フェルニアスの剣
古より伝わる白鋼の剣がある。その剣は白絞色の刃軸を持ち、月の光に射されるたび、凝りつくことなき光の緋箔を放ったという。その剣は無名ではあったが、ある時から<フェルニアスの剣>と呼ばれるようになった。名の由来は白銀の體を持つ<人狼フェルニアスの骨>より生み出されたことによる。
フェルニアスの骨は神秘と力の象徴とされていた。その骨はただ硬いだけではなく、鋼よりも優れた柔軟性を持ち、鍛冶師の手によって容易に加工が可能だったと言われている。この性質は通常の金属では不可能な強度としなやかさを兼ね備えた武具を作り出すために理想的であり、古代の鍛冶師達の間でも特に貴重視されていた。
そんな曰く付きの<フェルニアスの剣>であるが、伝承では王国ピュリタニアにある隠れ里<モーンリス>に存在すると言われている。その威力は凄まじく、魔獣の固い肉を斬り、龍の骨を断ち、鉄を容易く裂くと伝わる。この剣の持ち主は太古の鍛冶師であり、各地で魔獣退治を行ったとされる小さな英雄アグナス。
最近発見された歴史書の記録では彼は実在の人物で、銀灰色の髪を持つことから<灰月の鍛冶師>と呼ばれていた。記録ではこのアグナスという男は孤独だったという。幼少期、彼は鍛冶師オリンに育てられたが母の記憶はない。
母はアグナスが生まれて間もなく流行り病により亡くなり、彼はオリンにより男手一つで育てられた。父オリンは無口で厳格な人物で、幼いアグナスに容赦なく鍛冶の技法を叩き込んだ――それは父としての愛情、息子に生きる術を与えるためであった。
「アグナス、最初にしては上出来だ」
アグナスが最初に作り上げた剣は幼い手の中で何度も形を変え、やがてひとつの形を成した。その剣は粗削りではあったが、どこか不思議な輝きを宿していた。オリンはそれを見て初めて微笑み、「お前は剣に魂を込める男になるだろう」と呟いた。
しかし、運命は彼ら親子を過酷な試練へと導いた。ある夜、鍛冶場の火が消える前に、闇にまぎれて現れた一団がいた。その者達は銀の毛で覆われた人狼の集団で鋭い牙と金色の瞳を輝かせていた――。
人狼達は「フェルニアスの一族」と名乗った。彼らはオリンを取り囲むと、激しい怒りをぶつけるように声を上げる。
「人間よ、禁忌を犯したな! 何故、我が愛するルナリエを安寧なる<モーンリス>へと弔わなかった!」
その言葉にアグナスは何が起きているのか理解できなかった。<モーンリス>とはどこなのか、この怪物達は何故父のことを知っているのか、疑問を持ちながら暗い床下に隠れ、息をひそめ、床板の隙間から覗き聞いていた。
幼きアグナスが隠れることが出来たのは、オリンが鍛冶場の異変を先に察知したからである。鍛冶場の周囲に漂う不穏な気配、遠くから聞こえてくる低い唸り声。何かを秘匿とする彼の直感が、夜の危険を確信させ、愛する息子を匿うことが出来たのだ。
「禁忌だと? それが何だというのだ?」
オリンの声は静かだったが、その底には揺るぎない意志があった。
「愛しいものの遺骨を使い、剣を鍛えた。それの何が問題だというのか。あれはルナリエ自身の願いでもある――になりたいという想いだ」
途中、アグナスは父の声は全く聞こえなかった。恐怖もあるが、人狼達の唸り声により書き消されてしまったのである。
「私は後悔していない」
オリンの言葉を聞いた瞬間、人狼達は一斉に吠えた。その声は、怒りと悲しみ、そして憎悪が混じり合ったものだった。その吠え声は鍛冶場を震わせ、火床の赤い炎が揺らめき影を踊らせた。暫くして、父オリンの断末魔が聞こえた――。
「父さん!」
音が消え、沈黙が訪れた。どうやら恐るべき人狼達は去って行ったようだ。何もないことを確認したアグナスは床下から這い出ると、即座に変わり果てた父の姿を発見した。体中は鋭い爪で切り裂かれ血まみれとなり、息も絶え絶えとなっていた。
「アグナス、父の願いを聞け――お前は打ちかけの剣があることを知っておろう」
