自分を失った
ふと、カフカが羨ましくなった。
いい友人を持っていたことにでも、死後に大きな名声を手に入れたことにでもない。
ただ彼にはおそらく、自らの存在に対して問うだけの精神的余裕などなかっただろうということに、僕は羨ましく思うのだ。
それでいて、繊細さを失わず、苦悩し続け、自らの仕事をまっとうしたうえで、ちゃんと病気で死んだこと。僕は彼が羨ましい。彼のように生きたかった。そうするはずだった。
しかしカフカがおそらく、自ら望んでそういう運命を歩いたわけではないように、それをよいものとして望む人間は、それとは異なった運命を行くことになるのだろう。
イエス・キリストになりたがった人間は歴史上少なくないが、そのうち誰一人としてイエスにはなれなかったし、それと同等の高みに至ったことはなかった。イエス自身は、おそらく「自らになる」必要などなく、「自らであった」のだろう。
そう。カフカに限った話ではない。「自らである」ということができたすべての人に対して、僕は羨ましく思う。その人が有名であろうと無名であろうと、だ。
僕は僕自身のことを、くだらない道化だと思っている。「自分自身である」ということができない人間であると思っている。
僕がものを書くのは、伝えたいことがあるからじゃない。伝えたいことがあって、そのためにものを書いている人の文は、読めばわかる。そこには、作られたものではない、ごくごく自然に入り込んだ「その人自身の個性」がにじみ出てくる。
僕の文章はいつだって、「作者の暇つぶし」なのだ。伝えたいものもなく、表現したいものもない。ただ、自らの困惑や思考の道筋をそこに刻んでいるだけ。それに対して抱く印象は、雑然とした獣道。人格や性格というよりも、そのときの気分や思い込みといったものばかりが前に出てくる。
つまらない小説と同じだ。
自らである、ということができない。当然「自らが書く」ということもできない。僕はものを書くとき、必ず仮面を被る。僕自身が直接この手で書いているのではなく、僕が書かせている僕の別人格……というよりももっと表層的な、演じられた「普通の人」によって書かれている。
僕は僕自身になりきれない。
当然だ。僕は僕自身を見捨てたのだから。
どうでもいいと言って。くだらないと言って。
僕は、僕自身がなりたいといった姿形を否定した。不可能であると言ったのではなく、そんなことには価値がないと言った。どうでもいいと言って、忘れろと言った。あるいは、お前がそんなことを欲するのは、これこれこういう原始的な本能によるもので、ありふれた、食欲や性欲に準ずるような、つまらない凡庸なものだと言った。
そうして僕は、僕自身がかつて抱いていたあらゆる理想を失い、同時に、何かを求める心も、何か行動を起こす動機も、すべてを失い、ただその残骸だけが残った。
これを書かせているのも、そういった「壊れてしまった僕自身の残骸」なのだろう。
寂しく思うけれど、後悔はできない。そもそも、あの日々には絶対に戻りたくないとしか思えない。
あれは苦しかったし、悲しかった。耐えがたいほどに。いや、耐えられなかったから、こうなったのだ。
だから、それに耐えられる人や、耐え続けている人を羨ましく思うのは、その人の経験や体験を羨んでいるのではなく、その忍耐力を羨んでいるのかもしれない。
僕は僕自身に付き合いきれなかったのだ。
放っておいてくれ。僕は自分自身に対しても、外の世界に対しても、そういう態度で生きるようになった。
そうするようになってから、格段に生きるのが楽になった。
その対価として僕は、「僕自身」を失ったのだ。
それを悪いことだったとは思わない。それは必然であり、どうにもならないことだった。
それだけのことだ。