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第1章:メスの重さ(前編)

1.銀色の雨音

 人の命の重さは、約二十一グラムだと言われる。

 だが、堂島亮介どうじま りょうすけの手のひらに乗るそれは、もっと重く、冷たく、鋭利だった。

 メスだ。炭素鋼で作られたその小さな刃物は、神の筆にも、死神の鎌にもなり得る。

「クリッピング、完了しました。動脈瘤の閉塞を確認」

 手術室の張り詰めた空気の中、助手の安堵した声が響く。

 亮介は拡大鏡ルーペ越しに、脳のひだの奥に潜んでいた赤黒いコブが、チタン製のクリップで完全に封じられたのを見届けた。

「よし。完璧だ。閉頭に移る」

 マスクの下で、亮介は小さく息を吐いた。

 これで通算三千例目の成功。

 「神の手」を持つ男。東都大学病院脳神経外科のエース。それが堂島亮介の肩書きだった。

 術衣を脱ぎ、手袋を外す。指先には微かな震えもない。完璧なコントロール。俺はこの手で、運命すら捻じ伏せることができる。

 医局に戻る廊下で、窓の外を見た。

 六月の雨が降っている。

 ガラスを叩く無数の水滴が、まるで誰かの拍手のようにも、忍び寄る足音のようにも聞こえた。

「先生、お疲れ様です」

 看護師長がコーヒーを差し出す。

「奥様の手術、いよいよ来週ですね」

 その言葉に、亮介の表情から「外科医」の鉄仮面が剥がれ落ちた。

「ああ……。ようやく、俺の出番だ」

 妻の今日子きょうこが見つかったのは、未破裂の脳動脈瘤だった。しかも、場所が悪い。脳底動脈の分岐部。難易度は極めて高い。

 他の医師なら躊躇するだろう。だが、俺ならできる。

 いや、俺にしかできない。

 最愛の妻の脳にメスを入れる。その恐怖よりも、他人に命を預ける恐怖の方が勝っていた。

「大丈夫ですよ、堂島先生がついているんですから」

 看護師長の言葉に、亮介は力強く頷いた。

 ――この時の彼はまだ知らなかった。

 技術への過信が、愛という不純物と混ざり合った時、どれほど脆いガラス細工になるのかを。

2.角砂糖二つ分の愛

 家に帰ると、今日子はリビングのソファで本を読んでいた。

 四十五歳になっても変わらない、穏やかな横顔。目尻の笑いジワすら、二人が重ねてきた二十年の年輪のように愛おしい。

「おかえりなさい、亮介さん。遅かったのね」

 彼女が淹れてくれるコーヒーは、いつも少しぬるくて、甘い。

 亮介はブラック派だが、家では文句を言わずにそれを飲む。角砂糖二つとミルクたっぷりの、彼女好みの味。それが、家庭ここでの平和の味だった。

「……怖くないか? 手術」

 カップを置きながら、亮介は尋ねた。

 今日子はふふっと笑って、亮介の大きな手を両手で包み込んだ。

「怖くないわよ。だって、あなたが執刀してくれるんでしょう? 世界で一番上手な先生が」

「失敗はしない。絶対にだ」

「わかってる。でもね、亮介さん」

 今日子は真剣な眼差しで言った。

「もしもの時は、自分を責めないでね。私はあなたと結婚できて、本当に幸せだったから」

「縁起でもないことを言うな」

 亮介は彼女を抱き寄せた。

 彼女の髪から、雨の匂いと、優しい日向の匂いがした。

 この温もりを守るためなら、悪魔に魂を売ったっていい。そう本気で思っていた。

3.灰色の待合室

 手術当日の朝。

 亮介は精神統一のために、早朝の病院内を歩いていた。

 小児病棟の近くにある、小さな中庭が見えるロビー。

 そこには、いつも一人の少年がいた。

 小学校低学年くらいだろうか。痩せっぽちで、顔色が悪い。

 着古したグレーのパーカーを着て、長椅子にポツンと座っている。親の姿はない。

 彼はいつも、ガラス越しに雨を眺めているか、ボロボロの文庫本を読んでいるかだった。

 亮介はその少年が気になっていた。

 彼自身の担当患者ではないが、循環器内科に入院している重篤な心臓病の患児だと聞いていた。治療費の支払いが滞り、親もあまり面会に来ないらしい。

「……おい」

 亮介は足を止め、白衣のポケットを探った。