オリンの声はかすれて弱々しかったが、その中には確かな決意があった。彼の手は震えながら鍛冶台の方向を指していた。その先には未完成の剣が置かれている。
この剣はアグナスが物心ついたときより打たれているも未完成品だった。未完成品ではあるが、その刀身からは淡い光が脈動しており、まるで命を持つかのように鼓動を刻んでいるようだった。
「この剣は――お前が完成させるのだ――それがルナリエの魂との約束――」
その言葉を残すとオリンは息を引き取った。ルナリエとは何者なのかはわからないが、冷たい父の手を握り、アグナスは決意する。この未完成品の剣を完成させようと、また父の仇を討とうという漆黒の炎を胸に燃やすことに――。
***
――幾年かの時を経た。
アグナスは天涯孤独となったが、父オリンから受け継いだ鍛冶の技術を頼りに各村々を渡り歩き、鍛冶仕事や雑用をこなしながら生計を立てて生き延びた。
その過酷な日々の中でも、経験を重ねるたびに生きる力を磨き上げ、試練を乗り越え屈強な肉体と鋭い洞察力を持つ青年へと成長していった。その背には幾多の苦難と試練を越えてきた者の孤高の気配が漂い、その目には己の運命を切り開こうとする強い決意が宿っている。
彼の腰には無名の剣が携えられている。それは白鋼の輝きを持ちながらも、完成には程遠い未完成の剣だった。この剣は父が遺した唯一の形見であり、未だに刀身には打ち跡が残り、鍛造の途中で止まったかのような不完全さを抱えている。だが、その剣はまるでアグナスと運命を共にするかのように、彼の手の中で弱々しくも光の脈動を繰り返していた。アグナスにとってそれは単なる武器ではなく、父の想いが宿る分身そのものだった。
「剣に魂を込める男になるだろう」
かつて父オリンが言った言葉はアグナスの胸に深く刻まれている。彼は剣を完成させるため――父の仇を討つため――旅に出ていたのだ。それは父の遺志を継ぎ、ルナリエという謎の存在にまつわる真実を探し求める旅でもあった。アグナスの旅は幾多の困難と試練に満ちていた。
道中、アグナスは古びた鍛冶場を訪ね歩き、各地の名高い鍛冶師達と交流した。彼らの中には剣の完成に必要な技術を教える者もいれば、未完成の剣の真価を恐れ、それに触れることすら拒む者もいた。また各地の名だたる剣士や拳闘家に戦う術を学び、戦闘の技術を磨き続けた。
旅の金策は磨いた鍛冶師としての腕を活かし、各地の町や村で剣や防具を打つ仕事を請け負った。その技術は旅の中でさらに磨かれ、彼が作り上げる武具は常に評判となり、依頼人達から信頼を得ることが出来た。
時には彼自身が討伐者として深い森や洞窟などの迷宮に赴くこともあり、魔獣討伐や盗賊退治などを通じて資金を稼ぎつつ、自身の戦闘技術を実戦で鍛え上げていった。アグナスはいつしか<灰月の鍛冶師>と呼ばれ、名声を高めており、この頃には剣は完成の域に達していた――。
そして、ついに<ピュリタニア>という国を訪れたときである。
この地において<モーンリス>という人狼の一族が住む隠れ里があるという噂を耳にした。その隠れ里は王国の東部<タイダルクレスト>の山々の奥深くに密かに佇んでいるという。
「<モーンリス>……父を殺したあいつらはそう言っていた。然らばヤツらは……」
この人狼の一族は人間を極度に恐れていた、。その白銀の體と持つ力故に古来より人間達に狙われてきたからだ。彼らの骨や毛皮は希少な素材として高値で取引され、一族は長きにわたり迫害と戦いを余儀なくされていたという。
時に彼らは人間の姿を借りることで生き延びようとしたが、やがて人間の欲望のために厳しい自然の地に追いやられたと伝承があった。その追いやられた地が<モーンリス>であるという。今では並みの人間では入り込めないほどの険しい自然の難所とされている。危険な場所ではあるがアグナスは確信した、父の仇はそこにいるのではと――。
覚悟と決意を固めたアグナスはピュリタニアの研師を尋ねた。名はバルハという老人で、ピュリタニアで最も名高い研ぎ師だという。
