自称プラトン主義者
現代の哲学を学ぶ上で問わなければならないことがひとつある。
私たちはその本を読むとき、いったい何を裏側に見るべきなのだろうか、という問いだ。
たとえば、小説を読むとき、私たちは普通、そこにある「フィクション」を読む。実在もしなければ、誰かが実在していると思い込んでいるわけでもない、ある人物の頭の中で作られた一連の流れや情景といったものを、自分流に解釈してそれを取り込んで、それを楽しみにしたり、あるいは学びとしたりする。この場合、私たちは物語の「裏側」に、「実在しない一連の流れ」を見ている。それが「ある」あるいは「本質」として仮定しながら読んでいる。
新聞などはどうだろうか。その場合は事実やデータ、あるいはその解釈というものが、その裏側にあることを前提に読むのではなかろうか。
ここでいう私が用いた「裏側」という表現は、すなわち、明文化されておらず、多くの場合で意識の上にも上がってこないが、読む際に必ず私たちがその範囲を決定し、前提としているものである。
では、歴史上、哲学の裏側には何があっただろうか。18世紀以前であるならば、それは単純明快である。真実であったり、その断片や解釈である。プラトンの洞窟の比喩が哲学で今でもよく用いられるのは、哲学というものが、他の文化的な活動と比べてどのような特徴を持っているか非常にわかりやすく示されたものであるからだろう。物語が虚構に、新聞や報道が事実を裏側に前提として持っているように、哲学は真実を、あるいは普遍的な諸法則を裏側に持っているものであった。
現代において、その役割は科学が担っている。本当に科学が真実や普遍的な諸法則を導き出し、確定できるといった議論は脇に避けておくとしても、それが前提として期待されているという実情は確かにある。そして私たちが、科学本や論文を読む際、その裏側に見ているのは、真実、あるいは論理の正しさ(もし学問にあかるいものであるなら、正確性や蓋然性であろうが、それもまた真実というジャンルの一領域と見ていいだろう)であろう。
ここで気を付けるべきポイントは、科学にまつわる本を私たちが読む際、そこに「人」というものを裏側に前提しない点である。誰が書いたとしても、そこに書かれた実験結果であったりその結論であったり、その活動それ自体に価値を置き、評価する。であるから、その本を書いた人間や実験を行った人間の「精神」自体は一切評価せず、あくまでそのアイデアの新規性や、精度、方法の正しさや優劣でよしあしを判断するのである。
エッセイやジャーナリズムは、その裏側に「人」を見ることが多い。その人物像が優れていたり、共感を得られたり、ものごとの新たな側面を見せてくれたりした場合、高く評価される。
そう。現代の哲学は、学問から離れ、エッセイやジャーナリズムに接近しつつあるのではないか、と私は考えている。20世紀、哲学はその裏側に「言語」を持とうとした時期はあるが、それは失敗に終わった。言語そのものを哲学的に扱い、数学のように正確で、独立した領域として扱おうとしたが、その流動性や多義性、恣意性に阻まれ、哲学はその本質に言語を置くことができなくなった。
その結果、哲学は現象学であったり心理学であったり実存主義であったりといった、より「個々人の主観」に焦点を当てたものに近付いていき、事実や真実といったものの扱いが非常に難しくなって、昔のようにそれらを裏側に置くことができないものが増えて、それらが主流になってしまった。
結果として、現代の哲学研究のほとんどは、過去の哲学者たちの信念であったり人格であったりを分析したり、他の者たちとの関連性をまとめたりするものとなっている。それはまさに「真実」や「法則」を裏側に持つのではなく、まさに「人」を裏側に持つ、伝記的側面に他ならない。
それとは別に、現代特有の現象、SNSであったり大衆文化、政治などについて論ずる者たちもいて、彼らもよく哲学者と呼ばれる。彼らも本を出しているが、私はこの系譜においても、その裏側にあるのは「真実」や「法則」ではないと考えている。彼らが裏側に持っているのは「思考」である。自分がどのように考え、また他の人たちがどのように考えるようになるか、そのようなことが意識して書かれており、読む際にも、そこに書かれた内容を自分がどのように吸収し、自分の思考に組み込んでいくか、ということを「裏側」に持ちながら読んでいく。
ここで私が言っている「思考」というものは、人格から個人性を剥ぎったものである。「メタ認知」や「戦略的観点」といったラベルが張られた思考的様式は、もともとある個人が経験の中で学習していくもので、それらは通常、その個人の個人的な記憶であったり、生活習慣に結びついたものである。その中から、他の人間に当てはまらない部分を除き、共有できるものを強調して描き出せば、それは立派な共有可能な「思考」というものが出てくる。これが、実際生活に役立つのであれば、多くの人が得ようと考える。また、当然そこに金銭であったり名誉であったりが発生する。
以上が私の現状に対する認識だが、今がどうあるということと、今後どうあるべきかというのは別の考えていいことであろう。で、あるから、私たちは今後それが有用であるか無用であるかに問わず、哲学や文学を学び続けてしまうのであるが、それらをどのような態度で、どのようなものとして学んでいくべきなのか、ここで今一度考えていきたい。
