8話 指先に残る冷たい感触。
「事情はよく分からないけどわかった。白崎さんをうちに泊めてあげたらいいんでしょ」
「あっさり了承してくれるんですね」
意外だった。断られないにしても訝しがられたり難色を示されると思っていたから。
「えぇ? 別にあっさりじゃないけど?」
先生はそう否定したものの、急に他人を家に泊めるなんて簡単にできることではないはず。
「女の子は腹くくれば何だってできちゃうからねー。知らない人の家に一泊くらい。それを考えれば、うちに泊めてあげたほうが安心でしょ?」
そういうことか……。なんというか、その言い方はまるで経験がお有りかのよう。あれ? そういえばさっき気持ちは分かるって……。
「おい、何見てんだ小僧。言っとくけど私は真っ当に働いた金で家をでたからな」
ギロリと睨まれてしまった。
「まぁ、とりあえず親御さんの許可さえ貰えれば大丈夫だから。それだけ白崎さんに言っといてくれる?」
「俺がですか?」
「当たり前でしょ。私は宿を貸すだけね」
「なんか、淡白ですね」
「教師と生徒なんて所詮他人だからねー。教師って立場もあるから立ち入れないことだってあるよ」
「教師ってそんな感じなんですね」
「ははん? もしかして、私が家庭の問題にズカズカ踏み入ることでも期待した? ざんねーん、時代が古いよチミぃ。学校っていうのはね、勉強だけをしにくるところなんだよ」
そう言った先生は、引き出しからなんかキモいキャラクターのキーホルダーがぶら下がった車の鍵を摘むように取り出すと俺へと差し出してきた。
「ほれ、車の鍵。駐車場行ったら分かると思う。もう少しで終わるからそこで待っててって」
こうもあっさりと車の鍵まで渡してくるとは。拍子抜けとはこの事を言うのかもしれない。
「あの……ただの疑問なんですけど、先生ってペダルに足届くんですか」
「バカにするなよ小僧」
またギロリと睨まれてしまった。
その後、職員室を出ると、白崎は扉の横の壁に背中を張り付けるようにして立っていた。そんな彼女の視界に渡されたキーをぶら下げてみる。
「ナマキモノじゃん」
「なまきもの? あぁ、コイツか」
それはたぶんキーホルダーのキャラクターの名前だろう。渡された時はよく見もしなかったが、改めて見るとナマケモノがモチーフのキャラクターだとわかる。
そのナマキモノとやらが、苦しそうに舌を出してぷらんとぶら下がっているキーホルダー。
「これは木から落ちないよう枝と自分の首をロープで繋げて喜んでたら、足を踏み外したときのナマキモノ」
「どんなキャラクターだよ……」
白崎の説明には絶句せざるを得ない。
「ナマキモノは抵抗しないんだよ。自分の死を悟ったらそのまま何もせず死ぬの」
「先生も、なんつーもん付けてんだよ」
「わりと人気あるんだよ。というか、それ先生の?」
「ああ。車の鍵」
その答えに白崎は「なんで?」と表情で問いかけてくる。
「泊めてくれるそうだ。仕事が終わるまで車で待っとけって」
その表情は一瞬で曇った。
「話したの?」
「いや、話してない」
「話してないのに泊めてくれるの?」
「宿を貸すだけって言ってたぞ。家庭の事情には立ち入らないつもりではあるらしい。両親の許可だけ得るようにだとさ」
怪訝そうな顔が口を開く前に俺は車の鍵を押し付けてやる。
「家に帰りたくないんだろ。甘えとけ」
「なんで」
「そんな気がしただけだ。違うなら帰ればいい」
「……でも、家にはなんて連絡したら?」
「先生の家に泊まるでいいだろ。それか、明日は帰るとだけ連絡しとけ」
「どことか理由とかも話さずに? それって許可じゃなくない?」
「理由は何でもいいし、なんなら友達の家って嘘でもいい。許可なんていちいち取ってたら何もできないだろ」
「急に泊まるなんて変に思われるんじゃ? 警察に連絡されたら……?」
次から次に心配事を言いだす白崎には疑問しかない。なにがそんなに不安だというのか。そもそも彼女は無断で死のうとしていたのに。
