24話 早熟の代償
演劇部室内は静寂に包まれていた。本校舎から離れているせいか生徒たちの声も朝練の掛け声すら聞こえない。
まるで世界から切り離されたかのようなこの空間で、俺たちですら沈黙しているのは白崎がなかなか話しださないせい。
「いや、話してくれないと何もできないんだが」
重苦しい空気に呼吸すらしづらくなって、ようやく吐きだした言葉に白崎はわかりやすく狼狽。
「その、どこから話せばいいか……」
「話したいところから話せばいい」
「ちなみに、どこまで知ってるの……?」
「昨日会った親父さんとお前との間に血の繋がりがないってことくらい」
「そう……。じゃあ、あの人がお母さんの再婚相手っていうのは知ってるんだ」
何気ない呟きのなかで、白崎は父親のことを「あの人」と呼んだ。その他人行儀さが、白崎における彼への嫌悪を如実に示している。
「私、中学生の時に痴漢にあったことがあるの」
そして、白崎は全く予想もしていなかった切り口から話を始めたのだ。
「ちかん?」
思わず聞き返してしまったのは、聞き間違いだと思ったから。
「痴漢って知らない? 電車で男の人が体の一部を故意に触れてくる行為のことだけど」
しかし、聞き間違いではなかったらしい。
「……知ってる。というか、体の一部って言うな。手だろ?」
「最初は手だったけど」
「あー……わかった。俺が悪かった。それ以上言うな」
察して彼女の口から〝その単語〟が出てくるのを回避。
おとなしく聞くことに徹したほうがよさそうだ。
「でも、その人たちは一ヶ月くらい電車に乗るのをやめてたらいなくなってくれたんだよね」
「その人たち?」
それでも引っかかる言い方には聞き返さずにいられなかった。
「その……複数人いたわけではなくて、痴漢にあったのが一回じゃないって意味。半年で三人くらい」
「まて……中学生って言ったよな? 最近の女子中学生ってそんな劣悪な登校を繰り返してるのか?」
「わからない。こんなこと誰にも話したことないし、たぶん誰も話さないと思う」
おいおい、優奈も中学生なんだが。
俺は今頃登校を済ませているであろう妹に思いを馳せる。幸いなことに優奈は自転車通学だが、電車に乗るたびにそんな危険が身近にあると思うと、他人事ではいられなかった。
「でも、多いほうかもね。私は誰かと一緒に登校したりしなかったから。そうしてれば違ったのかも」
「……」
いや、たぶん原因はそれじゃないのかもしれない。
なんとなくだが、そう思った。
白崎明はどこか大人びて見えた。それは身体的成長なのか雰囲気なのか、あるいはどちらもなのか定かじゃないが、制服の隙間から伸びる白い手足と首もとは子供じみていない。そして、その不釣り合いが脆い儚さにも思える。
白崎明はどこにいても目に留まった。それはつまり、悪い人間にとっても狙われやすいということでもあった。
「たぶん、そうやってその場しのぎをしてたのがいけなかったんだと思う」
そんなことに無自覚な白崎は、やはり無自覚特有の勘違いで自身を省みる。
「ジッと見られても……部屋を覗かれても……近づかずに無視していれば、いつか止めるだろうって誤魔化してたから」
そして、痴漢の話は所詮序章に過ぎないことを俺は思い知らされる。
「お母さんがいない時、あの人は……私を壁に押さえつけて無理やりキスを――」
頭を殴られたような衝撃とともに白崎の声は消えた。見れば、顔をすこしうつむかせ唇は固く結ばれている。
目は大きく見開かれていたが、その視線の先には何もない。
まるで、脳裏に焼き付いた映像を見せられているかのように、瞳は虚ろで硬直してしまっていた。
その映像について俺は訊くことができない。触れてしまってもいいのかすら迷ってしまう。
そうしてしまったら、白崎が必死に堰き止めている何かが暴れだし、彼女を壊してしまいそうな気がしたから。
だから、無力にも待つしかなかった。
ポタ、ポタと下に落ちる雫が涙だと理解していても。
それほど、白崎のいる場所は遠く感じられた。
