第1話
墨を磨る。水の中で滲み出し、ゆらゆらと漂い、ぬるついた黒で塗りつぶそうとするその豪胆さ。この瞬間が一等好きだった。
何かを支配しようとするその空気。そして雰囲気。脳内にしか現れない瞬間を、筆でもって紙に描き起こす。
腕にはらりと落ちてきた袖をたすきに巻き込み、面相筆を構えた。
昨晩、目に焼き付けた男女のさざ波。外にいる人間を引き込むために、この狭い吉原で起きるよしなしごとを今日も紙一枚に収める。
そのとき耳に届いたしゃらり、という気品に溢れた水滴が、真っ白な和紙に新たな波紋を呼び起こした。
今のは何。
顔を上げる。
ちん、とん、しゃん。それから燻る香の煙がここまで流れ着いて、意識を引き込んだ。
狭い弁柄格子から見えるのは滑らかなうなじと、外八文字に合わせて揺れる髪飾り、そして真っ赤な蜻蛉柄の打掛。それを隠すように、菱形三つが連なった家紋が主張する番傘が翳されている。
からん、と筆が指から滑り落ちて、畳に墨の蚯蚓が走った。そんなこともお構いなく、暗い一室を飛び出す。木張りの階段を騒がしく降り、周囲の客や女郎は酷く驚いていた。
「八千代姐さん、今のは……?」
「方月、そこはお客さんの迷惑だよ」
張見世に腰を下ろし煙管を指先で弄ぶ姉女郎に尋ねると、方月はぴしゃりと怒られる。
「お願い、あの人が誰か教えて」
方月のいつもの調子に八千代は呆れて見せた。あんたはいつもそうだ、と方月は言われても、性分だからと言い訳するしかない。
「だって、あの人のことが描きたいの! 弥一さんなら知ってる?」
「気安く忘八と関わるもんじゃないよ」
方月は真っ当な指摘にむっとして、見世から飛び出した。
前田屋と同じ江戸町一丁目にある見世の花魁には間違いないはずだ。しかし彼女はすでに茶屋に入ってしまったのか、姿を見つけることができない。
方月がとぼとぼと暖簾をくぐると、聞かせるように八千代がため息をついた。
「あんなのがいたらたまったもんじゃないよ」
「やっぱり美人なの?」
方月の発言に、八千代は側で三味線をかき鳴らしていた芸妓と顔を見合わせて、大げさに目を見張った。
「顔も拝んでないのに、絵を描こうと思ったのかい」
「後ろ姿でわかる。あれは美人だって」
「じゃあ逆に言や、あんたの目は節穴だね」
八千代はふっと鼻で笑って煙管を咥えた。
なんだと。方月はあんまりな言い分に眦を吊り上げる。言っても雅号方月、この前田屋に貢献しているほどには絵で稼いでいるのだ。正体不明の春画絵師として、重三郎何某にも力量は認められている。
「あれ──秋津花魁は男色専用ってやつだよ」
長い煙が口から吐き出される。八千代の視線の先は見覚えのない客だ。その男性は軽く頬を染めて八千代の唇にくぎ付けになっていた。八千代はそれをわかって白い手首を返した。
八千代は絵になる。身体もいいし、所作もあでやかだ。春画を買う者はそれを求めている。
でも方月はそうじゃない。
「大見世玉屋の一番人気だ。男色家は金回りのいい莫迦が多いからね」
「なら絵も高く売れる?」
「春画に男色を描こうってか、そりゃいいね」
店番をしていた若い衆が話を聞いていたのか、方月の言葉を笑い飛ばした。それを筆頭に、皆くすくすと笑って気味が悪い。方月はもういい、と彼らに背を向けた。
方月に和紙を一枚駄目にさせた、玉屋の秋津花魁。あの艶やかさと同時に孕んでいた強さを絵に閉じ込めたい。
まだ騒がしい夜の街の声は遠くのさえずりに代わる。方月は少し乾いた墨に水を足して、淡い墨液に筆先を浸した。
