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タイトル未定2024/06/07 15:59

 夏が近づいてきた。部屋の中は、pcの熱がこもるから暑い。エアコンは中がカビだらけで、掃除も面倒なので、しばらくつけていない。

 昨日26歳になった。特に感慨もない。誕生日の前日に親に言われて気づいたくらいだ。

 モラトリアムはあと二年弱、なのだろうか。僕にはよくわからない。大学を終わらせた後、どうするかは考えていない。

 こういう文章を書くだけでストレスが生じるからか、咳が出る。

 週五日八時間働くことがないのだけは確かだ。それ以外の労働方法も、基本的にしない。機会は待つが、自分からは絶対に動かない。差し伸べられた手は掴むが、自分で立ち上がることも、何かを探すこともしない。

 一番いいのは、このまま生きて死ぬことだ。条件が提示されたときに、一番優先すべきことは、この生活を維持すること。

 他のことはどうでもいい。この生活を維持するのに役立つかどうか。今僕が人生に対して考えるべきことはこれだけなのだ。


 変化を求めなくなってから、小説を書くこともなくなった。現実逃避の必要がなくなったからだろう。

 その代わり、時々日記や随筆を書いている。書くことで心が落ち着くことに変わりはない。とはいえ、そもそも心が揺さぶられることが滅多にないし、すでに落ち着いているときにものを書いたりもする。

 特に意味などないのだ。単なる習性だから。


 最近、全部捨てたいと思うようになった。描いてきた絵、クラウドに保存している文章。

 今なら、死ぬ前に「全部燃やしてくれ」という人の気持ちがわかる気がする。それにどれだけ価値があろうと、どうでもいいのだ。どちらであってもそう大きく変わりはしない。変わるのは、僕の心労の有無だけだ。

 存在しなければ、それについて考える必要もなくなる。自分が創ってきたものに対して何かを思う必要がないというのは楽なことだ。


 穏やかに死んでいきたい。



 人生がゆっくりと死に近づいていくものだと考えるならば、焦って死に飛び込みにいく理由などまったくないのだ。

 放っておいても向こうからやってくる。なら、何もせずそれを待つこともまた、緩やかな自死と言えるのではないだろうか。

 自殺というのは、あまりに悲しすぎるし重すぎる。最近はそう思うようになった。「死ぬ」なんて当たり前のことのために、そんなに頑張ったり、そんなに苦しんだりするのは、なんというか、割に合わないように思うのだ。

 とはいえ、今生きることが、それ以上に苦しいから、人は今すぐ死にたがるのだ。ゆっくり死ぬにしても、その間ずっと拷問に耐えるのが嫌だから。

 そういう拷問がこの世界に存在するという事実がわかっていたらそれでいい。


 なぜかわからないが、僕に対する拷問は終わったのだ。

 他の人に対するソレについて、僕は手を出したり口を出したりする権利も能力も有していない。


 刑期満了、とでも言おうか。僕は青春を乗り越え、感情的に揺さぶられない、「空しい大人」の領域に辿り着いた。

 少しだけ誇らしく思う。僕に似た形質を持って生まれた人の中で、どれだけ多くの人がここまで生き残れるだろうか。僕は運がよかった。奇妙なほどに。

 でも時々、こんなに幸運じゃない方がよかったかもしれないと思うこともある。つまり、僕は青春の中のどこかのタイミングでちゃんと死んでおくべきだったのではないかと思うのだ。


 自分がそれほど悪い存在じゃないと知った。善い存在でもないことは最初から受け入れていたけれど。

 善いものを求めすぎないことを学んだ。時には悪を善よりも求めたっていい。


 苦しみたくないから、大きな欲望を持たなくなった。努力もしなくなった。自分を偽るのも、演じるのも、自らと相容れない誰かに従うのも。

 青春は、すべてが逆だった。大きすぎるほどの欲をもって、体を壊すほどの努力をして、理想の自分たらんと偽って、演じて、自分の認めていない目上の人のアドバイスに従った。心が引き裂かれ、この生活を続けるのに十分なほど、自分の心身が頑丈でないことを知った。

 憧れなくなった。一切を、軽視するようになった。

 崇拝しなくなった。軽蔑する前に目を背けて無視することを覚えた。

 馬鹿にして笑うことで、不快なことを忘れるすべを学んだ。


 人間はそんなに素晴らしい生き物でもなければ、どうしようもないほど残念な生き物でもないことを知った。

 他の動物たちとそう大きな違いはないのだと。


 心の中で誰かに感謝して生きるよりも、感謝しているそぶりだけ見せて、くそどうでもいいと思っている方が、自分にとっても相手にとっても有益であると知った。

 嘘や不誠実を憎んでも、自分が誠実で、正しい存在になるわけではないと知った。

 優しさは人間の習性であって、それ自体が価値を有しているわけではないと知った。

 見返りを求めないことが一番いいことではないのだと知った。

 小さな見返りがあった方が、相手も自分も気が楽なのだ。


 心は豊かでない方が、危険が少ない。精神的な意味においても、清貧であるべきなのだ。

 心の中に何も持っていないこと。単純であること。清潔であること。まぁそういうことを、心の豊かさだと思っている人もいるだろうが、僕はそう思わない。

 豊かな心とは、多くのものに心を動かされ、あらゆる刺激と選択に破滅の危険があるような心のことなのだ。詩人や、優しすぎる女性の心のことを、僕は豊かな心と呼ぶ。

 貧しい心とは、感情や感覚に乏しく、単純な反応しか示さない心のことだ。卑しく貧しい心の持ち主は、人に害を与えることを喜ぶだろうが、清く貧しい心の持ち主は、あらゆるものに関心を寄せず、人を助けたとしても、人を傷つけたとしても、何も感じない。豊かな心の持ち主なら、人を助けたなら喜び、人を傷つけたなら苦しみ悩むことだろう。

 貧しくあることのメリットは、この世界の卑しさに向き合わずに済むということだ。心が豊かなら、その分だけこの世の悪と向き合い、戦うことを強要される。

 僕にはそんな能力はないし、権利もない。だから、僕は貧しくあろうと欲したし、そうなりつつある。

 傷つきたくないと思うようになったわけじゃない。ただ、意味もなく傷つくことに疲れただけなのだ。


 傷だらけの心と体を誇るのをやめた。適当に隠して、これまで何もせずに、何も感じずに生きてきましたよ、という顔で生きるのが、一番いいのだと知った。


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