ちょっとまじめなはなし
昔自分の書いていたものを読み返して、少し痛々しい気持ちになった。と、同時に、自分の趣味が変化したことを痛切に感じた。
昔の自分は、なんでもはっきりと、わかりやすく書くことばかりを意識していた。また、できるだけ自分の感情や意見が正直に伝わるように書いていた。
できるかぎり自然に自分を表現しようとするそのさまは、かえって不自然で、気取っているように見えた。中途半端に読み手を意識して、あらゆる文章的技術を軽視してものを書くその様は、ただ「若い」、あるいは「若すぎる」としか言いようのないもののように思えた。
今の自分にも当然似たような「痛々しさ」「若さ」は含まれていると自覚する。あれからまだ二年程度しか経っていないのだし、文章のスタイル自体はそれほど大きく変化していない。影響を受けてきた作家が同一である以上、仕方がないのだと思う。
それにしても、自分が影響を受けてきた作家はどいつもこいつも癖が強く、それらがごちゃまぜになったら地獄のような文章が出来上がりそうだとふと思ったし、実際過去の自分の文章を見ると、少しそう思う。
迫力はある。大胆でもある。しかし、過ぎたるは、という話であり、うまく調和がとれていない。
そう。あれから自分が明確に変わったポイントは二点。そのひとつは調和である。もうひとつは沈黙である。余計なことはできる限り言わないこと。自分という存在を隠す際、追加の言葉によって隠すのではなく、言わないことによって隠すこと。
沈黙は、読み手に想像することを要求する。ただしそれは、想像力の劣っている人にとっては、それは単なる言葉たらずで独りよがりな文章になるわけで、過去の私はそういう人にも伝わるように物を書いていたのだ。でも私自身は想像力豊かで、行間を読める傾向を持った人間である。だから、想像力の欠けた人間の認識力については、それこそこちらでいちから想定しなくてはいけなくて、そこにはリアリティや思い遣りが欠けていたとまでは言わないが、間違いなくズレてはいた。
今の私はもはやすべてを語る必要はなく、途中で言うのをやめてもいいし、むしろその方が趣味に適っているともいえる。
正しく伝わらなくとも、読み手がそこから想像力をはたらかして、書き手が想像もしていなかったような、新しいものをそこから読み取ったってかまわないと思うようになった。
私は私の身を、つまり記された私の精神をもはや守る必要を感じなくなった。現実の世界においては何とも言えないが、言葉の世界においては、私は自分を世界に投げ出すことを知った。
それは自らの無価値さを知ることに等しかった。自分の言葉に、まったく価値がないことに同意することができたことによるところが大きい。
最低保証の価値がないということには、おそらくデメリットより多くのメリットがある。
自由と創造は、計算された価値からではなく、まったくの無価値からもたらされるものなのだろう。