 当直の夜食用に入れておいた、高そうなチョコレートが一つ。

「やるよ。糖分補給だ」

 少年は驚いたように顔を上げた。大きな瞳には、大人びた諦念ていねんが宿っていた。

 彼は無言でおずおずとチョコレートを受け取ると、蚊の鳴くような声で言った。

「……ありがとう、おじさん」

「おじさんじゃない、先生だ」

 亮介は苦笑した。

「お前も、頑張れよ。俺も今日は、負けられない戦いがあるんだ」

 少年は、亮介の言葉の意味を理解したのかしていないのか、コクンと小さく頷いた。

「……あめ、やまないね」

 少年の視線は、再び窓の外の雨に向けられた。

 それが、天野カケルとの最初の、そして最後の会話になるはずだった。

 亮介はその時、自分がかけた何気ない言葉とチョコレートが、孤独な少年の心にどれほど深く刻まれたかなど、知る由もなかった。

 彼にとって少年は、数多くいる患者の一人に過ぎなかったのだから。

4.神の手の崩壊

 そして、その時は訪れた。

 手術開始から四時間。最大の難所。

 顕微鏡下の視野に、今日子の白く美しい脳血管が映る。動脈瘤は薄く、今にも破裂しそうだ。

 (落ち着け。いつも通りだ。剥離して、クリップをかけるだけだ)

 亮介は自分に言い聞かせた。

 だが、モニターの心拍音が、いつもより大きく聞こえる。

 今日子の笑顔が脳裏をよぎる。『あなたなら大丈夫』。その信頼が、鉛のような重圧となって指先にのしかかる。

 汗が滲む。

 ほんの一瞬、指先に迷いが生じた。

 その迷いを、神は見逃さなかった。

 プツッ。

 微かな音がして、視野が鮮血に染まった。

 動脈瘤が破裂したのだ。

「出血! 吸引急げ!」

「血圧低下! 先生、止血を!」

 警告音が鳴り響く。

 亮介の視界が真っ白になった。

 違う。嘘だ。こんなことがあってたまるか。

 吸引管の音が、今日子の悲鳴のように聞こえる。

 

 手が動かない。

 世界最高の技術を持つはずの指が、恐怖で凍りついていた。

「先生! 指示を!」助手の叫び声。

 ピーーーーーーーーー。

 無機質な電子音が、亮介の時間を永遠に止めた。

 心停止。

 神の手は、愛する妻の命を救うどころか、その手で止めを刺してしまったのだ。

5.黄色いレインコート

 葬儀の日も、雨だった。

 骨壺は軽かった。あんなに温かかった今日子が、今は冷たい陶器の中にいる。

 亮介は喪服のまま、病院の屋上に立っていた。

 柵の向こう、眼下には濡れたアスファルトが広がっている。ここから飛べば、また彼女に会えるだろうか。

 ふと、視界の端に黄色い色が映った。

 屋上の給水塔の陰に、レインコートを着た少年が腰掛けている。

 雨に打たれながら、楽しそうに足をぶらつかせている。

「ねえ、名医さん」

 少年の声は、雨音を切り裂いて直接脳に響いた。

「君のメスは錆びちゃったの?」

 亮介は虚ろな目で少年を見た。

「……放っておいてくれ」

「もったいないなあ。あんなに綺麗な奥さんだったのに」

 少年はポケットから、ガラス細工を取り出した。

 砂時計だ。だが、砂は下から上へと、重力に逆らって流れている。

「戻りたいんでしょう? あの手術室へ」

 亮介の心臓が跳ねた。

「……誰だ、君は」

「僕はレイ。雨の日にだけ現れる、親切な案内人さ」

 レイは砂時計を掲げた。

「時間を巻き戻してあげる。君が執刀する前の時間へ」

「そんなことが……できるわけがない」

「できるよ。ただし、条件がある」

 レイはニヤリと笑った。

「書き直したページが、必ずしもハッピーエンドとは限らない。それでもいいなら、これを受け取って」

 亮介の震える手が伸びる。

 理性は「罠だ」と叫んでいた。だが、それ以上に強い渇望があった。

 もう一度、今日子に会いたい。

 自分のプライドなんてどうでもいい。ただ、彼女が生きていてくれれば。

 亮介は砂時計を掴んだ。

 その瞬間、世界が回転し、雨音が逆再生されたかのように吸い込まれていった。

(第1章 前編・完)

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