幸福と鍛造
僕らの人生は有限であり、僕らは直感的にこう思う。
「誰かの幸せを心から願うことは、とても美しいことだ」
人はそこで立ち止まるだろう。僕もそこで立ち止まれていたらよかったのに。
「では、それが別の誰かの不幸をもたらすとしたら? それでもそれは美しいことと言えるのか? 愛する人を幸せにするために愛していない人を傷つけることが正しいことなら、人は自分が愛していない人を傷つけ、愛されていない人に傷つけられるだけの人生を歩むことになる。自分の愛する人もまた、自分以外の誰かに傷つけられる」
もし私に先生がいたら、先生はこういっただろう。
「その通り。だから人を愛してはいけないのだ。お前自身も含め、何も愛さず、何も害さずに生きるのがよい。そうすることでしか、俺たちが醜くならずに生きる方法はないだろう」
私には先生がいなかったから、そう言ってくれる人はいなかった。そして私はいまだに何かを愛することをやめられないし、私は誰かを傷つけ、誰かに傷つけられながら生きている。
そしてその一連の流れに、相も変わらず本能的な美しさを感じているのだ。
愛することが好きなら、地獄だって愛さないといけない。きっと極楽に愛はないだろうが、地獄は愛で満ちている。
誰かの幸福を想うとき、私たちはその誰か以外の相対的な不幸を願うことになってしまう。少なくともその誰かと同じ幸福を、他のすべての人間が享受している世界を私たちは嫌悪する。私たちの幸福はどこまでも相対的であると同時に独りよがりで、決してまともなものとは言えないのだから。
私の哲学的な立場は一言で言えば反幸福論である。幸福の価値を否定しているのではなく、幸福を人間の最終目標に置くことが反対なのである。なぜならそれは矛盾した概念だから。それは決して実現せず、己を傷つけ続ける概念だから。
誰かの幸福のための献身がどれだけ美しかろうとも、それが輝けば輝くほどにそれが得られなかった人々の惨めさは暗く深く沈んでいく。だからといって、献身などない方がいいなどということが言えるほど、私たちは成熟しておらず、その輝きに目がくらんで、涙を浮かべ、美しいと言ってしまうのだ。
私たちは美と愛に囚われており、それゆえに不幸であり、幸福でしかない。
間違い続ける人生なら、なぜ正しさに固執するのか。なぜ公平さを追い求め、盲目を拒絶するのか。私たちはなぜこれほどまでに矛盾しているのに、矛盾を嫌い、自らの目を曇らせてでもその一貫性を保とうとするのか。
そして他者の一貫性の崩れを許せずに、指摘せずにいられないのだろうか。それをもたらしているのは、私たちの気真面目さなのか、それとも悪意や邪悪さゆえなのだろうか。
鋼を打つ音が聞こえる。鍛造を愛する者は、自分がやっていることの意味など理解していなかったことだろうし、私たちが前向きであり、芸術家である限り、同じようであるしかないことだろう。