まず、かつてのような「真実」のための探求が可能でないことを再確認しよう。そうしたかつての栄光に満ちた神的な探究活動である哲学は死んだ。科学にとってかわられ、神秘性や主体性、主観性といったものは剥ぎ取られ、非人格的な作業の連続によって、有用な事実や法則がどんどん明るみに出され、それらが人々の生活に直接的に影響を与えている。哲学は、科学に、真実や法則といった領域では決して太刀打ちできない。学問と学問は戦わせるものではないと思う人もいるかもしれないが、これは一個人の中の内部での価値づけの問題である。何が正しいのか考える際、その「真実性」を判定するときに、科学に準拠するのか、哲学に準拠するのか、私たちは判断し、優劣をつけなければならない。私たちは、客観的な正しさを判断する際に、哲学を科学よりも信頼することはできない。
では、次に科学ではカバーできない領域について考えていこう。たとえば政治。たとえば個々人の信念、コミュニケーション、人生の選択などである。これらは、哲学が直接的に影響を及ぼし、善い面も悪い面も明確に存在するので、一般的にこれらに役立てるために哲学をたしなんでいる人間も多い。
いうなれば、科学では対応しづらい微小な領域における判断をよりよくするための学習。それが哲学である、というように考えられているのである。
実のところこれは、意識せずとも勝手に効力を発揮するものであり、また直感的にも、これが哲学の主目的とするのには違和感がある。これは哲学の副次的側面であるように、私には思われるのだ。
たとえば、アリストテレスから学んだアレクサンドロスが偉業を達成したことは、アリストテレスの活動において、その成果の主要な部分だと考えるには違和感がある。たとえそれが、他のアリストテレスの活動よりもより大きな影響を世界に及ぼしたとしても、アリストテレスは王を育てるために学問をやっていたのではない。そういう意味において、私が今ここで問うているのは「哲学を学んだらどんないいことがあるのか」ではない。それはあくまで「そういうこともある」だけのことであって、それ自体が「裏側」にあるのは歪であると感じている。
哲学を、対象が曖昧であるがゆえに広範に生かすことのできるだけの実用書の一種と考えるのは、私にはどうにも納得できることではない。
ここで、「哲学することそれ自体が目的である」と言ったり、あるいは「ここまで述べた様々な裏側をすべて内に含んでいるのが哲学である」と言ったりして、いい感じに結論づけるのはそう難しいことではないが、誠実とは言えまい。
はっきり言ってしまえば、私を今でも哲学書を読む際、混乱することがある。内容にではない。内容は理解できる。面白いと思うことがある。混乱するのは、「いったい何のために?」という問いへの回答が欠けていることにである。読むという行為それ自体に納得ができないのである。また、たとえば本を読む際に、その本を書いた作者の心理状態を考えながら読むことが推奨されるような本がこの世には存在するが、哲学書にもそういった側面は多分に含まれていることが多い。だが、それをどの程度のウェイトでやるべきか、その指標が私の中で定まっていないのである。
もし私が試験のための参考書を読むのなら、たとえ内容が理解できずとも、そのような混乱は起きない。学ぶために読んでいるからである。学ぶのに適した読み方を探せばいいだけで、××に適した読み方の××の部分が不明である、というような混乱は起きないのである。
小説において、新聞においても、ネット記事においても同様である。読む理由も目的も明確である。それゆえに、よしあしが判断しやすい。
しかし、現代においては、それが非常に難しい。それは現代の著作物を読む際も、古典を読む際も同じである。
哲学には、一種の奇妙な魅力があり、私たちはそれに自然と惹かれ、時々それを手に取って没頭してしまう。だから私たちという人間にとって、哲学が有用であるかどうかなどどうでもいいし、それが何の役に立つのかということもどうでもいい。たとえ無用でも読むし、それどころか、害を与えるものであったとしても、読む。酒のようなものであるから。
ただ、酒と違うのは、酒は必ずアルコールが入っていて、脳に悪影響を与えることで気持ちよくなることができるという明確な「前提」があるのに対し、哲学にはそれがないことである。それも、もともとないのではなく、明確に、それも、他のあらゆるジャンルよりも明確で確かなものとして過去にあったにもかかわらず、現在は失われてしまった、という不在の強調が行われているということなのである。
現代の哲学は、ただ存在しているだけで、あるべきものがないという不在の強調となってしまっているように私には思われる。
ただ、語らないこと、決して手の届かない場所に真実を置くことによって、信ずるということの価値を極限まで高めるだけが可能であると私は思っていて、結局私が哲学について考えるたび、その結論に至るのである。
それは、無限とも思える程広大な迷宮の中で、他の者たちが立ち止まっているのも気にせず、必ずどこに出口があるはずだと信じて歩き続ける者に似ている。どうせ歩くしかないのだから、出口がないと信じるよりも、出口があるかないかわからないと理性的に結論するよりも、出口は必ずあると信じながら、黙して歩み続けるのがもっとも正しいことなのではないだろうか。
だから、結局のところ、私はプラトンと同様に、哲学が、何らかの形であるものへと通ずる道であると信じているのである。