バルハは長年に渡り剣や防具の研磨を手掛け、多くの戦士や貴族達から信頼を得ていた人物である。アグナスは彼を訪ね、どんな凶暴な魔獣や野盗に襲われても対処できるように自身が持つ剣を差し出した。刀身は美しい月光のような輝きを放っている。バルハは剣の刀身を宝玉でも見るかのように眺めていた。
「これは……珍しい剣だな。その刀身はただの鋼ではない。いやこれは……」
「どうした?」
「何でもない。それより、これを作ったのはあんたかい? <灰月の鍛冶師>よ」
「俺ではない。同じ鍛冶師であった父オリンが遺したものだ」
バルハはそっと太い指で剣を握り、その重みと刀身の質感を確かめるようにしばらく沈黙していた。彼の瞳には剣の輝きが映り込み、まるでそれが一種の神秘的な儀式用いる神器であるかのように映っていた。暫くして、バルハは慎重な口調で言葉を紡いだ。
「この剣を研ぐ必要はないだろう」
「必要はないだと?」
「おうさ、そもそもこいつは刃こぼれもしていないし、刀身には既に驚異的な力が宿っている。この剣は普通の武具ではない――何故俺のところに持ってきたんだい」
アグナスはその問いに答えることは出来なかった。この父が残した剣はこれまでの戦いで幾度か使用してきたがどんなに固い魔物の肉であろうが、鱗であろうが斬っても刃こぼれ一つしたことがない。
それを何故わざわざ研師のところに持ち込んできたのか……それは長年に渡り蓄積した父殺しの人狼達への復讐心から来る焦燥感と、不確かな未来から来る迷いからである。アグナスは剣を見つめながら静かに答えた。
「この剣は俺自身の運命を繋ぐ鍵であると思っている。だが、それが完全に正しい道なのかは確信が持てないのだ」
運命を繋ぐ鍵。
実のところアグナスはこの剣に父の秘密が隠されているのではないかと思い始めていた。アグナスがそう考える理由は、この剣がただの武器としては明らかに異質な存在だったからだ。
父オリンがその剣を鍛える際、夜な夜な何かに語りかけるように作業を続けていたのを幼い頃に目撃した記憶がある。その時の父の背中はどこか重苦しく、そして何かを守り抜こうとするような意志が感じられたのだ。また、理由が他にもあった――それはあの父が殺された日に人狼達に言った言葉である。
――愛しいものの遺骨を使い、剣を鍛えた。
その意味から察するに、この剣は何かの骨を使い鍛え上げた代物であるということだ。ピュリタニアの地では、かつて人狼の骨を使用した武具の製造をしていたという話が残っているが、時の王により外法として禁止されたという。
もし、その技法が今でも伝わっていたら――素材に人狼の骨を使用していたと仮定するならば――父が人狼達に突然襲われ、惨殺された理由はこの剣にあるかもしれないと思ったからである。
「運命を繋ぐ鍵か……ふむ、なるほどね」
バルハはその言葉に深く頷きながら、アグナスに向けて慎重に語りかけた。
「お前さんはそこらの英雄気取りのゴロツキとは違い、自分の行動がどれだけの意味を持つのかを理解しているようだな。年寄りの俺から言えることはお前は覚悟を持ち、自分の進む道を信じることさ」
その言葉がアグナスの胸に深く響いた。
「すまなかったな、その剣は研ぐ必要がない代物だった――。俺は少しばかり臆病で慎重になっていたのかもしれない」
「気にするな<灰月の鍛冶師>よ――神のご加護があらんことを」
「そちらもな、研師バルハよ」
彼は剣を見つめ直し、父の遺志、ルナリエという名に秘められた謎――また人狼達への復讐の炎を新たに燃え上がらせるのであった。
だが、アグナスの心中に曇り、ざわめきが残っていた――それは剣に秘められた真実が、ただ父の遺志や人狼たちへの復讐に留まらず、もっと大きな何かを抱えているのではないかという予感である。
アグナスは、剣を通して聞こえるような気がする微かな響きを思い返していた。それは時に彼を励まし、また時に惑わせるような不思議なものだった。その響きが何を意味するのかは、彼にはまだわからない。ただ確かなのは、この剣が単なる武器ではなく、父オリンやルナリエという存在、そしてフェルニアスの一族と深く関わっていることだった。
