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日常


 机の上に転がっているいろいろな種類の筆記用具。鉛筆。普通の2Bのやつと、デッサン用のもっと太いやつ、細いやつと。万年筆に、一本で複数の色を使い分けられるボールペン。シャーペンはない。

 パックジュースのストローを入れるための包装。セロハンテープの切れ端。耳かき。モニターの土台のほこり。どの部品についていたか忘れ去られた太いネジ。


 本棚の本には埃が積もっている。最近は、参考書以外の本を繰り返し読まなくなった。

 ネット記事ばかり読んでいる。文字の本来の居場所はどっちだっただろうか。もう私にはわからなくなっている。


 作家連中は馬鹿だから、ある人間がどんな人間であろうと、そいつの書いたものを買って読んでくれたら、それだけで感謝して好意を抱くことだろう。

 作家に限らず、世の中全部がそうなのだろうか。生きるために役立つすべてのものに感謝して生きるなんてナンセンスだと直感的に思った少年時代。教育の場で全て否定された。


 自己利益の追求自体には、貧困の香りが漂う。ただ、自己利益の放棄にも、同様の悪臭があるのだ。

 

 感じていることと考えていることの不一致は、人間なら生きていればいくらでもある。それらをうまく調和させるために、どちらか、あるいはその両方を捻じ曲げながら生きていく。

 学者連中は考えていること、すなわち客観性の方に主観性を寄せようとする。ほとんどの人は、逆だ。

 健康なのはどちらだろうか。きっと個人に限れば、後者であろう。ただ、社会にとっては前者の方が健康的で、後者の人間ばかりがいる集団は、他の社会集団に迷惑をかける、いわゆる病的で不健全な者たちとして見なされることだろう。


 私たちはみんな愚かで、健気な動物なのだと言うことを忘れてはならない。


 限られた枠の外に飛び出したいのに、枠がどこにあるかすらわからない。

 開けた地平の上に立っている。かつて自分を縛り付けていた鳥かごが足元に転がっている。

 ここには何もない。たくさんの廃墟が立ち並んでいる。どれも、誰かを縛り付けていたものだ。

 あるいは、自らをそこに繋ぎ止めるための神殿だった。


 神はかつて、ひとつの枠組みだった。その外側を夢想することにも意味があった。

 枠があったから、意味があった。枠がなければ、何もない。すべては不条理で、無条件的に成立する。であれば、何かをつなげる必要もなく、ひいきする必要もない。

 生命と非生命の区別すらつかない。それを幸福だという人間もいるだろうが、私にはそうは思えない。

 不幸でないことが幸福であるというのであれば、どうして生きねばならないのだろうか。


 人間はすべて幸福を追求する生き物だが、それは単なる習性であって、それ以上のものではないと、はっきりそう言ってしまえばいいじゃないか。

 すべての動物が食事を必要とする、というのと何が違うのか。何も言っていないのと変わらないじゃないか。

 幸福とは何かを問う前に、食事とは何か、睡眠とは何かを問う方がずっと建設的であろう。少なくとも、そこで考えたことは生活に関連する。よりよくなるか、悪くなるかはギャンブルだ。

 正しいことが、人を健康にするわけじゃない。どうせ人間は老いて死ぬのだ。

 一生を健康に過ごすことが、病気がちで過ごすのとどう違うというのか。いずれにしろ、一回きりの固有の人生で、何をやっても実験的で、意味を持ったり持たなかったりする。苦しみに満ちた意味のある人生。苦しみはないが意味のない人生。別に極端同士を比較する必要もあるまい。実際は、人生は必ず苦痛に満ちており、意味を見出さずにいられないものなのだから。


 君の人生に私はいない。いつも思っていることだ。

 きっと私の人生にも君はいない。君が何を考え、何を迷い、何を決めて生きているかなんて、私にはわからないし、わかりたいとも思っていない。ただ君は、勝手に動いて、勝手に世界に繋がっている、外部的なもの。

 そう。だから私にとって、君の心は存在しているかどうかすらわからないもので、それに配慮するのも、あくまで私が社会の中で生きるために過ぎないのだ。

 私の世界に君はいないのだ。私の世界には私しかいない。

 私に理解できる人間しか私の世界にいないというのなら、この世界は何と貧しいのだろうか。

 それが嫌だから、人は自分が嫌いな人間にすら注目し、何か行動を起こし、繋がろうとするのだろう。

 たとえ完全に理解できずとも、そこにあると分かることの方がきっと、豊かで、生きるのに有利だから。

 なら、君の人生にも、私はいた方がいいのだろう。でも、いつも君の人生に私はいないのだ。君はただ、私を見て、君の中にある異なる材料を持って、架空の私を創り上げ、まるで理解したかのように感じ、その存在を認める。私は、私自身が見る私と、君が作り上げた私との間の差を見て、愕然とする。

 そう。君の世界に私は存在しない。そう考えて、私は、真っ暗闇にひとりぼっちで突っ立っているような気持ちになる。

 別の言い方をすれば、ひとりでいるほうがずっとマシだと思う。別の人間と接するかのように、自分と接している人間と関わるくらいなら。

 でもそれは互いにそうじゃないかと、私の中の別の人が言うのだ。そしておそらく、彼は正しい。そしてその正しさが、私を健康にしてくれるわけではないこともまた正しいのだ。


 ある人は言う。しかし、ある個人の世界にその人が存在していないことと、存在はしているが触れられないと感じていることは違うのではないか、と。その違いを明らかにすることは、重要なことなのではないか、と。

 比喩的に言い表すのであれば、ある文学作品の作者が生きているか、死んでいるかという違いであろう。いや、存在という観点でいえば、作者が明らかであるか、不詳であるかという違いか。もっと言えば、その作品自体の存在そのものの有無というところまで突き詰めることも可能であろう。

 何にしろこの概念はグラデーションだ。ある極地では、完全な無視。もう片方の極地では、存在は自らと隣り合っているが、その完全な理解は不可能であるという確信、すなわち、自己と自己の関係性こそが、存在を認めながら、触れられないと感じることの極地であろう。

 その中間に他者と自己の関係があるとして、どちらの極地にも救いはなく、同時に、その中間のどこかにもっともよい点があり、そこが救いになるというわけでもない。ただ、相対的に過ごしやすい場所や、そうした関係構造自体が気になりづらい部分、肯定的に捉えやすい地点なら存在するであろう。


 気分が悪いな。

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