「警察に連絡されたってそん時はそん時だろ。どのみち泊まるところはちゃんとしてるんだから事後報告でいい」
「どうなっても知らないよ?」
――どうなっても知らない。
その脅迫めいた文言を、俺は鼻で笑ってやった。
「大丈夫だ。どうなっても俺はその全てを知ることになるだろう」
それは単に言い返すためだけに発した脊髄反射。言い負かすことだけに重きを置いた適当な物言い。そこに意味などなく、不安だと言うから大丈夫だと言い、知らないと言われたから知ると返しただけの単語の羅列。
そんな適当が白崎には効いたのか、口を開いて何か言いかけたものの、やがて無言でその鍵を受け取った。それからスマホを出した白崎は、俺が言った通りの言葉を打ち込み一呼吸置いてから送信。
「返信したくないならもう電源切っとけ」
「……うん」
そのまま白崎はスマホの電源を落とすと、壁に背中を預けて何もない虚空を仰ぎ見た。そこから視線だけを俺にむける。
「反抗期なのかも」
どこか申し訳なさそうな薄ら笑いを浮かべて。
「良かったな。非行を正当化してくれる、ありがたーい反抗期なんて言葉があって。反抗期に甘えとけ」
「……お気楽だね。人の気も知らないで」
「まぁ、俺はその全てを知ることになるだろうがな」
やがてその薄い笑いは、俺に向けられた嘲りへと変わった。
◆
いつもの帰宅時間から大幅に遅れた午後6時の自宅。居間ではテレビが付いていたものの、それを見ているはずの妹の優奈は、ソファで横になりながら両耳イヤホンでスマホを横にして動画を見ていた。
いや、見るならどっちかにしろよ。
そう思ってテレビの電源を切ったのだが、
「見てるんだから消さないでよ」
イヤホンを耳から引っ張り抜いた優奈に文句を言われてしまった。
「スマホいじってただろ?」
「見てたんだけど。お兄ちゃんは「ご飯食べるかテレビ見るかどっちかにしなさい」って言われても困るでしょ?」
「それは目と口でやってることが違うからだろ。テレビとスマホなら目と目じゃねぇか。しかもイヤホンしてたんだからテレビの音が聞こえるわけがない」
「お兄ちゃん、ながら観って知らないの?」
そう言ってやれやれと肩をすくめてみせる優奈。
「ながら観って、そんな自慢げに使う言葉じゃないぞ」
「わかってないなぁ。時間の倹約なんだよね、これ。同じ時間を使って多くの情報を得る方法。しかも動画は二倍速で観てるからさらに情報取得最効率」
「それ、一つのことに集中できなくなるからやめたほうがいいんだがな」
もはや優奈の謎理論にはため息しか出なかったものの、見てたというのならテレビはつけるしかあるまい。
「てか今日遅かったね? どしたん」
「部活」
「そだったんだ。おつかれーって、ええ!?」
ソファに横になり直した優奈は、腹筋だけを使って飛び起きた。
「お兄ちゃんが部活!? なに入ったの!?」
「演劇部」
「なにそれ……てか、お兄ちゃん演劇なんてやってたっけ?」
「やってないな」
そう答えると、優奈は訝しげに目を細めてくる。
「……運動系はやらんの?」
「運動系ってなんだよ」
「いろいろとやってたじゃん。サッカーとか野球とか水泳とかさ」
「あれは声かけられて大会に出てただけだろ。それに小学生のときの話だ」
「でも活躍してたし才能があるってことでしょ? もったいないよ」
「運動なんかよりも勉強のほうが将来のためになるとはやくに気づいただけだ。俺は運動もできたが賢くもあったからな」
そう言ったのだが、優奈が視線を緩めることはなく、
「うちのせい?」
そんな一言を放った。
「そんなわけないだろ」
そう否定したものの、眉根を寄せた不満げな顔はジッと見続けてた。
やがてようやく諦めたのか視線はスマホへと戻り、イヤホンも再び両耳に装着。
「まぁ、別にいいけどさ」
ポソリと呟かれた言葉は俺にではなく、優奈自身に吐かれたもののように思える。
まぁ、納得してないんだろうな。なにせ、俺がいろんなことを辞めてしまったのは妹がキッカケではあったのだから。