***
ピュリタニアの東部に位置する難山タイダルクレストは、切り立つ崖と深い森が連なり、かつて誰もがその険しさに心を挫かれたと言われる。山道にはいくつもの仕掛けがあり、魔獣や魔竜が獲物を狙い、迷い込んだ登山者達が命を落としてきた場所であった。
「<モーンリス>はここのどこかにある……」
アグナスは険しいタイダルクレストの山中深くまで足を踏み入れていた。ここに人狼の一族が住む隠れ里がある――だがどこにあるかはわからない。これまで多くの冒険家を偽る密猟者が入り込んでいったが、這う這うの体で帰るか、そのまま遭難して死に至るしかなかった。
「何かを知ることができるかもしれない。不思議とそんな気がしてならない」
腰に帯びた白鋼の剣に手を触れた。その刀身は相変わらず淡い光を脈動させ、まるで導き手のように鼓動している。アグナスの心には微かな恐れもあったが、それ以上に進むべき道を信じる確固たる意志があった。それに何故か不思議で懐かしい感じがする。
「この感覚は何だ……」
アグナスは摩訶不思議な気持ちになるも険しい山中を進み続ける――すると周囲の霧が次第に濃くなり、視界を遮った。霧の中からは低く唸るような音が聞こえ、それが魔物の気配であることを彼はすぐに察した。
「何かが来る」
腰から剣を抜き警戒する。鋭い聴覚を頼りに、周囲の音を慎重に聞き分ける。そのときだ、霧の中から現れたのは人のような姿をした影が現れた。しかし、次第に近づくにつれてその影が獣じみた輪郭を持っていることが明らかになった。銀色の毛が霧の中で輝き、黄金色の瞳が暗闇を切り裂くように輝いている。
「一人でこの地に足を踏み入れるとは、命知らずなことだな」
現れたのは齢四十半ばの人間であった。アグナスとよく似た髪の色をしているが、鮮やかな銀色に輝いており、神話の時代を記した伝記に登場する人物のような威厳をまとっていた。しかし、服装はボロの装いでもあり、どこかこの地の険しさを象徴するような姿だった。
彼の体は堂々としており、人間の姿でありながら、どこか獣じみた威圧感を放っている。その目には鋭い黄金色の光が宿り、まるで相手の本質を見抜くかのようにアグナスを見つめていた。
「私はこの地の者でザラストラ、フェルニアスの血を引く者の一人だ」
「フェルニアス!」
アグナスは身構えた。目の前にするこの男がフェルニアス――人狼の一族であるというのだ。おそらくは彼らが持つ擬態、変身の類の能力を用いて人の姿をまとっているのだろう。
「人間よ……お前が恐がらぬよう今は同じ姿をしている」
ザラストラと名乗った男は静かに述べ、アグナスの持つ剣をじっと眺めていた。彼は黄金の瞳を持ち、アグナスの腰に帯びた白鋼の剣に鋭く注がれる。その視線にはただの興味ではない。深い怒りと哀しみ、そして愛情が入り混じっているようだった。
「その剣……それが我が妹のルナリエの骨で作られた剣か」
「どういうことだ」
「魂の声でわかる。そうか、お前が鍛冶師オリンの息子か」
アグナスは剣を握る手に力を込めながら、目の前の男――ザラストラの言葉に耳を傾けた。
「父を知っているのか」
「よく知っている。彼奴は旅の鍛冶師として、また密猟者として、この世で最も強力な剣を作るなどという下らぬ夢を追い続けていた」
アグナスの眉がピクリと動く。
「密猟者だと? 父がそんな人間だったとでも言うのか!」
ザラストラの黄金の瞳が鋭く光る。その瞳に凝視されたアグナスは二、三歩後退した。このザラストラという男は構えを取らぬとも、強き獣の威圧感を放っていた。
「お前の価値観ではどうか知らんが、我々フェルニアスの一族にとっては明確に『密猟者』だ。我らを鉱物と同じとして見ている他の人間達と変らない」
「まさか父は……」
