけではなかった。

 今日子のスマホの通知音が変わっていた。

 彼女が使う香水が、以前のフローラル系から、スパイシーなムスク系に変わっていた。

 そして何より、視線が合わない。

 会話はする。笑顔も見せる。だが、その瞳の奥は、亮介ではない誰かを見ているようで、どこか上の空だった。

 ある夜、亮介は見てしまった。

 ベランダで、今日子が誰かと電話をしている姿を。

「ええ……うん。大丈夫、彼は気づいてないわ。……私も、会いたい」

 頬を染め、少女のように微笑む妻。亮介にはもう何年も見せていない表情だった。

 疑念が確信に変わる。

 相手は誰だ。

 ブラックコーヒーを好み、ムスク系の香水をつけ、最近頻繁に病院内で顔を合わせる男。

 

 大山教授だ。

 俺が執刀を頼んだ、あの男だ。

 ――皮肉な話だ。

 元の世界では、亮介は妻の死後、彼女の遺志を継いで小児心臓病棟への寄付を熱心に行っていた。あのロビーの少年カケルの手術費も、そこから捻出されるはずだった。

 だが今の亮介は、妻への疑念と嫉妬に狂い、寄付のことなど頭の片隅にもなかった。

 彼の心は急速に荒み、周囲の全てが敵に見え始めていた。

8.裏切りの逃避行

 そして、運命の夜が訪れた。

 あの日と同じ、激しい雨の降る夜だった。

 亮介が帰宅すると、家の中は真っ暗だった。

 ダイニングテーブルの上に、白い封筒が一通。

 震える手で中身を開く。

『ごめんなさい。私、大山先生と生きていきます』

 文字が涙で滲むどころか、怒りで燃え上がるように見えた。

『手術の前、怖くてたまらなかった私を支えてくれたのは、あなたじゃなくて大山先生でした。あなたは「俺には無理だ」と言って逃げた。命は助かったけれど、その瞬間、私の中で何かが終わってしまったの』

 亮介は手紙を握り潰した。

 ふざけるな。

 俺がお前を愛していたからこそ、あんな決断をしたんだ。お前を生かすために、俺は一番大切なものを捨てたんだぞ。

 それが「逃げた」だと?

 命を救った恩人に、この仕打ちなのか?

 スマホのGPSアプリを開く。

 夫婦で共有していた位置情報。今日子のアイコンは、首都高速湾岸線を高速で移動していた。

 大山と一緒にいるに違いない。

「許さない……絶対に許さないぞ、今日子!」

 亮介は車に飛び乗った。

 愛が憎悪に変わるのに、時間はかからない。

 今の彼にあるのは、「無事に帰ってきてほしい」という願いではない。「俺を裏切った女を捕まえて断罪してやる」というどす黒い執着だけだった。

9.炎上する愛の残骸

 ワイパーが役に立たないほどの豪雨。

 亮介はアクセルを踏み込んだ。前方に、見覚えのある大山の高級車が見える。

 パッシングをする。クラクションを鳴らす。

「止まれ! 止まれえぇぇッ!」

 前の車が加速する。逃げようとしている。

 カーブに差し掛かった時だった。

 大山の車がスリップした。対向車線から来た大型トラックのヘッドライトが、閃光のように闇を切り裂く。

 ドォォォォォォォォン!!

 耳をつんざく衝撃音。

 大山の車はトラックと正面衝突し、ガードレールを突き破って横転した。

 直後、爆発炎上。

 亮介は急ブレーキをかけ、現場の手前で止まった。

 熱気が雨を蒸発させている。

 燃え盛る炎の中に、二人の姿が見える気がした。もはや助け出すことなど不可能な火勢だ。

 亮介は車を降り、雨の中で立ち尽くした。

「あ……あぁ……」

 死んだ。

 今日子が、死んだ。

 元の世界では、俺の手の中で、最期まで俺を愛して死んでいった。

 だがこの世界ではどうだ?

 俺以外の男と駆け落ちし、俺を拒絶して逃げる途中で、無惨な肉塊となって死んだ。

 こんな結末を見るために、俺は過去を変えたのか?

 こんな汚れた記憶を抱えて生きていくために?

「ねえ、お医者さん」

 炎の赤に照らされて、ガードレールに座る黄色い影が浮かび上がった。

 レイだ。

 彼は退屈そうに頬杖をつき、燃える車を眺めている。

「言っただろう? ページをめくった先がハッピーエンドとは限らないって」

 亮介はレイに掴みかかろうとしたが、足がもつれて泥水の中に倒れ込んだ。

「なんでだ……なんでこんなことに……俺はただ、彼女に生きていてほしかっただけなのに!」

「生きるってことは、変わるってことだよ」

 レイは冷酷に告げる。

「君が執刀した世界線では、彼女の時間はあそこで止まった。だからこそ、彼女の愛は『永遠』になった。でも、君が彼女を生かしたことで、時間は動き出した。人の心は移ろうものだ。君の臆病さが、彼女の心を殺したんだよ」

 レイは立ち上がり、燃える車を指差した。

「死ぬという結果ファクトは変わらない。変わるのは、そこに至るまでの感情ドラマだけさ。……さて、どっちの地獄がマシだったかな?」

 亮介は慟哭した。

 雨音と炎の爆ぜる音が、嘲笑うように響き渡る。

 

 ――そして、彼が絶望の底でうずくまっている頃。

 病院のロビーで待ち続けていたあの少年・カケルは、誰からも手を差し伸べられることなく、静かに姿を消していた。

 堂島亮介の寄付あいが途絶えた世界で、少年の心臓のカウントダウンは加速し始めていた。

(第1章 完)

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