知らんけど
精神的に区切りがついたと感じたので、書かせていただきました。
十五歳のころから不登校で、十九歳のころに自殺未遂、その後も特によいニュースは何もなく、客観的に見ても主観的に見てもかなり悲惨な日々を過ごしてまいりました。生き延びるために考えたことのひとつに「二十五歳まではとりあえず生きる」というのがありました。昨年二十五になり、まだ精神的な痛みは消え去りませんでしたが、少なくとも十代や二十前後の時期よりも、比較的楽に生きられるようになっていたため、そのときには「この調子なら三十くらいまでなら耐えられそうだ」と思ったのを覚えています。
それから半年がたったのですが、不思議なことに先月(2024年になってから)に入ってから「死にたい」と思う頻度がかなり減りました。もともと一日の間に数回~数十回だったのですが、最近は一日のうちに一度もそう思わない日があるくらいです。
ふと立ち止まってものを考える時でも、考え方に変化が生まれました。端的に言えば、ものごとをじょうずに「無価値化」できるようになりました。何か嫌なことを言う人がいても、昔なら「その人にもそういうことを言うだけの事情や理由がある」「それについて、自分の立場でも真剣に、誠実に考えなくてはならない」と、いちいち受け止めていましたが、今は「その人も私自身も等しく価値がないのだから、その言葉にだった大した価値はないさ」「その人にとって、『私』など存在していないも同然なのだから、それを受け入れて、存在していないかのようにふるまった方がいいな」と、無理せず、自然に思えるようになりました。
この複雑で厄介な「自分」という存在を、他者に対して弁明する必要性を感じなくなりました。「私は他の人たちにとって透明人間(あるいは通行人A)でいいのだ」と思えるようになりました。
他の人たちにとって大切なことの一切を、私自身の主観として「クソほどどうでもいい」と思えるようになりました。そう思いながら、態度として、相手に寄り添っているふりが楽にできるようになりました。正確には、相手と一緒にいるときには、本心からごくごく自然に相手に寄り添って、ひとりきりになってその考えが私の体を重くしようとしたときに、無表情でそれを切り捨てられるようになったというわけです。
まだまだ先は長く、今後のことを考えるとうんざりしますが、死というのはいつだって気分次第で突然やってきてくれるものですし、わざわざ自分から迎えに行ってあげる必要はないかなと今は思います。生きることに希望はありませんが、そんなものを持つ必要はまったくなく、くだらない動画を見て笑ったり、ゲームやスポーツの勝ち負けに一喜一憂するような、そんなありふれた娯楽で人生は十分耐えていけるんじゃないかと今は思っています。
まぁ、実のところ人間社会なんてそんな大したものではないので、何か嫌なことや気分の悪いことがあっても「馬鹿だなぁ」とあざ笑うくらいでちょうどいいのではないでしょうか。どうせどいつもこいつも、自分の本能と理性の区別すらろくにつけられませんし、私たち自身もそうなのですから、野生動物たちが自然の中で生きて死んでいくのを見るように、私たちも人間や自分自身を見ていればそれで十分なのではないでしょうか。知らんけど。