「そう、我らフェルニアスを狙っていた。欲する同じ仲間と手を組み、我々が住む里を目指してタイダルクレストに入った。しかし、お前の父は仲間とはぐれ、山中に迷い込んでしまった――そうして、運命的に我が妹ルナリエと出会ったのだ」
ザラストラの語りには、どこか哀愁と苦しみが滲んでいた。アグナスは剣を握りしめながら、じっと彼の話を聞いていた。
「ルナリエはお前の父が怯えぬよう人間の姿を借りて命を助けた。我々も人間の姿を借りて暫く彼奴の様子を見た。彼奴をどうするか<モーンリス>では論争が起きたが、ルナリエはオリンを救うことを主張し続けた。理由は単純だ――ルナリエは彼奴に惹かれてしまったのだ」
「人狼の一族が? 馬鹿な……」
「太古の昔からの言い伝えだ。人間と人狼の種は同じであったが進化の過程で異なる道を歩んだ。我らフェルニアスの一族は人間と同じ心があり、愛し、悲しむ感情も同じだ。ルナリエも例外ではなかった。彼女がオリンに惹かれたのは、心根に持つ純粋なまでの『強き剣』を求める子供のような感情に共鳴したからだろう」
ザラストラの言葉にアグナスは驚きを隠せなかった。人狼がかつて人間と同じ起源を持っていたという考えは、これまで聞いたことがなかったからだ。
「オリンもまた、ルナリエを人狼ではなく一つの魂として愛した。だが、それは一族の掟によって許されるものではなかった。フェルニアスの一族は外部との深い絆を禁じている。過去に幾度も人間との関係が悲劇を招いたからだ」
ザラストラの声には、哀しみと怒りが入り混じっていた。彼の言葉が進むたびに、アグナスの胸中は複雑さを増していった。まさか、このルナリエという人狼こそが自分の――。
「我々はオリンを罰するか、禁忌を犯したルナリエを罰するか、それとも二人とも罰するか――里では数十日の議論を重ねた結果、長老の提案でまとまった。二人とも条件付け、ここから汚らわしい外の世界へと追放することにしたのだ」
「条件?」
ザラストラはこくりと頷いた。
「一つ、<モーンリス>のことは他言しないこと。二つ、ルナリエは一生人間の姿のままで暮らすこと。三つ、ルナリエが死んだ場合はその遺骨を<モーンリス>へと弔うためにオリンが戻ることだ。一つでも約束を破った場合は我らの一族から刺客を送り込み、闇へと眠ってもらうことにした」
「ならば……父は……」
「禁忌を犯した、彼奴は三つ目の約束を破ったのだ」
「そうか……俺の母は……」
アグナスは己にフェルニアスの血が流れていることを悟り、手に持つ剣を見つめた。その刀身は淡い光を脈動させ、まるで彼に語りかけるかのように鼓動している。幼き時にいなかった母はずっと彼の成長を見守っていたのだ。その瞬間、アグナスの心には嵐のような感情が押し寄せる。
彼の目の前にある剣――それは、単なる父オリンの遺した武器ではなく、母であるルナリエの魂そのものだった。その現実を受け入れるには時間が必要だった。しかし、剣を握る手から伝わる温かな感覚――それは、まるで母ルナリエが自分に語りかけ、慰め、支えてくれているかのように感じられた。ザラストラはアグナスの様子を見守りながら、静かに語りかけた。
「そうだ、ルナリエはお前の母親だ。禁忌を犯した罪を背負いながらも、最後までお前の父を愛し抜いた。彼奴は最後に言った、ルナリエの最期の願いは『子を護る剣』になることだったと……強き剣を求めたオリンは、最後には護る剣を作ろうと決心してその願いを叶えたのだ。だが、それが我らの掟に反する行為だったことも否めない」
胸に広がるのは怒りと悲しみ、そして愛情の入り混じった複雑な感情だった。アグナスは剣を見つめたまま沈黙する。その刀身は微かに脈動し、彼の心情に呼応しているかのようだった。母ルナリエの魂が自分を守り、支えてきたという事実――それは彼の心を強く揺さぶった。
「……母が、俺を見守り続けていた……」
その言葉を口にすると、アグナスの胸にこみ上げていた感情が一気に溢れ出した。彼は剣を握りしめ、その冷たさの中に宿る温かさを感じた。それは、ただの武器ではなく、母の愛そのものだった。ザラストラはその姿を見守りつつ、低く穏やかな声で続けた。