吉原の夜はまだ続く。
襖の開く音が意識の外で聞こえた。
「うわっ、どんだけ描いてたんだ」
店番の若い衆の声だ。
方月は差し込む光に顔をしかめながらうめき声を上げる。
「はあ、どれもこれも駄作だな。結局墨で塗りつぶして、男女にしてやがるじゃねえか」
そう。つまり試みは上手くいかなかったのだ。見たことないものはかけない。そも、男同士で何をどう楽しむなんぞ十五の方月には到底想像つかなかった。
「おい、起きろ。もう二日何にも食ってねえんだ。粥持って来たから食え。その後にでも飴屋に顔だしな」
方月はたすきの蝶々結びを解かれ、帯を引かれて起こされた。空腹のあまり、方月はふらふらとしていた。二日も寝食忘れて没頭するなんて珍しいことではなかったが、前回からは半年ぶりのことだったのだ。
ぐう、と鳴る腹に左手を添えて、右手は匙に伸ばした。気だるい体を奮い立たせるためにも、湯気の立つ卵粥を口へ運ぶ。
一口咀嚼し飲み込んだのを確認した若い衆は、一つ頷いて部屋を出て行った。からかって悪かったと思っているのだろうか。いつもは盆一つ持って来るなり立ち去る癖に。
方月はもう一口口に運ぶと、そのまま匙を咥えて格子の外を眺めた。
さて、どうやって秋津に頼み込もう。
方月は吉原で行きつけの飴屋の暖簾をくぐった。吉原でこの身なりの少女と言えば前田屋の居候絵師。そう決まっているので、中にいた客の誰もその貧相な娘に驚いたりしない。
方月は握り締めていた小銭を亭主に手渡して、ざるにすし詰めな飴玉を眺める。
「今日もおまけするよ」
亭主は方月ににっこりと微笑みかけてそう言った。
「繁盛してる?」
そして店の奥に飾られている大きな一枚絵に目を向けた。禿の少女二人が猫と戯れている様子を描いたものだ。
方月の質問に亭主は満足げに頷いた。
「あれを見にくる者もいるからねぇ。夜もね、『あの方月の絵を見に来た』と言って飴を買って帰る外の人間もいるもんだ」
「それはよかった。あ、お代分全て薄荷で」
「あいよ」
亭主はさっと紙袋を用意すると、大きな匙で掬って入れる。おはじきがぶつかるような音が袋に閉じ込められていく。部屋に戻れば瓶に詰め直すのだが、この瞬間も見ていて楽しい。
方月が絵を描くときにはこの飴が必須なのだ。これが無いと、寝食忘れてしまった時、今朝のように気を失ってしまう。
ずっしりと重みを帯びた紙袋を受け取って、再び暖簾をくぐろうとする。
そのとき急に視界が暗がり、方月は陰にぶつかった。じゃらり、と飴玉が袋の中で叫ぶ。方月は接触した額を抑えて顔を上げた。
「……」
こんな人間が吉原にいるとは。
方月はその人を見てまずそう思った。というのも、その若い男性は歌舞伎役者のようだったのだ。花のある目元に、筋の通った鼻。一つ違和感と言えば、頭に月代がない。
「大丈夫か」
彼は尻もちをつく方月に、やけに白い手を伸ばしてきた。
働いたことがなさそうな手をしている。芸妓ですら肉刺があるというのに、どこかの見世の息子か。
「いえ、一人で立てます」
方月は手を借りずに立ち上がると、彼の巾着に菱形が三つ連なったような模様を見つけた。
「玉屋!」
気づけば方月はそう叫んでいた。
昨日、番傘で見た玉屋の家紋だ。
「玉屋の人ですか」
男性は方月の気迫に戸惑いながら頷く。
これは僥倖だ、方月はそう思ったら止まらなかった。
「ここの飴を奢りますから、話を聞いてくれませんか」
男はその形のいい眉を互い違いに動かして、一つああ、と言った。