翻訳論
翻訳とは、道を敷くことである。
翻訳という行為は、しばしば創造的であるか否か、原作に忠実であるか否かといった二項対立で語られてきた。しかし、翻訳の本質はそのいずれにも還元できない。翻訳には根源的な優劣や唯一の正解は存在せず、何を対象とし、何を目的とするかによって、適切なやり方は常に変わる。
翻訳は人間の仕事である以上、優れたものにも、拙いものにもなりうる。それは芸術のように称賛されることもあれば、失敗として批判されることもある。しかし翻訳の価値は、作品そのものの価値とは別の領域にある。翻訳は、価値を生み出すというよりも、価値が生じうる前提を整える行為である。
翻訳の役割は、異なる言語や文化のあいだに「通行可能性」を与えることにある。通りやすい翻訳もあれば、あえて通りにくくする翻訳もありうる。場合によっては、翻訳しない、あるいは整備しないという判断が最良であることすらある。すべてを平坦にすればよいわけではないし、常に多くの人に届けばよいわけでもない。
このように考えると、翻訳者という職業の位置づけも明確になる。翻訳者は、言語の世界におけるエッセンシャルワーカーの一種である。彼らは不可欠な仕事を担っており、その仕事自体に対しては、常に一定の敬意と感謝が払われるべきである。
たとえ翻訳の出来が悪かったとしても、その仕事と翻訳者個人の人格や思想を直結させて評価するのは適切ではない。
作家は、自らの人生や価値観に基づいて作品を書き、その内容に倫理的責任を負う。
一方で翻訳者は、自分の思想を表現するためではなく、職業上の要請に従って仕事をしている。したがって、翻訳者が評価されるべきなのは、その倫理観や世界観ではなく、仕事の腕である。
もちろん、翻訳に訳者の価値観や倫理が入り込むことは避けられない。しかし、それをどの程度混入させ、どのように制御し、読者にどのような影響を与えるかは、思想の問題というより技術の問題である。優れた翻訳ほど、その介入は意識的に制御され、狙い通りの効果を発揮する。
翻訳とは、作品に代わって語ることではなく、異なる地点にその成果物を届ける試みである。
道の敷き方は無数にあり、地形に応じて適したものを選ばなければならない。
そしてその道がどのようなものであっても、読者はその道をたどるより他はない。
それゆえに、翻訳者は作者が負うのとは異なる、厳しく誇り高い責任を負っているのである。