「ルナリエの愛は純粋だった。そしてオリンも、その愛に応える形で剣を鍛えた。それは許されざる禁忌だったかもしれないが、お前にとってそれが何を意味するのか……」
アグナスは剣を握る手に力を込め、ゆっくりと顔を上げた。そこには人間の姿ではなく銀色の毛並みを持つ人狼が立っていた。
「お前の父を殺したのは私だ。斬るならば斬るがよい」
アグナスはザラストラの言葉を聞き、目を見開いた。目の前に立つザラストラは、その身体全体から静かな覚悟を纏っている。同胞の血、妹の血、愛する者の血が流れる人間の気が住むのならそれでよいという決心である。
仲間を連れず、一人でアグナスの前に現れたのは事実を伝え、アグナス自身の判断に委ねるためだったのだろう。ザラストラはその黄金の瞳でアグナスを真っ直ぐに見据え、静かに立ち尽くしていた。その姿は覚悟と贖罪である。
剣を握りしめたままアグナスは、内なる葛藤に苛まれていた。父を殺した男が目の前にいる。それを斬ることが当然の報いであり、正義であるはずだった。しかし、この男が語った真実の重み――父オリンの苦悩、母ルナリエの愛、フェルニアスの一族の掟に縛られた運命――すべてがアグナスの怒りを複雑な感情へと変えていた。
「……俺がこの剣を振るう理由は復讐だけではない。父の遺志を継ぎ、母の魂を宿すこの剣の本当の意味を知るためだ」
アグナスは剣をザラストラの喉元に突きつける。白刃が面前に迫るザラストラは目を閉じ、覚悟を決めている様子であった。
「お前が父を殺した罪を赦すつもりはない。だが真実を知った今、この剣をただの復讐の道具にはしたくない――」
アグナスの声には怒りだけでなく、深い悲しみと覚悟が混じっていた。彼は剣をゆっくりと下ろし、鞘に収め、ザラストラへと差し出した。
「――父に代わり約束を守ろう。母の魂を弔ってやって欲しい」
その言葉にザラストラの瞳がわずかに揺れた。その黄金色の目には驚きと敬意、そして深い慈しみが宿っていた。彼は暫しの間、アグナスの顔と差し出された剣を交互に見つめ、やがてその大きな手で剣を受け取った。
「……オリン、いやルナリエの息子よ。この魂は受け取ろう」
その剣をザラストラ優しく抱えた。まるで赤子をあやすように――。
「<モーンリス>の奥深くにある<魂の泉>に、この剣を連れて行こう」
「<魂の泉>だと?」
「我が一族の安寧なる寝床となる場所の名だ。その地でルナリエの魂は解放される」
アグナスは深く息をつき、ザラストラの言葉に頷いた。
「一緒に連れて行ってくれないか……母の魂が安らかに眠れるその瞬間を、自分の目で見届けたい」
ザラストラは頷くと、再びその厳しい顔に微かな柔らかさを宿らせた。
「よくぞ帰ってきた――我が同胞よ、家族よ。オリンとルナリエの息子ならば、里の者達も歓迎するであろう」
アグナスは剣を持たない右手で胸を押さえる。
剣に込められた愛が、アグナスの心を強く締め付ける。
それと同時にアグナスの旅の終わりが、ようやく見えてきたような気がした。
「その地を知ることにしよう。俺は剣を打つ者の子であり、銀の血を持つ者の子なのだから」
――王国ピュリタニアの東部に位置するタイダルクレストには、昔より伝説が息づいている。この山には人狼フェルニアスの一族が住むとされる隠れ里<モーンリス>がある。
そこには<フェルニアスの剣>があるとされ、その剣は白絞色の刃軸を持ち、月の光に射されるたび、凝りつくことなき光の緋箔を放つという。この剣は太古の鍛冶師オリンとその息子アグナスが打った剣で、魔獣の固い肉を斬り、龍の骨を断ち、鉄を容易く裂く威力がある名剣であったという。
<フェルニアスの剣>――その剣に込められた物語は時を越えて、今も民話の一つして語り継がれている。また王国ピュリタニアの空には、満月の夜になると淡い光が山間に漂うと言われる。その光が、<フェルニアスの剣>に宿る魂の輝きだと信じる者もいるという――。