奴隷
奴隷を扱う店に行く夢を見た。私はそこにいる人々を「人間」とは思わなかった。
服はほとんど身に着けていなかった。ぼろきれを身にまとっているものもいたように思うが、ほぼ全員が裸で、そのことを恥じる様子もなかった。
男子よりも女子が多かった。健康状態は悪くなさそうだったし、衛生面もしっかり管理されているようだったが、身長はどれも低かった。
商人は身なりのいいすらっとした男で、高級な時計か、あるいは保険や金融関係会社のやり手の営業マンを思わせる風貌だった。
私はここに来ることを、不快感半分、楽しみ半分といった感覚で来ていたと思う。選ぶ自由。もしかすると、とても気に入る奴隷がいるかもしれない。
私は買い物に来ている。それも、よい買い物を。同時に、警戒もしていた。この商人の口車に乗せられて、あまりよくないものを掴まされたり、実際の価値以上に金を払ってしまうかもしれない。そういう気持ちもあった。
労働用の奴隷が置かれているエリアは、あまり興味がそそられなかった。それを察したのか、商人は自ら奥の部屋に案内した。そちらは、妙齢の女性ばかりが集められていて、それぞれが「トレーニング」を行っていた。
私は性的興奮こそ覚えなかったものの、それとは別のある種の喜びとその光景の滑稽さに対する優越感を感じた。
私はそこで等間隔で並べられて、トレーニングを行っている女性たちが、どれもこれも「ほとんど同じ」ように見えた。顔も体格もそれぞれ違っていたが、そいつらの精神が、ないわけではないだろうが、どれも画一的な「奴隷」であることに、私は満足を覚えていたのだと思う。ただ主人を喜ばせるための存在。それを刷り込ませるためのトレーニング。その奴隷たちは、誰一人その状況を嫌がってはいなかったし、苦しんでもいなかった。むしろ喜んでいるように見えた。
私が入ってきたのに気づいてからは、私の服や容姿を見て品定めを行う者もいた。わかりやすく媚びるような視線を投げかけるものもいたが、決して声は出さなかった。
「全員がこうなれるわけではないだろう」
「もちろん適材適所です」
そう言いながら、私に商品の説明と値段が書かれたボードを渡してきた。かなり値がはるが、それだけの価値はあるだろう。従順で、決して愚かではなく、性的に積極的で、そしてまだ若い。客人をもてなすのにも使えるし、もちろん自分で使うのにも問題はないだろう。
別の担当に連れられてきた知り合いの貴族があとから入ってきて、見てすぐ彼女らを気に入ったようで、あれとこれと、と指さしていた。どうやら7,8人まとめて購入するようだ。
「私はまた今度にするよ。もう少し用意してから」
「もしよければ、お好みの容姿や年齢をおっしゃっていただければ、用意しておきますよ」
「うん。それもあとで考えよう」
私は満足して、その売り場を後にした。
そこで目が覚めて思ったのだ。私はなぜその景色に、人道的な意味での不快感をほとんど感じなかったのだろうと。そこでは多くのものが、現代とは違ったところに線が引かれていた。当然のこととして受け入れられていた。それでも、同じ人間であるということは、確かにわかっていたはずだ。
権力の非対称性。そんな言葉が頭に浮かんだ。それを肯定すること。私は、もし自分が彼らの立場だったら、と考えなかった。考える必要もなかった。なぜかといえば、そうはならなかったからだ。たとえそうなったとして、自分を見に来る金持ちたちを見て、もし自分が彼らだったとしたら、なんて考えなかったことだろう。
現代は精神が均質化して、立場が人を定義するその程度が下がっているのかもしれない。私たちは誰を見ても、どんな人生を歩み、どんなことをしている人間を見ても、その人間が考えていることや味わっているであろう感情を推察し、共感しようとする。
それがどれだけ世界を息苦しくしていることか。でもそれで、自分自身の息苦しさを感じずに済む人が減っているのかもしれない。現代に奴隷は認められていないから、奴隷として生まれることによって苦しむ人はいなくなっている。しかしそれが、先ほど述べたような想像力と共感によるものだとはっきり言えるわけではない。もっと利己的で、社会的で、成り行き任せの結果として奴隷制がなくなったにすぎないのだとすれば、それがあった時代と比べ、私たちの時代が幸せな時代であると、自信をもって言うことはできないような気がしたのだ。