それは七年前――ある晴れた冬の日の夕方。小学3年生だった優奈は河川敷から川に突き落とされたことがある。
俺の目の前で。
優奈を突き落としたのは俺よりも上の6年生たちだった。
そして、奴らは俺がケンカで倒したことのあるいじめっ子たちでもあった。
人は、どうしたら相手に一番ダメージを与えられるのかをよく知っている。彼らが復讐をするために選んだのは俺の妹だったのだ。
咄嗟に助けようと川に飛び込もうとした俺の身体を彼らは引っ掴んで邪魔をした。彼らは水面で起こる小さな飛沫よりも、地面に這いつくばる俺の姿を見てニヤついていた。
それでも何とか飛び込んだ川の刺すような冷たさに、妹が今もなお晒され続けている事を理解し肝まで冷えた。
溺れる妹までの距離があまりにも遠く長く感じられて泣きそうになり、それでも助けられるのが自分しかいない事実に死ぬのかと思った。
無我夢中で辿り着いた優奈の身体を河川敷まで引っ張りあげたとき、その身体に意識はなくぐったりとしていた。
結果として幸いだった事はいくつかある。
通りすがった人がすぐに救急車を呼んでくれたこと。極寒の水中に急に入ったせいで優奈の意識はショックを起こして無呼吸状態になり、そのお陰で肺に水が入らなかったこと。そして、俺が水泳を習っていたこと。
様々な偶然が重なり、奇跡的にも優奈は一命を取り留め後遺症も残らなかった。
最悪だったのは、俺が呆気なく復讐されるような不完全なヒーローだったということ。
あの日のことはあまり憶えていない。病室で寝ている妹を眺めていたときですら、何を考えていたのか思い出すことさえできない。
ただ、その後に得た溺水の知識とテレビで目にした水難事故のニュースの数々が、時おり夢に出てきては病室の光景をバッドエンドにさせ、川から引き上げたときの妹の身体の温度を冷たくした。
その夢は忘れた頃にやってきては鮮明に記憶を塗り替え、指先には有りもしない妹の冷たい感覚が残っている。
自分が愚かな偽善者でなければ、あんなことは起こり得なかっただろうという結果だけが、汗だくで目覚めた俺に指を突きつけてくる。
家族が死ぬ夢ほど恐ろしいものはない。それが自分のせいだった時ほど苦しいことはない。あまりにも恵まれた奇跡の数々に感謝するよりも、それを引き起こした自分の馬鹿さ加減に身体をを丸めて過呼吸に耐えるほうがずっと楽だった。
あの日以降、俺はそれまで頑張っていた全てを辞めた。そして、できるだけ自分の周りに害が及ばないことを祈ってひっそりと過ごした。
それでも、不意に取った自分の行動が誰かに取り返しのつかない何か及ぼしてしまっているのではないかと恐怖に駆られ、まるでその罪を償おうとするかのように免罪符の善を欲してしまう。
自分では止められない最悪が再び訪れた時、できるだけ積んだ善行が奇跡を起こしてくれるのではないかと期待して。
俺が目の前の誰かを助けたいと願うのは聞いたこともない病気だからでは決してない。
腹の奥底に沈殿する罪悪感と差し迫る恐怖、そして、曖昧でなんの根拠もない淡い願いからだった。
そんな自分の矮小さが嫌で変わろうとしたこともあったのだが、結局……生き方を変えるのは難しいのだということにも気づかされた。
――恐怖って感情は別の感情を抑えつけられるから。
部室で白崎が放った言葉は人間をよく捉えていると思う。
どれだけ頭で理解していても、刻み込まれた恐怖が消えることはない。その恐怖をもう二度と経験しないためにはどうするべきかを頭では考え続けてしまうのだから。
白崎が俺に向けた嘲りはきっと、そういう類のものだろう。
『何も知らないくせに、気持ちを理解することもできないくせに、勝手な言葉で善人ぶるな』
おそらく、そういう意味合い。
安心しろよ白崎。俺は善を欲する生き方を変えることを諦めたが、同時に善人であることすらをも諦めたんだ。お前が何に怯えているのか知らないが、死よりも怖いことはたぶん俺にとっては怖くもなんともない。
だからまずは――藪をつついて蛇を出す。