「……悔しい。なにもかもが。あんなにあっさりとキスされたことも、それに何もできなかった自分も。それでも気を遣い続けてる私にすら」
やがて、上げた顔は力なく笑っていた。声は震え、頬には見開かれた瞳から溢れた涙が伝っている。
その表情は痛みを堪えるかのように、クシャリと歪んだ。
「もう、消えたいの。誰にも気づかれることなくひっそりと忘れ去られたい。居なくなったら悲しむ人がいるってわかるから」
喉から絞り出された悲痛な願いは、あまりにも痛々しい。
「私はただ、はやく大人になってお母さんを楽にしてあげられたら、それだけで良かったのに」
高熱に浮かされた時みたく天と地がひっくり返るような感覚に陥る。
「私のせいで壊れるのなら、最初から生まれてこなければよかった」
そして、息が止まった。
口を開いても、声をだすことすら躊躇われる。
死にたいじゃなく消えたいと零した言葉は鉛玉のように重く、そのことに俺はただ呆然とするしかなかった。
白崎の口から全貌が語られたわけじゃない。
きっと……まだ話してないこと、話せないこと、話にすらならないことはたくさんあるはずだ。
しかし、それ以上を彼女から聞きだそうなどとは思わない。
それほど、それだけの話には苦痛が込められていたから。
そして、たったそれだけ話でも分かることはある。
白崎明が守りたかったものは、彼女が必死に形を取り持っているだけで、既に崩壊しているのだと。
「白崎。お前が死のうとした理由はわかった。そして、俺がすべきことも理解した」
もはや呼吸すらままならない濡れた顔は、苦しそうにこちらを見上げた。
「お前の……いや、父親面して居座ってるアイツと戦うしかない。それはお前の母親の為でもある」
「お母さん……の?」
「そうだ」
口の中に苦味が広がる。ペラペラと出てくるこの言葉たちは、正義の名を騙る口八丁の悪だったから。
「考えてもみろ。お前が死に、お前の母親が悲しむことがバットエンドだとするなら、ハッピーエンドへ向かうにはその逆を行けばいいだけだ。お前は生きればいい。そして生きづらくしてるアイツと戦うしかない」
「……そんなことをしたら、きっとお母さんは悲しむ」
「娘を亡くすよりずっとマシなはずだ。それを俺は理解できるし、誰もがそう結論づける」
「……」
「いいか白崎。ハッピーエンドっていうのは、外にいる人間が祝福できなければハッピーエンドとは呼べないんだ」
「外にいる人間……」
「よくあるだろ? 兄妹が結婚するエンドとか。あれは外野の人間がそれに賛成するか否かでハッピーエンドかどうかが決まる。つまり、当人たちなんて最初から関係ないんだ」
白崎は何も言葉を発さなかった。ただ、頭のなかでぐるぐると何かを考えていることだけはわかる。
「誰もが祝福するこの劇の大団円は、お前が生きることを選択し悪と戦うことだ。俺はそれを全力で助ける」
「……そんなの、どうやって」
「法的措置を取るための証拠が必要だ。誰もが祝福するってのは即ち、誰もがアイツを悪だと認められなければならないからな」
「証拠……」
「アイツが、お前に精神的苦痛を与えているという確たる証拠だ」
そして、俺はその悪を口にしたのだ。
「白崎。アイツを誘惑しろ。そうやってお前を襲おうとした瞬間に、第三者である俺が乱入する」
涙は止まっていた。代わりに、その瞳には怯えや不安といった感情が揺らぎ始めた。
それはそうだろう。失敗すれば、相手から何をされるか分からないのだから。
「今日の放課後、すこし付き合えるか?」
だから、次はその恐怖を取り払ってやらねばならない。
「何するつもり……?」
人は不確定で不安定な場所に自ら向かおうとはしない。そこへ人を導くには、その場所が安心できると信じさせる必要があった。
「昨日の野球部のとこへ行って、やり残したことをやるんだ」
そう答えて、俺は拳を握り指を鳴らす。
「やり残したことって、まさか……」
その仕草で察したのだろう。
「ああ。乱闘の続きをしにいくんだ」
白崎には、乱入した俺が力付くでもその場を収められるのだと信じさせる必要があった。




