藍色の空 ~第1章~
静かな放課後の教室。藍色の空の下で出会った二人の心は、ゆっくりと惹かれ合いながらも、すれ違いと痛みを繰り返す。
家庭の影、未来への不安、そして淡く切ない恋。
これは、ひとりの少女・夏沢藍が「愛」と「強さ」を見つけるまでの、記憶に残る青春の物語——。
放課後の教室に、淡い夕陽が差し込んでいた。
窓際の席に座る夏沢藍は、ノートの端に小さな花の絵を描きながら、ぼんやりと外を眺めていた。
西の空は、藍と橙のグラデーション。
遠くでカラスが鳴き、グラウンドでは野球部の掛け声が響く。
けれど、その喧騒の中にいても、藍の心はどこか別の場所にあった。
「……まだ、帰りたくないな」
小さく漏れた言葉は、夕暮れの空気に溶けて消える。
家に帰っても、温かさはない。
母は夜まで帰ってこない。帰ってきても、機嫌の波に怯える時間が始まるだけだ。
それでも、家には一人残している妹——美緒がいる。
美緒はまだ中学一年。
あどけなさの残る顔に、無理して笑う癖がついた。
母の不在を悟られまいとする小さな強がりが、藍には痛かった。
塾の月謝は藍が払っている。夜のバイトで稼いだお金を、美緒のために。
——それなのに、最近は顔を合わせるのも少し怖い。
「帰ったら、“お姉ちゃん、今日も遅いの?”って言われるんだろうな」
そんな問いに、どう答えればいいのか分からなかった。
本当のことなんて、言えるわけがない。
“夜の街で働いてるの”なんて言ったら、美緒はどんな顔をするだろう。
想像するだけで胸が締め付けられた。
窓の外の空は、ゆっくりと藍色に沈んでいく。
それはまるで、自分の名前のようで、そして、どこか哀しい色だった。
——そんなとき。
「藍、また残ってるの?」
聞き慣れた声がして、藍は顔を上げた。
教室のドアのところに、**空汰**が立っていた。
スポーツバッグを肩に掛け、汗に濡れた前髪をかき上げながら、いつものように少し照れた笑みを浮かべている。
夕陽が差し込む中、その姿だけがやけにまぶしく見えた。
「……うん。ちょっと、勉強してて」
「偉いなぁ。俺、もう眠くて無理だわ」
「野球部、今日も練習長かったんでしょ?」
「まぁね。顧問が気合入りすぎて、もうバット振る腕が震えてるよ」
そう言って笑う空汰の声は、いつもより少し掠れていた。
でも、その明るさが心地よかった。
藍は、気づかれないように小さく息をつく。
空汰はクラスでも人気者で、明るくて、まっすぐな人。
でも、藍から見れば、遠い世界の人——そう思っていた。
それでも彼は、藍が一人で残っていると、なぜかよく声をかけてくれる。
「藍って、あんまり誰かと群れないよな」
「そうかな」
「うん。なんか、無理して笑ってる感じがする」
その一言に、心臓が跳ねた。
図星だった。
誰にも気づかれたくなかったのに。
「……そっか。見抜かれてたんだね」
「まぁ、俺も似たようなもんだからさ」
空汰はそう言って、窓の外を見上げた。
オレンジと藍が混ざる空に、白い息がひとすじ浮かんでいく。
その横顔が、どこか寂しげだった。
「うちも父親いないしさ。母さん夜勤で、晩飯はコンビニ多め。
気づいたら、もうそんな生活が普通になってた」
藍は目を見開いた。
まるで、自分の話をされているようで。
でも彼は、それを“可哀そうなこと”みたいに言わない。
笑って、まっすぐ前を向いている。
「……空汰くんって、強いね」
「いや、全然。強がってるだけ。
でもさ、どうせ強がるなら、笑ってたほうがいいだろ?」
その言葉に、藍は少し笑った。
自分よりずっと大人に見えた。
それが、なんだか悔しくて、そして羨ましかった。
教室の外では、最後の夕陽が沈もうとしていた。
その光が窓を抜けて、藍のノートの花を照らす。
その瞬間、彼女の胸の奥に小さな灯がともった。
帰り道。
駅へ向かう坂道を、二人で歩いた。
街灯の下、吐く息が白く浮かぶ。
空汰はコンビニの袋を片手にぶら下げていた。
「なぁ、藍。ひとりで勉強してるの、しんどくない?」
「……まぁ、少しは」
「じゃあ、今度一緒にやろうよ。図書館とかで」
藍は驚いて、足を止めた。
振り返った空汰の顔が、街灯の光に照らされている。
その笑顔はまっすぐで、飾り気がなかった。
「……うん。じゃあ、お願いしようかな」
「決まり!」
空汰は笑って、袋の中から肉まんを取り出した。
「寒いし、これ半分こな」
差し出された湯気の白が、ふたりの間にゆらめいた。
藍は小さく笑って、それを受け取る。
その瞬間、胸の奥で何かが柔らかく溶けた。
——人のぬくもりって、こんな感じだったっけ。
忘れていた感覚が、少しずつ戻ってくるようだった。
⸻
夜、藍は自室の窓を開けて空を見上げた。
藍色の空に、ひとつ星が瞬いている。
母はまだ帰らない。
でも今夜は、不思議と寂しくなかった。
胸の奥で、小さな期待が芽生えている。
——また、明日会えるかな。
そんな願いを抱いたまま、藍は静かに目を閉じた。
〈第2章 予告〉
図書館で始まる、ふたりだけの放課後。
少しずつ距離を縮めていく藍と空汰。
だが、藍の家庭にある“影”が忍び寄る。
そして、空汰が抱えるもうひとつの秘密が、ゆっくりと姿を現す——。
次章:「君が教えてくれた青」




